1話 期待と不安、心拍数が上がる点ではどちらも変わらない
【1話 期待と不安、心拍数が上がる点ではどちらも変わらない】
東京からK県は県庁所在地まで、夜行便の高速バスに揺られること10時間。マモルがメールで送ってくれたわかりづらいバスの乗り換えで追加数時間。
やっとのことで、ここ虎木亜村に降り立った俺は、長旅にこわばった体を思いっきり伸ばした。
「ん~~~」
夏の日差しは容赦なく降り注ぐが、効き過ぎていたバスの冷房のせいか、それとも緑が多い田舎のせいか、それほど不快感を感じなかった。
目の前のバス停には『虎木亜村船着き場』の文字。あたりを見回すとさびれた小さな商店と数軒の民家。そして――。
「海、だ」
俺は小走りに船着き場の桟橋へ向かった。
「おおお、すんげえ透明だ……」
東京生まれ東京育ちの俺にはおよそ無縁な海だった。テレビくらいでしかお目にかかったことのないエメラルドグリーン。小さな魚が群れを作りうようよ泳いでいるのを見ると心が躍った。入りたい衝動にかられたがさすがにここでは無理だ。
風が頬を撫でる。深呼吸すると潮の香り。潮風は都会の熱風と違い優しくて暑さがすっと和らいだ気がした。
内海のせいだろう。海はまるで湖のように凪いでいる。島々がところどころにぽっかり浮かび、その間を漁船がゆっくりとすべる。人気といえば船着き場の横手にある小さなドックに泊められた漁船の上で網の手入れをしている数人の漁師くらいか。
「なんだ。マモルの田舎のくせにいいところじゃんか」
でも、ヤツにそんな事言うと得意がるだろうから言わないでおこう。
マモルの家は更に船で渡った島にあると聞いており、ヤツのオヤジさんの船で迎えに来てもらう手はずになっていた。俺はケータイを取り出す。時計を見ると約束の時間まではまだ小一時間ほどあった。
「何か冷たいもんでも」
俺は商店に足を向けた。『宮内商店』と書かれた看板は錆びてぼろぼろだった。自動ドアなどなく木枠にガラスをはめ込んだ戸が開けっ放しになったいるだけで。まるっきり昭和の時代にあったような駄菓子屋だった。
軒先にある冷凍庫からラムネ味のアイスを取り出すとカウンターに持って行く。
「あい、いらっしゃい~」
人の良さそうな婆ちゃんが店番をしていた。
「ここらじゃ見ない子だねぇ~アンタ。旅行かい~?」
「ああ、はい。そんな感じです」
答えながら婆ちゃんに50円玉を手渡す。
「ほほぅ~。じゃ~、あれかい。アンタも『大凪潮』の祭りに参加しに来たのかい?」
「オオナギシオ?」
俺が小首をかしげると婆ちゃんはカウンターの上に乗っている小冊子を指さした。
『阿手内島・観毛内島・海女僧島総合観光案内』
観光パンフレット、だ。マモルが来るまでの時間つぶし位にはなるだろか。俺はひとつ手に取ると店を出た。
「頑張りなさいよ~!」
婆ちゃんは俺の背中に親指を立てた拳をグッとつきだした。
船着き場には屋根付きのベンチが置かれており、俺は腰掛けるとアイスをかじりながらパンフを開いた。
まずは、この辺の村の歴史。挿し絵付きの昔話のようだ。
『むか~しむかし。ヨーロッパにアマゾニスとよばれる女たちがすんでいました』
「……よーろっぱにあまぞにす?」
1行目から不穏な雰囲気が漂っている気が。
『アマゾニスたちは女だけの国ですがみなゆうかんで男まさり! まわりの国をどんどんせめてしはいしていました。あるとき、えいゆうヘラクレスがアマゾニスの国にやってきました。アマゾニスのたからもの「アレスのおび」をうばいにきたのです! しかし、アマゾニスの女王に会ったヘラクレスはその美しさによだれをたらしました! 女たちもヘラクレスのマッチョぶりにこしがくがく!』
こ、これは……! 俺は落としそうになったアイスを持ち直した。
『アマゾニスたちはヘラクレスの子ダネをもらうかわりにアレスのおびをわたすことにしました。ところが、それをおもしろくおもわなかったかみさまの一人がアマゾニスとヘラクレスをだまし、たたかわせるようにしむけました。さすがのアマゾニスも、えいゆうヘラクレスにはかないません。いくさに負けたアマゾニスたちはせかいじゅうにちりぢりになってにげました。あるものは南米へ、あるものはここ海女僧島にたどりついたのです。ごかいに気づいたヘラクレスでしたが後のまつり。後にヘラクレスの子そんたちが日本においかけてきました。それが、のちのヘラクレス、へらくれす、へらくれ、ひらけ、へいけ、平家なのです!』
「おおお……スゲエ! 言い切りやがった!」
俺は軽い感動を押さえつつ読み進めた。
『まわりの村をおそい男をさらって子だねをえていたアマゾニスでしたがここ日本はちがいました。パツキンボインのガイジン好きの日本人はわれさきにと、こぞって海女僧島にきたのです! ウザがったかの女たちは子づくりをすう年にいちどときめました。あつまった男たちをたたかわせ、強かったものだけとちぎりをむすんだのです。これが大凪潮のお祭りのはじまりです』
そこまで読むと俺は何やら気配を感じてふとパンフから目をそらした。いつのまにか足下に犬がいてしっぽを振っている。一目で雑種とわかる白い犬で人懐っこそうな目と眉毛をしてい……マユゲ?
