16. 歌うこと ~Singing~ Ⅳ
街を出て、コンクリートの道を歩いた。辺りは草原になっている。蜂が飛んでいるのが見えた。あの時と同じだ。僕はそう思った。匡胤の横につき、しばらく話した。
「映画館まではだれくらいかかるんだ?」
「五分くらいだな。この道を真っ直ぐ行ったところにある」
「もしかして、僕の通ったトンネルまで行くのか?」僕の質問に彼は頷いた。
「そうだ。お前が通るはずだった、正しい道を歩くんだ。お前はもともと街へ行くべきではなかったからな」
「トンネルから、映画館までは近いの?」
「ああ近い。目と鼻の先っていう言葉があるが、まさにそれだ。本当にあいつがいなければ、何もかもうまくいっていたのに」
僕は何も言わなかった。むしろ僕は彼女と会ったからこそ、目的が達成できると考えていた。これは僕自身の気持ちの問題だから、匡胤には分からないことだ。だけど僕は反論しなかった。
「ところで、なぜマスターはなぜそんなところに?」
「よく分からんが、七色が織りなす演劇が見られる場所、とか言ってたな。あいつの考えていることは、どうも理解出来なくてな。なにしろ、一つの世界をまるごと作った人間だ。常人の踏み込める領域じゃないんだろう」
「でも僕は、それを理解しないといけないんでしょう?」
「もちろんそうだ。だが、心配しなくたっていい。お前はもう、マスターの心を理解している。やるべきことは簡単なはずだ」
そうだろうか。僕は不安で一杯だった。一人の人間を現実に戻すということ、それは言葉だけでは大きなことのように思えた。急に無言になった僕に匡胤が話しかけた。
「まさか、緊張してるのか。もともとマスターを閉じ込めていたのはイデアだったんだぞ。それが取り払われたっていうことは、最初の予定よりも任務が簡単になったということだ安心しろ。お前はあいつにきっかけを与えるだけでいい」
僕は途端ににやけ顔になった。
「ということはやっぱりイデアに会うことは良かったっていうことだ。旅がずいぶんと楽になったんだから」
「馬鹿いえ。そのためにどれだけの危険を冒したと思ってるんだ。時間だってだいぶかかったんだぞ」
彼が吐き捨てると、僕は頷いた。
過ぎゆく野原は様々な世界を現していた。僕はそれを俯瞰しながら観察した。僕の中にも様々な景色があった。その二つの世界を照らし合わせて、いったいどちらが美しく見えるだろう。僕は汚れている。その汚れは経験だったり、哀惜だったり。たくさんの色が重ねられて分からなくなっている。良いことも、悪いことも。そんな僕の景色と、純粋無垢な野原の景色。比べる要素はたくさんある。
僕は身体中の不安を抑えるため、無駄と分かっていながらも彼女を救う方法をシミュレートした。再現中、ある疑問が胸の中で沸々と飛び出してきた。僕はその疑問を彼に尋ねた。
「僕が無事目的を果たしてマスターを救ったら……。ここの世界はどうなるんだ?」
「消えちまうだろうな。俺もみんなも」
匡胤の言葉に僕は思わず声を出してしまった。彼はにんまりと笑った。
「知らなかったのか? 想像世界はマスターのためにあるんだ。この世界は、彼女が現実から逃げるためにつくった、いわば避難所みたいなもんだ。避難している人間がいなくなったら、存在価値だってなくなる。悲しいことだが、それが真実なんだ」
彼は比較的明るく言った。誤魔化しているわけではなく、本心からそう言っているように聞こえた。しかし僕は微笑み返すことが出来なかった。新たに知った真実に、罪の意識を感じた。
「責任重大ってことですか……」
「そんなに重くとるな。お前はマスターと同じで物事を悪い方に考えすぎるんだ。お前のすることは正しいことだ。俺のことは気にしないで、しっかりやれよ」
匡胤は僕の背中を叩いた。僕は四本の指で親指を握った。
モンゴルの大草原の中にそれはぽつんと存在した。映画館は僕の想像していたよりずっと小さなものだった。僕は試しに建物内をぐるっと一周してみた。一分とかからなかった。僕は不思議な気分がして、彼の方を見た。彼は予想通りの反応だな、という顔をした。
