プロローグ。
全くの処女作、乱文です。
誤字や理解しがたい部分などぜひおっしゃっていただけるとありがたいです!
夢を渡る。
そんな、『画期的な』ことができるようになったのはたった30年前のこと。人類史上最近だけれど、私が生まれる前に可能になったそれは、私には当たり前の事だった。だから母が言う、インターネットが普及するより早く人々に浸透していったそれが、麻薬の様に人々をひきつけ離さないという実感は私にはなかった。
30年前、ある情報セキュリティ会社と大学とで共同研究されたプログラムは人の脳に影響し夢を繋げていくという、使っているこっちがわけのわからない構造をしていた。インターネットとそこは変わらないのかもしれないが。違うのは、『夢』があくまで町の体裁をとり、人は決められた姿(姿はランダム、プログラムが決めているわけではないらしいが)でそこに暮らす。望んだ生活を望んだように。『夢』は一定の秩序をもって存在する。たとえば、飛ぶことができたり、言語の違う人としゃべれたり、会いたい人に会うことはできるが、盗む、殺す、など著しく秩序を乱すものは『夢』から排除される。といっても、やろうとした瞬間『現』に戻るだけではあるが。
発表された当初、『夢』はいろいろな人の交流を通じてインターネットと同じように新たなコミュニティを形成できる、距離空間によらず、『寝る』という動作をしていれば、多種の人に会えるというメリットが前面に打ち出されていたようだ。ネットをするよりは、言語を学ぶよりは、飛行機に乗るよりは、健康を害さないし、手っ取り早いし、なによりただ夢を見るよりは『面白い』。そんな理由と、各国で導入が推進された結果瞬く間にプログラムは広がり、ユーザーは全世界の人口の8割を超えた。学校では情報リテラシーと同時に「睡眠リテラシー」もカリキュラムに規定された。
ゲーム感覚の若者と、睡眠時間まで有効活用しようとする大人など様々な利害を伴い発展したシステムは、今、弊害を生じている。
寝るだけの簡単なお仕事です。
寝るのは誰しもすることだ。そして常に「起床」もセット。それは生理現象であり、社会のなんらかの歯車の一部である現代人には当たり前の事。
けれど、起きない人とているのだ。起きるという意思を捨て、半ば逃げるように、ネットや部屋に引きこもるように、彼らは夢に逃げ込み、そっと鍵をかける。
目覚めぬように、ここにいるのがさも当然であるとでもいうように、名前を変えて暮らしだす。
どちらが『夢』でどちらが『現』か。
人は奇なるものである。心をだまし、体をだまし、己をだまして、他人を欺く。
そしてそれは荘子の「胡蝶の夢」のように…。
1つ目は説明中心です。本体は次の回からです