「お前、立派なマユゲ描かれてるな」
よく見ると胴体にも花のような絵も描かれていた。この辺の悪ガキの仕業だろうか。
「アイス。くう?」
殆ど溶けかかったアイスをひとかけら落とすと喜んで舐めている。頭を撫でるとしっぽの降りが激しくなる。すぐに寝ころんでお腹をこちらに見せた。
しばし俺は犬をいじるのに夢中で。だからこの時、人が近づいてきたのに気づかなかった。
「ねっ。そのコ、キミのいぬ?」
はっと人影を見上げて、俺は息をのんだ。
そこには、一人の少女が立っていた。
歳は俺と同じくらいだろうか。白く丈の短いキャミソールにジーンズのホットパンツ。白い手足がすらりと伸びている。金色の長い髪には小さな麦わら帽子。髪の色といい肌の白さといいハーフだろうか。
「ねっ、そのいぬはキミのなのっ? それともしりあいとかのコっ?」
少女に見とれていた俺は口をあんぐり開けたままだった。あせって返事をする。
「え? あ、いや、違うし、知らねえ」
「よかったっ! まだかきかけだったんだっ」
少女は大きな笑顔を作るとしゃがみこんだ。そして手に持った木炭で犬に落書きを始めた。何の躊躇もなく描き始めるとは……こいつ侮れん。
「だが、しかし……! 俺ならパンツも描いてやるね」
「むっ? キミ、なかなかあなどれないなっ?」
神様の化身みたいな容姿をした少女なのに無防備な笑顔。俺は正直なトコ、かなりどきどきしながら彼女を見ていた。男子校で普段女の子と話す機会も少ない俺がこんな間近でこんな可愛い子のホットパンツからにょっきり出てる太ももやら大きく開いた胸元から見える谷間…………などと邪念でいっぱいになっていた俺は、またもや人の接近に気づかずびっくりするはめになった。
「レイシア!」
再び見上げた先、凛と通った声の持ち主は美しい少女だった。きりっとした瞳。多分長いであろう黒髪をアップにまとめている。ノースリーブのシャツに古着っぽいジーンズ。レイシアは胸も尻もボリュームたっぷりだが、なつめは一見少年かと思うほどスレンダーだった。
「レイシア、アンタ荷物全部わたしと可憐に押しつけて何やってんの」
「あははっ、ごめんよ、なつめちゃんっ! 可憐ちゃんは?」
「バス停で荷物番してるわよ。早く取りに行きなさいよ」
なつめ、と呼ばれた黒髪の少女は手に大きなボストンバッグをぶら下げていた。そして金髪の子の名前は、レイシア、か。
「また犬に落書きしてるし……その子、平ん家のペスじゃないの? 見つかったらまたモメるわよ。それに――」
黒い瞳が俺に向く。
「ソイツ、誰?」
「え? そーいやだれだろ?」
レイシアがはっとしてなつめの元に駆け寄る。
「まさか! ナンパだったりしてっ?」
「いやお声かけてきたのお前からじゃん」
「いぬをつかってってわたしをおびきよせたんだっ?」
「いや俺の犬じゃねえって言ったじゃん」
やり取りを聞いてなつめはため息をついた。
「ま、口調的にも地元の人間じゃないし。それにアンタ位の年頃のヤツを知らないはずもないし。おおかた大凪潮の祭り目当てのどこかのモテナイ君でしょうよ」
「は? モ、モテ?」
初対面の人間に向かってこの物言い。容姿はかなりの美少女だったが性格はきついようだ。見下すような目にカチンときた俺はしばしこの生意気な女と睨み合った。
「あっ、あっ。こら、にげるなーっ。まだかんせいしてないのにっ」
間の抜けた声に肩の力が抜ける。レイシアから犬が脱出を計ったようだ。そのまま落書き犬はわんわん吠えながら宮内商店に向かっていく。と、その先に数人の男達がいるのが見えた。彼らの一人が走り寄った犬に気付くと大声を上げる。