「お前RPGゲームを知ってるか。あれって外から見た建物の大きさに比べて、中はとても広くなってるだろう。この映画館はまさにそんな感じだ。現実を嫌っていたマスターはまず自分の建物から、『現実離れ』を心がけたんだ」
ゲームのことはよく知らなかったが、僕は納得した。しかし一つ気になったことがあった。
「僕の記憶はマスターのものなら、あなたの記憶はどこから来ているんですか」
「記憶か? 想像世界の人間は全部マスターと同義だぞ。ゲームのことはマスターから新たに教えてもらったんだ」
マスター。今さら実感したが、僕はマスターと初めて対面するのだ。彼女と会うために予備知識は必要だろう。僕は訊いてみた。
「マスターはどんな人でしたか。物静かな人? 芯が強い人?」
匡胤は口を大きく開いて笑った。
「お前は質問が多いな。彼女はお前と同じ性格だ。彼女と気が合うかどうか。それはお前しだいだ」
僕は点頭した。
匡胤とは入り口で別れ、一人で中に入った。それはまるでサーカステントのようなものだった。僕はまるで盗人にでもなるかのように恐る恐る歩いて行った。それはまさしく
「侵入」と呼べるものだった。
ロビーはとても冷たく、清潔な場所だった。当然客はいない。スタッフもいない。僕は広いロビーを少し確認すると、すぐさま回転ゲートへと歩を進めた。回転ゲートを通過するのに二分ほどかかったが、なんとか中に入ることが出来た。
赤い絨毯が敷かれた廊下をしばらく歩いた。壁も赤い。なぜ赤い絨毯を選んだのだろう。上品に見えるからだろうか、それとも単なる思い付きだろうか。いや、そもそもそんなことを考えること自体、必要のないことなのだろう。これが匡胤のさっき言っていた考えすぎというやつか。でも僕は何も考えずに、ただ歩くことはできないのだ。
目的の扉はすぐに見つかった。大きな映画館なのにシアターはたった一つしかないのか。
扉は木製で出来ており、金色に輝く棒状の取っ手がついていた。僕はそれを左手で掴み、扉を開けようとした。しかし掴もうとした左手がその行為を警告した。僕の目に銃剣が映ったのだ。僕は掴むのをやめた。今まで何を勉強してきたのだ。ここで過ちを犯していてはマスターも救えない。僕は扉にあるはずの傷を探した。
僕は剣を差し込んだ。
シアターの中はとても暗かった。人がいないことは分かっていたが、足音を立てずに進んだ。中が暗いということは当然上映中ということになるが、目に飛び込んできたスクリーンに映っていたのは、とても映画とは呼べないような代物だった。赤、青、黄。緑、青、藍。そして紫。虹を構成する七つの色が順序良く映るだけ。これじゃあ旧式の壊れたテレビ画面のようだ。僕はスクリーンに近づくため、階段を下りていった。マスターはどこにいるのだろう。自然と動かす脚が早くなった。僕を生み出したマスターとは何者なんだ。好奇心が沸いた。原動力が過熱して僕を走らせた。早く顔を見てみたかった。話をしてみたかった。
階段を全て下り、スクリーンの目の前まで近づいた。試しにスクリーンを触ってみたが、画面は相変わらずの七色だった。僕は何もできなかった。まるで間違って出演した大根役者のようで、ひどく惨めな気持ちになった。それでも僕は諦めずに、彼女に会うための方法を探した。
スクリーンと壁に格闘しながら、三十分ほど過ぎた。壁を触ったり、席を起こしてみたり、映し出されている七色の順番を考えてみたり。しかし、壁はずっと沈黙していたし、席を起こしても変化は見られなかった。スクリーンに映し出される色もまったくのランダムで法則性は見つけられなかった。
僕は最後の手段として、例のメッセージを唱えてみることにした。マスターはまだ警戒しているのかもしれない。アリババではないが、僕はやってみることにした。意味は解らなくても、脳裏にはしっかりと焼きついていた。
He began to run.
I sing in a place unrealistic.
Gorgeous colors went away and leave me.
I seek the light of seven colors.
