1. 走ること ~Running~
走る道はひどく湿った荒野の地面だった。
彼は何かが足りないような気がしていた。それは、欲望や、愛情などという簡素なものではなく、もっと壮大で言葉に出来ないものだった。彼の長年培われてきた劣等感がそれらを支配していた。
向かい風。風の匂いと音から、彼は今の季節を感じ取った。
疾走中に彼は一件の古びた小屋を見つけた。木造で出来ており、この殺伐とした場所では、いかにもお似合いの建物である。そのまま通り過ぎることも考えたが、彼はそうしなかった。スピードを弱め、彼は歩き始めた。覚悟のせいか、強い風に酸素を奪われたのか彼は無意識に深呼吸をしていた。
小屋の壁はひどく冷たかった。ずいぶんと人の温かみに触れていないようだ。荒野の中にたった一軒だけぽつりと建つバラック。いったいなぜ、こんな場所にあるのだろうか。何の目的でここにあるのだろうか。考えだしたらきりがない。彼はそれ以上、思考を探ることを止めた。今はそんなことを考えるほどの余裕はなかったし、一日中走っていたことによる疲労感もあった。
ふと彼は、封筒がそこにあることに気が付いた。そこというのは、六畳ほどの狭い部屋に不自然にも思えるほど隅に置かれた机のことだった。封筒はその上にあった。
彼はその封筒に近づいた。それが目に映ったとたん、中を見てみたい衝動に駆られたのだ。他人のものを許可なく覗いてはいけないという良心は、すでに好奇心に支配されていた。
右手にそれを持ち、傷ついた左手で中を探った。出てきたのは、彼の予想した通り、一枚の便箋だった。ここまで来たからにはもう引き返せない。彼は二つ折りにされた便箋を開けた。
【ここにいる人間はもはや俺一人だけとなってしまった。昨晩からずっと眠れない日々が続いている。原因は恐らく、三日前に連れて行かれた家族のことだろう。いや、五日前の大雨のせいか。もしくは一年前に起きた飢饉が今年もやってくるかと思い、不安に駆られているだけなのか。いずれにせよ真相は分からない。自分のことなのに、なぜ分からないのか。思えばそのように感じたときに来る、この嘆かわしさも不眠の原因なのかもしれない。
俺はひどく疲れている。家族が潰されたということは、俺もいつか同じ目に遭うだろう。今の状態では、逃げる事も出来ない。このまま静かに時を待つしかないのだろう。 匡胤 】
手紙を読んだ彼は、封筒に紙をしまうことも忘れ、そのまま汚れた地面にしゃがみこんだ。文字を読んだだけなのに、無慈悲な哀しみが身体に侵入してくるのを感じた。
どうやらこの手紙を書いた人間は、これを書記していた後に捕まったらしい。小屋が殺伐としているのは、侵入者による暴挙の後の静けさなのだろう。彼は深くうつむいた。
彼は自分の左手を高く上げた。冷酷に光る銀色の銃剣。この兵器は取り付けられているものなのか、もう体の一部となってしまっているのか、彼自身にも分からなかった。ただ一つ分かることは、自分の生きていく使命をまさに象徴するものだということだけだった。
小屋の外ではすでに陽が落ちていた。人間を失くした寂れた村は、ここが村と呼ばれなくなることをひたすらに祈っていた。
彼には名前がなかった。彼は、自分がなぜ走っているのか、左手に取り付けられた武具の意味や、身の回りに起こる不可思議なことの因果が全く分からずにいた。記憶の先端を追いかければ、彼は色とりどりに輝く宝石の山に埋もれていた。宝石と言っても、材質はただの石ころである。その中で、長い間寝かされていた彼の身体状態は、すでに窒息寸前のところまで達していた。彼内部の酸素がほぼ使用され、心臓のリズムに妨げが生じたとき、彼はようやく眠りから覚めることができた。
目が覚めて、彼が最初に行ったことは、この天より積み重なる宝石からの脱出だった。しかし、「脱出」といっても、そこまで壮大に冒険心をくすぐるようなものではなかった。なぜなら、記憶を失くした彼にとってここは彼自身が産まれたスタートであり、彼自身のホームベースでもあった。ここから全てが始まって行くことは、始まったばかりの彼でも理解できた。
全身が痺れていた。その痺れは電気が流れたような痺れではなく、宝石の壁に身体を掴まれたようなものだった。脊髄を損傷したような、脳が死んでいるような、不思議な状況だった。以上のような感情を彼は、後になって知った。当時の彼は「痺れ」も「不思議」も知らない心持ちだったのだ。
そうしているうちに、彼の酸素濃度はとうとうゼロを迎えることになった。彼はその時「苦しさ」を覚えた。それと同時に「死」というものにも接触した。「死」は一般的に考えるような哀愁に満ちた、黒くダークなものではなく、白い色をした魂の塊だった。奴は朦朧としている彼に近づくと、その純白で透き通った手を差し出し、握手を求めてきた。
彼は返事に困った。死との接触は人類が最期に経験する、大いなる夢の儀式である。孤独の彼は、自分だけの意思で判断を下すことになった。
彼は跳ね起きた。入ってきた酸素をつむじから足の先まで取り込んだ。体の痺れはいつの間にか抜けていた。宝石の山を守っていたバランスが揺らぎだし、とうとう崩壊する。落ちてきた石粒に、彼は顔をしかめた。脳天の痛みが引いていくのを待った後、彼は思いのままに身体を動かした。右手の指、足の指、首の回転、多彩な表情の作成。