『おおおお! ペ、ペス!? お前すんごく落書きされてますよッ!?』
どうやら彼が飼い主らしい。周りの男たちは犬を見て笑っていたがすぐにこちらに気付き、近づいてくる。……これは少しまずいのではないのだろうか? 見知らぬ土地に来て早々に地元の人間と揉めたくはないのだが……。
男たちは俺たちを囲むように立った。彼らは銛や太い棒切れなぞを手に持ち、どこまでも不穏だった。が、しかしその中に1人色白で小柄な少年が混じっている。足下に落書き犬がまとわりついているところを見ると彼が飼い主のようだ。彼はすっと前に出ると腕組みをして胸を張ってみせた。
「はっはっはっは! お久しぶりですね。なつめさん、レイシアさん」
少年は豪快に笑っていたが、分厚いレンズのメガネといいTシャツから突き出た細い腕といい典型的なガリ勉君に見えた。他の男達は皆赤銅色の肌をした屈強なガタイの持ち主ばかりだったのでなおさらだろう。
「ふん。アンタ相変わらず取り巻き連れていきがってるの?」
「やほ! クレオちゃんっ。キミんとこのいぬ、ふでのノリがいいよっ!」
クレオと呼ばれた少年はメガネを中指でくいっと上げる。
「お二人とも変わらず元気なようで何よりです。……それで、その男は見慣れない顔ですが……まさかお連れさんなのですか?」
生意気にも眉間にしわを寄せ俺にガンをとばすクレオ。
「そんなワケないでしょ。赤の他人よ。旅行なんじゃないの?」
なつめを見た俺はぎょっとした。
彼女はレイシアの持っていた木炭を手に取ると、やにわに自分の腕にこすりつけたのだ。白い肌の上を走る木炭はみるみるうちに図形を描き始める。その手つきには何の躊躇もためらいもうかがえなくて、まるで日焼け止めを塗ってるみたいな気軽さだった。だが、それを見た男達は一斉に後ずさる。クレオは鼻を鳴らした。
「フフッ、嬉しいですよ、なつめさん。ここを出て行ったというのに、この海のシキタリは忘れてないようですね」
「……」
なつめは無言で木炭を走らせていく。それは入れ墨のような、どこかの未開の蛮族の呪術師のような異様な形。
「最後に挑戦したのは半年前ですからね。あの時の僕と思わない方がいいですよ」
クレオが取り巻きの一人からゴツイ角材を受け取るのを見て俺は少し緊張した。話の流れからして、まさかコイツはなつめとケンカでもしようというのだろうか。他の男達もみな手に持った棒切れや銛を構え始めたが、当のなつめは涼しい表情のまま今度は顔にも炭を入れる。と、それが最後だったらしく、傍らに置いた荷物に手を突っ込んだ。
「わかってますよね? この勝負に僕が勝ったら、なつめさんは僕のも――」
「ゴチャゴチャうるさい」
風切り音とともにクレオの鼻先に突きつけられたのは木刀だった。なつめは薄く笑みを浮かべた。
「いいからさ? かかってきなよ」
「ッ! ほやぁあああ!!!」
クレオに火をつけるのはそれで充分だった。激昂したメガネは弾かれたように角材を振り上げ、なつめに叩き付ける! 俺は反射的に立ち上がり彼女を守ろうとして――いや、立ち上がれなかった。レイシアが、俺の手をしっかり掴んでいたのだ。
「ありがとっ。でもね――」
レイシアの視線の先、なつめは不敵な笑みを浮かべたままだった。クレオに、そして周りの男達に驚きの表情が伝播してゆく。
「わたしたちは、だいじょぶっ」
なつめは、振り下ろされた角材を左手の指一本をそえる事で、止めていた。
クレオがいくら小柄とはいえ、男が渾身の力で振り下ろした角材を、白くて細い指一本で、止めるとは……!
