15. 歌うこと ~Singing~ Ⅲ
「あいつがどうしてああなったのか、お前に思いあたることはないのか?」
城に設置されてある螺旋状の階段を上りながら、匡胤は僕に訊ねた。
「どうなんだろう。彼女は内向的になることはあまりないから、深く考えたり、強く物事を考えるということはなかったと思う」
「そうか。お前にとってイデアってのはどういう存在なんだ?」
「難しい質問だな。でも単なる機械人形でしかない僕に『人間らしさ』とはどういうものかを教えてくれた人なんだ」
「ほう。たとえばどんな?」
「不完全なことは、自由に生きられることだって。僕には幸せになれる権利があるって」
「お前はそれを言われて嬉しかったのか」
「生まれてから、ずっと孤独だったんだ。あの時は純粋に…… 嬉しかった」
「今は?」
「今も…… たとえそれが僕を騙すための口車だったとしても、僕は彼女を信じたい」
彼は左のこめかみを小指でいじると、呆れたような顔をした。階段はもう少しで終わるところだった。
「本人に直接会ったことがない俺からすれば、あいつは俺の家族や仲間を奪った独裁者だ。俺はお前の気持ちが分からないし、お前も俺の気持ちが分からない。こうして考えるとイデアがどんな奴なのか少し気になってくる」
「ごめん。でも僕は彼女と二人きりで話したいんだ。彼女の方だってそれを望んでる」
城の入り口で、門番にこのことを言われた。イデアは僕に会いたがっている。早く話をしたいらしい。僕らは堂々と階段を歩いているのは、そういう訳である。
「分かってるさ、どうせ俺は付き添いなんだろう」
階段を上りきり、ベルサイユ宮殿の鏡の間を彷彿とさせる廊下を歩いた。目的の扉はすぐにたどり着いた。緊張していく経過が息を伝って僕に届いていく。抑えようとするが、うまくコントロールが出来ない。
匡胤はそんな僕を見て、潤いのない笑い方をした。しかし僕にはそれが嬉しかった。
「行って来い。もし殴られたら、真っ先に俺を呼ぶんだぞ」
僕は顔をほころばすと、彼を安心させるため―――自分を安心させるため―――大きく頷いた。
剣を差し込む必要もなく、鋼鉄の扉は開いた。会議室でも休憩室でも寝室でもない部屋。僕は中に入った。
丸いテーブル。当然だが、ここに入るのは二回目だ。だけど初めて入るような気持ちもどこかにあった。それはこの部屋が依然と違って灯りが点いているからかもしれない。
彼女は例の場所に座っていた。扉に一番近い席。僕は何と声を掛ければいいか分からなかった。仕方がないので僕は黙って彼女の右隣に座ることにした。席に着くと僕は勇気出して、彼女の方に顔を向けた。彼女の俯いた横顔と遠くの窓が目に入った。窓の外は暗かった。閉まっていたので風の音も聞こえなかった。本当に何も聞こえなかった。
「綺麗ね。今日の月は」
彼女は雨が地面に着地したような音量でぼそりと言った。僕は「うん」とありふれた返事をした。実のところ今日は月を見ていなかった。
「たった数時間前のことよ。たった数時間で私の物語はこんなにも変わってしまった」まるで紙に書いた詩を朗読するように彼女は言った。
「イデア…… 君のせいじゃない。僕が悪かったんだ。僕が不完全だから。君に何もしてあげられないまま、僕は君を裏切ってしまった」
彼女は静かに目を閉じた。
「あなたが生まれて初めて感じた人を信じる心を、私は利用した。裏切ったのは私の方よ」
「それは違う。僕は今でも信じているんだ、君のことを」
「どうして?」
「え?」
「どうしてなの?」
彼女に問い詰められ、僕は頭が真っ白になった。僕は彼女の横顔を細かく見た。イデアは唇を噛みしめていた。
「あなたはいつもそう。どうして、もっと自分に自信が持てないの? 利用されてるのも、騙されてるのも、踊らされてることも分かっているのに、どうしてあなたは私を追及しないの。もっと、怒ってよ。叱ってきてよ。どうして、自分ばっかり責めるの? あなたは被害者なの。詐欺で言うならあなたはお金をむしり取られているの。どうしてそれが分からないの?」
僕は言葉につまった。夜の街が静かに鳴いた。
「私はね、あなたのように謙遜と純粋さで生きている人間の気持ちが痛いほどよく分かるの。でも、それを自覚していながら、その性格から抜け出そうと努力をしないあなたの心は理解できない。どうして耐えられるの? このままじゃいけないって、どうして思わないの……」
イデアは拳を握りしめ、机を叩いた。強さに弱さを混ぜたような虚しい音だった。
