10. 争うこと ~Competing~ Ⅳ
いかだは僕の心を表すかのようにゆらゆらと揺れていた。多くの人々がそれを渡っている。まるで僕の心そのものも踏みつけられているようだった。
いかだの先には船があった。大きな船だ。ここまで近づいてみると、より一層大きく感じる。漫画に出てくる海賊船を思い出した。船は蒸気で動くものではなく帆船だった。遠くからでは分からなかったが、甲板には砲台が取り付けられていた。今は隠れているが、きっと船体にも砲台がいくつも準備されているのだろう。イデアはその船にいた。彼女は「天想会」のリーダーとして、乗組員に指示をとばしていた。僕はそれを見ながら、なぜか急に身震いがした。
空は橙色であり、陽は東の地平線と別れ、新たな旅の始まりを僕に告げていた。眼前に広がる海は色彩を描くことなく、空虚な世界を暗示しているようにも見えた。僕は深呼吸をして船に入ってゆく戦士たちを眺めた。そして左手につけられた銃剣に視線を移し、ゆっくりと歩き始めた。もう走る必要はなかった。
はしごを上がり、木製の甲板に足をつけた。乗組員がいないスペースまで歩き、船をこの場所から見渡した。改めて思うが巨大な船である。そう思った途端再び僕は身震いがした。今度はこの震えの正体が分かった。これは武者震いである。
それから僕はイデアの姿を探した。当然のごとく、甲板には多くの戦士たちが会話をしたり、剣術のトレーニングをしていたりと、場はひしめきあっていた。僕はその中をもみくちゃになりながらも進んでいった。彼女の名前を叫ぼうかとも思ったが止めた。彼らの注目を浴びるようなことは極力したくない。実をいうと僕は、練習中に他の人間たちと交流を深めることが出来なかったのだ。
船を一通り回ったが彼女の姿は見えなかった。となれば、狙うのはあそこだけである。僕は侵食がひどく進んだ木のドアを開け、船内へと足を踏み入れた。踏むたびにギーギーと音が鳴った。複数の意味で僕は不安になったが、構わず前へ進んでいった。
扉を開けて、すぐそばには階段があった。幅の広い白い階段だった。僕は下を覗き込んだ。どうやら宴会場かレストランになっているらしい。声のボリュームから、かなりの人数の人がそこにいると思われた。僕は一瞬引き返そうかと考えたが、勇気を出しゆっくりと、しかし確実に階段を下りていった。
白い階段の段数は二十ほどあった。広い宴会場に立ち、イデアを探した。今度は案外早くに見つかった。彼女はテーブルに座っていた。何やら肉が乗っているらしい。テーブルにはテーブルクロスのようなものは引かれておらず、木目が露わになっていた。不思議なことに彼女は一人でそのテーブルに座っていた。気軽でも、司令官と談笑するというのは、やはり戦士たちでも抵抗があるものなのだろうか。僕は異臭のする彼らたちを掻き分け、イデアの方に近づいていった。
イデアはすぐに僕の存在に気付いた。僕は少し安堵した。
「どうしたの?」彼女はさっそく僕に尋ねた。
「いや、他に居場所がなくってさ。気楽に話せる相手が君しかいないんだ」
そう言うと彼女は笑った。彼女が笑い顔を見るのは久しぶりだった。
「あなたが人見知りなのはマスターのせいかもね。彼女も他人と関わるのが苦手だったから」
「イデアは僕のことをどれだけ知っているんだい。一部? それとも、全部?」
「一部だけ。いくらあなたがロボットでも、心の中までは完全に理解することが出来ない。あなたを造ったマスターでさえ、あなたについてはわからないことだらけなのよ」
僕は頷いた。
「僕はまだ不完全なのかい?」
「まだ、というか永遠に不完全なんだと思う。あなたの場合はたまたま成功したケースだから、志が中途半端になってしまっているの」
「それは、つまり…… 僕は悪い意味で『自由』ってことなのかい?」
僕の問いかけに彼女は微笑んだ。
「そういう言い方は良くないんじゃないかしら。不完全っていうと聞こえは悪いけど、それは反対に人間らしく生きられるということでもあると思うの」
僕は戸惑った。
「人間らしく…… 生きる?」
彼女は強く頷いた。
「そう。あなたには幸せに生きる価値がある、と私は思うの。確かにあなたのアイデンティティとして『マスターが作った想像世界を守る』という使命があるけど、それはあくまでミッションとして存在しているだけで、あなた自身の自由まで縛り付けるようなものではないわ。あなたに意思がある以上、あなたの人権は必ず認められる。そう私は信じているし、真実だと思っているわ」
彼女はその透き通った目を僕に向けた。僕は彼女の目の奥に強い光を見た。口を開こうとしたが、何かが僕の唇をつまんでいるようで、言葉を発することが出来なかった。そんなほんの僅かな悪戦苦闘を、彼女は何も知らずに見つめていた。