唱え終わると、僕は何か声が聞こえたような気がして、すぐに壁に耳をあてた。蚊の鳴くようなか細い声が、微かに聞こえた。まさかと思い、僕は瞬きを繰り返した。彼女はスクリーンの向こう側にいるのだ。助けを求めるがごとくあらん限りの力で叫んでいる。どうにかして壁の向こうに行かなければならない。僕は拳を握って、壁を殴ってみた。壁はびくともせず、温かく包み込むような痛みだけが残った。どうやって彼女はあちら側へ行ったのだ。シアターには僕が入った道しか扉はなかった。抜け道はありそうにない。廊下に戻ろうにも扉はもう閉まりきっていて、開くことはないようだった。
僕は腕を組み、必死に可能性を探した。しかし、こういう時に限って知恵というものは出てこないものだ。だがこんなところで閉じ込められたまま、終わるわけにはいかない。彼女は僕の声に答えてくれている。僕も返事をしなければ。
彼女の願いをのせた、僕に出来ること。僕だけに出来ること。それが何か考えた。他の人と違うのは、銃剣がついていること。僕は左手を動かし、それをじっくりと眺めた。
どうやら返事は出せそうだった。
壁はまるでハリウッド映画によく使われるCGのように、盛大に砕けていった。破片が飛び散って、衝突しそうになったが僕は気にしなかった。孤独を乗り切った僕に怖いものなど何もない。
壁が壊れるのは一瞬でもあり、長い時間でもあった。僕は銃を撃つのを止め、スクリーンの向こう側へと、歩を進めていった。全ての役目を終えた銃剣は、ひびの入った音とともに粉々に砕けていった。僕は構わずに進んだ。
微かに聞こえていた彼女の声が、今度ははっきりと鮮明に聴こえてきた。僕はその声に導かれるように―――まるで夢遊病者のように―――歩いていった。今の僕の歩行を止められるのはマスターしかいない。ずっと人間らしさを求めていた自分でも、この時だけはロボットの僕に戻った。
【聴こえる……。聴こえるよ……。あなたの声が……。】
スクリーンの向こうは、コンサートホールになっていた。この大きさはシアターの五倍はあるだろう。形はヴィンヤード型をしていた。金色の明かりが、僕を歓迎するように激しく照らした。
僕はホールの一番高いところに立っていた。遥か遠くにステージも見える。
彼女はそこにいた。
僕は長く続く階段を下りていった。操られていても、抵抗しようとは思わなかった。足取りもおぼつかない。いまにもこけて落ちていきそうだ。でも僕は本来の目的のために進んだ。一歩一歩腕を動かし、足を動かし、涙を流し、単調な呼吸を繰り返した。
【届いているよ……。ちゃんと感じているよ……。】
彼女は歌っていた。黄金色に輝くステージの上で、無垢な瞳を僕に向けながら。その姿勢は凛としていて、普遍的なものにも見えた。僕はその清潔な声に聞き入った。汚れて見る影もなかった心が浄化されていくのが分かった。彼女の声は遠く遠く、響き渡ってゆく。僕は進みながらも圧倒されていた。僕が今まで悩み続けていたことは、いったいなんだったんだろう。僕はその素晴らしさに触れたくて、歩み続ける。その輝きに近づきたくて、腕を動かし続ける。
瞳の奥で生まれた水滴が、僕の視界を徐々にぼかしてゆく。もう、何もかもが分からなくなった。でもやるべきことは知っている。近く、遠く、近く、遠く……。
僕は目を瞑り、嘆きともとれるその歌声を目指して、階段を下りていった。目に入ってくる光を消したら、なおさら彼女の声が聞こえてくるような気がした。風に乗って、涙が床に落ちて、歩幅も狭くなって、意識も遠のいてゆく。彼女は歌を別の曲に変えた。その曲は僕の知っているメロディーと、僕の知っている歌詞で構成されていた。僕が生まれて最初に聴いた、血の通った人間の声。彼女にしか分からなかったその詩の意味が、どうしてか、この時だけは理解することが出来た。彼女は唄う。僕は口ずさむ。眼を閉じながら、どことなく間抜けな表情で。
【He began to run.
I sing in a place unrealistic.
Gorgeous colors went away and leave me.
I seek the light of seven colors.
Touch in your hands, hugged gently
The lights in mind, the lights of jewelry.