彼女の心はまるで環礁に落とされた水爆のようになっていた。こういうとき、僕はなんて声をかければいいのだ。迷った末に、僕は嘘のない響きで言葉を述べることにした。
「僕は自分が被害者だなんて思ったことは一度もない。詐欺師に騙されたとも思ってない。君は僕に『人間らしく生きるべき』だと言ってくれた。実際それが偽りのものだとしても、君の本心じゃないとしても、僕はとても嬉しかった。何も穢れのない響きで僕に届いたんだ。それなのに僕は、自分でそれを汚してしまった。人間らしく生きることは使命を果たせないことだと勝手に決めつけて、君を少しでも疑ってしまった。僕は自分に負けたんだ。自分自身に騙されたんだ」
「それが、あなたの自我なの?」イデアは息を吐くように言った。とてもか細い声だった。
「自我? 何のこと?」
「自分自身を虐げることがあなたの自我だっていうこと。あなたはそうやって自分を保ってきたの?」
「分からない。でも、それが自我だとか自我じゃないとか今はそんなのどうでもいいことだろう?」
「どうでもよくないわ」そう言うと彼女は突然立ち上がった。陳情するような眼差しで僕を見る。
「私はこの地に生まれてずっと自分の生きる意味について考えてきた。生まれたばかりの私は自信がなくて、引っ込み思案で、人とうまく関われなくて、淋しい日々を過ごしてた。こんな私を生んだマスターがひどく憎かった。マスターだって自分と同じ悩みを抱えていたのかもしれない。でも、だからこそ私は私なりの方法でアイデンティティを確立させてやろうと思ったの。私にとってマスターは女王気取りのわがまま娘よ。あの人は何一つやり遂げてない。何も努力しちゃいない。さんざん他人を振り回して自分だけ悲劇を演じていればそれで満足なの。だから私はあの人に対抗した。あの人より先に、あの人が願っているものを得ようとした。それだけのことよ」
「それだけじゃねえ、お前はそれ以上のことをしただろう」
僕は後ろを振り返った。イデアも驚いて後ろを見た。匡胤が扉を背にして、イデアを睨みつけていた。その目に荒れる憎悪の光を僕は身のがさなかった。
「お前はやりすぎたんだ。自分が何ものか知りたい。自分の存在を確認したい。それはお前とマスターだけじゃない。俺もこいつも、老婆も、街の人間も、村の人間も誰もが思っていることだ。だからお前の気持ちは俺にだって多少は分かる。だが、お前は自我を主張するあまり、俺の大事な人を奪いやがった。罪のない人たちを、自分を売り込むためだけに利用した。この罪は大きい。俺から見れば、お前よりもマスターの方がよっぽどましに思える。お前は限度を間違えた。絶対に越えてはならない境界線を越えてしまった。本当になんてことしてくれたんだよ…… この大馬鹿野郎」
匡胤はそう言うとイデアを憐れみの目で見つめた。それは彼なりの彼女に対する軽蔑表現にもとれた。彼女は何も言わず椅子に座り、項垂れた。
彼は次に僕の方を見た。
「行くぞ。こいつには他にも言いたいことが山ほどある。でもそれは自分で反省してもらうしかない。本物のわがまま娘がどっちだったか、長い間悩み続けるといい」
僕と彼女はその言葉に従うしかなかった。僕は最後の目的を果たさないといけないし、彼女は自分の犯した過ちについて悩み続けなければいけない。僕は腰を上げると、匡胤の方へと歩いた。彼女に何か言葉をかけたかったが、何も考えられなかった。過ちなら僕だって犯している。彼女と違うのは、規模の大きさだけだ。その違いが重要なことなのか、そうでないのか、僕には分からなかった。どちらにせよ、僕だって何かしら誰かを振り回しているのだ。本当に規模が違うだけ。規模が違うだけなのだ。僕に彼女を責める資格はない。それはマスターに対してもそうだ。僕は自分勝手な人間だ。それに今気づいた。不完全を言い訳にして、今まで自分を正当化してきたのだ。僕に自我があるとすれば、まさにそれが答えである。本当に死にたくなるほど情けない答えである。
僕は匡胤の後について、鋼鉄の扉を右手で触った。扉は長い間夜の光に照らされたせいで、とても冷たかった。僕は何も言わなかった。振り返って、彼女を見ることもしなかった。僕は変われただろうか。そんな疑問が頭のラインを駆け巡った。
僕はその中で生まれた曖昧に存在する悲しい気持ちを抱きながら、黙って扉を閉めた。重いドアは音を出すこともなく、部屋と僕の間に流れる空気を切断した。僕はそれを静けさのなかで目撃した。
イデアと話したのはそれが最後だった。