そこで彼は、左手に妙な違和感を覚えた。慌てて確認すると、黒と白のグラデーションがされた、鉄の固まりがそこにはあった。何かがおかしい、変だ。とっさに彼はそう感じた。右手は軽く、素早く動かすことが出来るが、左手は重く、冷たい。左右不対象な不自然さを、彼は本能で感じ取った。その疑問と恐怖に彼は右手を使い、その鋼鉄の物体をもぎ取ろうとした。しかしそのマターは非常に頑丈に取り付けられており、とても分離できるものではなかった。彼は諦め、先ほど思った違和感は気のせいで、自分はこれが正常な姿なのだと思い込むようにした。そして彼は自分の興味を、左手ではなく両端の足の方へと移した。これは…… 面白く動く。彼は自分の足を、何か奇異な生き物を見るような目で観察していた。
彼は宝石の山が、崩れすぎて山と呼べなくなるまで足を動かし続けていた。その時間に「歩く」という行為を覚え、「走る」という行為も覚えた。手も彼にとって興味をそそる物の一つだったが、足の自由さに比べれば劣るものだった。足を動かすことは、素晴らしい行為だ。
ずっとそのままそうしていたいと、彼が誘惑の蜜を吸っていたとき、ふとどこかから音が流れているのを聴いた。それが後になって「声」と呼ばれるものだったことを、彼はその時気付いていなかった。侵入してくる音を彼は最初、全身を使って取り込んでいるのだと思った。しかし顔の横に取りついている「それ」に手をかざすと、音が変化していくことを知り、そこでようやく、ここに「それ」がついている意味と機能を悟ることとなった。
聴こえる音が一体どんな音なのか、記憶を忘れた彼では理解できないだろうと思うかもしれないが、どうしてか彼は、それがどんな音なのか、しかと聴きとることができた。しかも正確に、それがどんな主旋律で構築されているかということも。
これは「言語」だ。これは「意志」だ。音のレールが彼の耳へと繋がり、終点である彼の脳内、または心へと繋ぐ。それが声ということは分からなかったのに、それが言語だということは聴きとることが出来たのである。
彼は夢中でその旋律に聴き入った。同じ言葉を何度も何度も繰り返している。それが何と言っているかを悟った時、彼の体の中で血流が激しく左右するのを感じた。自分の思考が、宇宙の果てに飛んでいってしまい、残ったのは殻だけになった。
He began to run. He began to run. He began to run.……
彼は走り出した。
日が新たに昇り始めた。小屋を出た彼は、これで十六度目となる朝日の鑑賞にふけっていた。朱く光るその造形に、白い斑模様がそれを美しい作品としてそこにいる。白といえば「死」を連想してしまうのが、彼の脳内の記憶であったが、この朝陽だけは、その白とは一線を画する新たな白色と受けとることができた。
真っ赤とはいえないその朝日は、この荒野一帯の緊張を緩和し、この地に新たな生命を宿らせている。しかし太陽の壮大な努力もむなしく、荒野は一向にその形を変えることはない。彼はそれを悟っては、毎度のように項垂れるのだった。天のような莫大な力があっても、この場所に文明を築くことはできない。彼はその事実を思い出すたび、虚しさとノスタルジアの狭間の感情を心に宿すことになるのだった。
やがて朝日が朝日でなくなると日差しが強くなった。彼は雨が降ってぬかるんだ地面に腰を下ろした。履いていたジーンズは当然土に埋まったが、そんなことは気にしなかった。どうせここには誰もいない。見る人間がいないのだから羞恥心が生まれるはずはないのだ。
体育座りをしてから、しばらく頭の中を整理した。宝石の山で聴いたあの音のせいなのか、彼の記憶は少しずつ修復に向かっていた。といっても、彼の過去のことが見えた訳ではなく、固有名詞、普通名詞、日常的な知識(彼が記憶を失う以前に覚えていたとされる)など、基本的なものだった。自分のメモリーは日を追うごとに修復されていくため、彼は一日を迎えることが楽しくて仕方がなかった。難しいことは考えず、ただ走り続ける。それだけで自分の存在意義の証明に一歩近づく。彼はその行為に快感すら覚えた。あまりにも心地いいため、なぜ自分は走らなければいけないのかとか、どうして宝石の山で寝ていたのか、などという疑問を真剣に考えることが出来なかった。考えた途端、いま夢中になっているこのルールが、まるで宝石の山のようにぼろぼろと崩れ出してしまうと思ったからである。的確な理由などないが、本能的にそう感じた。
彼はその修復される記憶の内容で、一つだけ楽しみにしているものがある。左手のことだ。左手に取り付けられた(あるいはすでに体の一部)この鋼鉄の武器はいつ使用するのか、なぜ自分はこれを装着しなくてはならないのか、それを知りたかった。最初この武器を発見したときは、その不自然さを気のせいにしていた。しかし記憶がもとに戻っていき、人間の体についてある程度理解している今に至っては、この筒状になっている銃口の上に鋭い剣を取り付けたこの奇妙な武器のことは、もう不可思議な存在でしかなくなっていた。
姿勢は体育座りのまま、彼はこれからすべきことについて考えていた。そろそろ、この荒野を出なければならない。別に命令されたわけではない。ただ単にここが飽きただけだ。小屋に置いてあった手紙を見つけた時からそう思い始めた。この世界には最悪自分しかいないものだと思っていたが、手紙のおかげでその考えは覆された。これは新たな地に旅立つためのきっかけだ。自分はもう一度走りださなければならない。
しかしどこに進んでいけばいいのか分からない。目的地がないので、迷うということはないのだが、当てずっぽうで選んで危険な道には進みたくなかった。左手にはちゃんと武器があるものの、彼は剣や銃などの類は当然扱ったことがないし、もう一度「死」と対面するようなことはしたくなかった。
彼は、上に広がる蒼と白のイラストを眺めた。絵の主役を飾る物は真っ赤な色をしていた。眩しさに耐えながら彼はそれをじっと眺め、やがて一つの答えを出した。