ようやく抵抗が終わったとき、思わず口から飛び出してきたのはやはり戸惑いだった。
「僕には…… 食欲も無いんだよ? 数か月前は話すことも出来なかったんだよ? それでも僕に人権があるというのかい?」
彼女は頷いた。やはりそれは強い頷きだった。
「左手に、こんな見せかけの塊がつけられていても? 僕に名前がなくても? 君はそう言うのかい」
僕の言葉はだんだんと強くなっていった。周りにいた人たちが僕らを注目し始めた。
「それでも…… あなたは自由になるべきよ」
彼女は小さな声でそう言った。それは独り言にも聴こえるくらい、頼りなくて、か細い声だった。しかし僕はその声を聴いて黙ってしまった。僕がどんなに声を張り上げても、彼女が発したその小さな「ひとりごと」には敵わないような気がした。
「僕は、幸せになれるのかな?」僕は小さい声で言った。
彼女は少し間を置いてから、しっかりと頷いた。それもやはり強い頷きだった。
船はいつしか、現実に向かって波を揺らしていた。その速度は早くもなく、遅いわけでもなかった。
僕はそれ以上、波について考えることはなかった。
夜。
今夜は月がよく見える。甲板の上で体育座りをしながら、僕は思った。ついでに言うと星も見える。ここは山よりも谷よりも陸地よりも低い場所だが、空気はひどく澄み渡っていた。
夜空を眺めながら、僕はある一つのことに気付いた。僕が月を見たのはこれが初めてかもしれない。つまり僕は生まれて初めて(もしくは起動してから初めて)月を眺めることになるのだ。星だって同じだろう。名前は知っているが実物は見たことがない。でも、見ればそれが何ものかが分かる。これは僕がマスターの記憶を受けついでいるからなのだろう。僕があらゆる意味で不完全なのはその理由もあるかもしれない。あらゆる常識が崩壊して、あらゆる秩序が乱れ始めている。
空を見るのがなんだか辛くなった。僕は目を閉じて顔を下げた。
目を閉じながら、僕はあの「声」について考えてみることにした。あの「声」というのは僕が旅をスタートさせる合図になった(運動会の短距離走で使われるピストルのような)あの透明な美しい囁きのことである。洋館の老婆はあの声の主はマスター本人だと言った。だとしたら僕はあの声を通して動かされていたことになる。最初の声で、僕は宝石の山から脱出することができ、走り出すことが出来た。次に声を聴いたのは洋館で大きな扉の前にきたときだ。僕が傷に剣を差し込んだとき、どこからか流れ込んできたのだ。そして三度目……。僕が空を飛んでいる時だ。街の光景を見ていた際、三度目の声は僕の全身を包み込むようにやってきたのだ。いま思えば、三度目の声が一番美しく聞こえたような気がする。あれがいわゆるメール送信の時の赤外線の役目を果たしているのだとしたら、僕が言葉を話せるようになったのは確実にあの声のおかげだろう。マスターは遠くにいるようで、実は近くにいるのだ。僕はマスターが送ったメッセ―ジの意味を、有り余った時間で考えてみることにした。
とっくに忘れている。そう思ったが、記憶の隅を必死に探ると案外それは簡単にふっと沸いて出てきた。確かこんなフレーズだった気がする。
He began to run.
I sing in a place unrealistic.
Gorgeous colors went away and leave me.
僕はハッと顔を上げた。マスターに埋め込まれた記憶が正しければ、これは英語で語られている。どうして最初に聴いた時に気が付かなかったのだろう。あの時は不完全な部分が今よりも大きかったからだろうか。とにかくこの言葉の意味を解読することは、僕の旅にとってとても重要な意味を持つような気がした。時間なら降り積もった宝石の山のようにたっぷりとある。さっそく訳してみた。
(彼は……走った?)
(僕は非現実的な場所で歌う)
(豪華な色は僕を離れて行ってしまった?)
いったい、何のことやら…… さっぱりわからない。
きっと、詩でも詠もうとしているんだろう。うまく訳すことが出来れば、マスターという人間が少しでも理解できるかと期待したのだが、どうやら不完全な自分には無理な試みだったようだ。自分がもっと進化すれば、いつか分かる日がくるのだろう。僕はそれをひたすらに願うしかなかった。
そうだ。イデアならこの言葉を訳せるかもしれない。僕は目を少し大きくしたが、すぐに元の大きさに戻した。そんなことをするのはさすがに反則だと思い直したのだ。マスターは僕自身の力で答えを出すのを期待している。主人の意図はしっかりと読み取らなければならない。