あなたは走り出した
私は想像の地で声を嗄らす
華やかな色は私を残してどこか遠くに
私は完全な色を捜している
あなたの手に触れて、そっと抱きしめて
宝石の明かりを、心に灯して。】
【現実はわたしを嫌っていていたはずだった。いや、わたしが嫌いになったから、現実がそれに答えてくれただけなのかな。どちらにせよ、わたしはもう逃げることができなかった。現実がそれを許してはくれなかった。自分が悪いことは、重々承知していた。あの時のわたしはわがままで自分勝手で、自己嫌悪が強くて、だけど自意識過剰な人間だった。だからイデアがわたしの代わりに想像世界を支配していることを知ったとき、わたしは自分の愚かさを笑った。可笑しくて可笑しくて仕方がなかった。想像が暴走してそれが止まらなくなっても、もう元に戻らなくてもいいとさえ思った。
でもわたしは現実に願いを込めることを選んだ。最後に勝手だけど、現実が許してくれることを期待した。そして、現実はわたしを受け入れてくれた。あの時のことをわたしは今でも忘れることができない。心についていたものが、みんなぱらぱらと取れていくの。救いだなんて言葉はあんまり使いたくないけれど、確かにあの瞬間、わたしが握りしめていたものはまさしく「救い」だった。穏やかに海は流れていた。街は永久に輝いているようだった。このチャンスを無駄にしちゃいけないと本気でそう思った。
イデアに閉じ込められる僅かな時間、わたしはあなたを造るため、様々な試行錯誤を重ねた。あなたを造りあげるのにどれだけの願いを込めたか、あなたはきっと知らないでしょう。本当ならもっと完全なロボットにしたかったけど、残念ながら時間切れ。あの時は確かにあなたのことを失敗作だと思ったことがあった。いま思えばそれは無知な考え。でも当時はそれが分からなかった。
そんなあなたが幾多の試練を乗り越え目の前にいる。わたしの視界にはっきりとその存在を示している。奇跡だと思った。不完全なロボットに、任務は遂行できない。これは常識だ。でもあなたはその常識を打ち破った。わたしの狭い視野に広がりを生み出した。堅苦しかった法則に例外をつくった。
あなたは涙を流している。これも信じられないこと。黙々と進むことだけを指示されたあなたが、人のために感情を見せ、芸術の美しさに酔いしれている。あなたが階段を下りるたび、わたしの唄声は強いものに変わっていく。あなたがわたしに近づくたび、わたしの心が強い脈を打つ。あなたに逢わなければ、こんな思いをすることはなかった。予測のつかないことが当たり前のように起こっている。わたしの想像を遥かに超える力をあなたは持っているのよ。想像世界に亀裂が入る。現実世界へと続く大事な扉が、いま開かれる。
少しでもいいから、少しの間だけでいいから。わたしはあなたに触れたい。現実に向かうこの数分の時間。わたしはあなたと共にいたい。ゆっくり話がしてみたい。駅の近くのカフェの外。白いテーブルにコーヒーが運ばれて。あなたと二人で会話をしながら、駅に向かう人を眺める。過ぎゆく時間、流れ去った過去。あなたのことをもっと知りたい。何でもないことを、くだらないことを。もっともっと共有したい。
マスターなんていう立派な名前はわたしには似合わない。わたしは孤独なだけ、感情の孤独に踊らされていただけ。
だからこそ、わたしは唄っている。自分の愚かさを確認するため、あなたにわたしを知ってもらうため。
わたしが唄う自分に向けたシュプレヒコール。あなたが歌うあなた自身のためのシュプレヒコール。】
シュプレヒコールが遠く奏でられてゆく。自分の存在を声高らかに主張するために、僕にとっての、あなたにとってのひとつの詩。スローガン。誰もが持つ、そのアイデンティティを自分の手で大切に育て上げなければならない。最初は自分だけのものだった芽が、だんだんと二人のものになり、やがてはもっと増えてゆく。守るべきものが多くなる。それは悲しいことか、喜ばしいことか。
僕は走り出した。
階段を全て下りると、僕は目線を上げて、彼女の姿をしばらく見つめた。彼女は僕の方を見ていた。僕も彼女を見ていた。それがとても美しい光景に僕は思えた。
現実を表す七色の彩りが僕と二人を取り囲んだ。僕は思わず微笑んだ。彼女はそれを見て微笑み返した。
想像世界が解けていき、弾けて飛んで、静寂の後に溶けてゆく。この感情はもう比喩に出来ない。何ものにも例えることが出来ないのだ。僕は再び涙をこぼした。
そのまま時間だけが過ぎていった。
彼女が歌いながらウインクをして、僕に合図を送る。
僕はステージに上がった。
完
九月から書き始め、終わったのは十二月。最初は短編のつもりで気軽な気持ちで書いていましたが、気が付けばこんなに長くなっていました。
マスターが青年に送っていたメッセージは英語を用いられていますが、作者自身の英語力が残念ながらゼロに等しいため、文法のミスがあるかと思います。何かありましたらご指摘をお願いします。
最後まで読んでいただきありがとうございました。