「くッ!? ま、まさかまだこんなに差がッ!?」
クレオは雄叫びを上げながら角材を振り回しなつめに打ち込んでゆく。意外な事に素人目に見てもクレオの動きは洗練された動きのように感じられた。剣道でもやっているのだろうか。ケンカの経験なんてろくにない俺が相手だったら瞬く間に打ちのめされてしまいそうだった。
「……ふん。確かに前とは違うわね。きっとずいぶん鍛錬したんでしょ」
なつめは顔色ひとつ変えずに全ての打ち込みを捌いてみせた。そして頃合いを見計らって木刀を一閃する。
「ハッ!?」
クレオの驚きの声と共に、彼の手に持った得物は高く空に舞い上がった。次の瞬間、なつめの木刀がクレオのみぞおちにめり込む。
「でもその程度じゃ、あたしたちには勝てない」
クレオの体が崩れ落ちたのとなつめの手が角材をキャッチしたのはほぼ同時だった。なつめは角材を事も無げに真っ二つに折ると投げ捨て、後ずさる男たちに向き直る。
「アンタたちはどうするの?」
「や、やらねえわけにいかねえだろ! 観毛内の男ならよぉ!」
俺は呆気にとられて見ているだけだった。
ゴツイ男たちが振り回す凶器を軽々と避け、いなしていくなつめ。彼女の華奢な手に握られた木刀は目にもとまらぬ早さで男たちの体を打ち据える。ある者は悲鳴を上げて倒れ込み、ある者は海に突き落とされ、ものの一分もかからずに立っている男はいなくなった。
「ふう。帰ってきてすぐこれか……。やんなっちゃうわ」
「おお……!」
絶句中の俺を尻目に、なつめは宮内商店にスタスタと歩いていく。
軒先には水道があり、彼女は腕や顔を洗い始めた。
「ねっ。だいじょぶっていったでしょ!」
レイシアはまだ俺の手を握っていた。気恥ずかしくなって軽く腕を振るとやっと離してくれた。彼女は何も気にした風もなく言葉を続ける。
「なつめちゃんはねー、うちの島でいちばんつよいからねっ」
「いちばん、つよい?」
「そっ。うちの島はね……あっ! 可憐ちゃーん! こっちこっち!」
レイシアが手を振る先、一人の少女がこちらに走ってくる。大きな麦わら帽子、白い清楚なワンピース。まるで幼い子のような不器用な走り方だった。こちらに向かって一心不乱にドスドス走って……ドスドス?
「おわっ!?」
目の前で息を切らす少女? はとても屈強だった! 黒々とした肌は筋骨隆々とし、ワンピースははちきれんばかり。ただ瞳は優しく星のように瞬き、かろうじて性別の判断を可能にしていた。
「あ、争う音が聞こえたものですから! でも準備に手間取っちゃって! この方が敵ですか! レイシアちゃん!」
「いやいやちがうよっ。なつめちゃんがぜんぶやっつけたよっ」
巨大な拳をピーカブーに構えた少女? はレイシアの言葉を聞くと安堵のため息をつき、慌てて俺に向かってお辞儀をした。
「さ、可憐ちゃん。クレオちゃんたちを宮内のおばーやんトコまではこぶのてつだってっ」
「はい、なんだか懐かしいですね。半年ぶりですもの、こういうの」
可憐ちゃんは、クスリと笑いおもむろに昏倒している男達をひょいひょい担ぎ始める。声だけは舌足らずで幼い少女のそれなんだけど……。
「……たくましい」
「まぁっ」
し、しまった。失言だ。いくらゴツイとはいえ女の子? に対してこの発言はいかん。
「た、たくましい、だなんて……」
フォローワードを頭の中で検索中。
「嬉しい……」
「……ハイ?」
「あ、わたし子供の頃から病弱で、今でこそ病気などはしなくなったのですが、まだ友人や家族達に比べると体は弱い方でして……心配ばかりされているのです」
「……ホホウ?」
「少しは丈夫に見えるようになったのかしら?」
可憐ちゃんはにっこり笑うと腕に力こぶを作って見せた。
どこかの一子相伝の拳法使いのような力こぶが盛り上がる。ノースリーブでなけりゃきっと袖が破けているに違いない。
「はっはっは。実に健康的な二の腕ですな?」
「や、やややややだ! は、恥ずかしい……!」
少女はドッコンドッコン走り出した。彼女が宮内商店に入っていくのを見届けると、俺はあたりを見回した。
「……」
船着き場は静寂を取り戻し、さきほどのカオス空間はすっかり消え失せていた。
じりじり照りつける太陽。桟橋にはさざ波が寄せる音。傍らにはペスのおなかを撫でるレイシアがいるだけ。
俺は軽く咳払いをして、金髪の美少女に向き直る。
「……おまえら、いったい何なの?」
「んんっ、わたしたち?」
レイシアは立ち上がると両手を広げ大仰にお辞儀してみせた。
「とらきあの海にようこそっ! わたしたちは、アマゾニスなのですっ!」
太陽を背にした彼女は、まるで向日葵のようだった。