13話 なつめという女の子
【13話 なつめという女の子】
『ヒイイイィィィ!』
遠くに聞こえる悲鳴のおかげで、俺は目を覚ましつつあった。たぶん……古傷さんの声だな。っていうことは恒例のババァの『朝の夜這い』なわけだ。ババァはアレだ、ババァだから朝起きるのが早いんだ。そんでそんで誰かが俺の体を触ってるんだ。
……体を指でなぞって……触ってる?
俺の意識は一気に覚醒し、目をカッと見開いた。
「レイシア! おはよう! そしてテメーまた落描きしてやがるな!」
「ほわあっ!?」
ガバっと体を起こすと目の前には尻餅をついたレイシア。もちろん、その手には木炭。
「び、びっくりしたっ~……」
胸に手を当てているレイシアを見下ろしてやる。
よし……今日は落書き現場を押さえることが出来た……! 俺は勝利宣言をしようとして、ふと違和感に気付いた。
「……なにコレ?」
俺の体の胸部が、異様に膨らんでいた。Tシャツを突き上げる2つのふくらみ。
どう見てもそれは、おっぱいだった。
「……」
俺は無言でジャンプしてみた。ぼいんぼいん揺れている。
サンバのリズムにノってみた。ぼいんぼいん揺れている。
「な、な、なんだコリャ! テメーどんな落書すりゃこんな風に……ハッ、まさか!? あのお祭りの時にババァが使った技……胸を大きくする技ね……そうでしょうレイシア! なんてことっ……なんてことするのよっレイシアッ!」
俺はちょっと錯乱してるかもしれなかった。
両手で顔を覆い泣き崩れるアタシの肩にレイシアはそっと手をおく。
「……今日の紋様は我ながら会心の出来よ。果たして――」
「レ、レイシア?」
彼女はすっと立ち上がると背を向ける。
「――ゆうた子、貴女にその紋様をすぐに洗い流す勇気、あるかしらっ」
レイシアが出て行ったドアが閉まるのも待たず、アタシの視線は自分の胸に釘付けになった。
――『すぐに』洗い流すか、だって?
「……そんなの、決まってるじゃない」
3分後、俺はあっさりと洗面所に向かっていた。
「だってなー。チチ毛生えてんだもんなー」
すっかり冷めていた!
「チチ毛はねーよなー」
俺は無造作に洗面所の扉を開けて、そして固まった。すでにそこには先客、なつめがいたのだ。俺は一瞬期待と不安に胸を揺らしたが、彼女は裸でも下着姿でもなく普通に服を着ていた。
「……チッ。おはよー、なつめ」
「ああ、おは……って何よその舌打ちは」
顔を洗っていたらしい彼女は、ちょうどタオルで拭き終えたところだった。
洗濯かごにタオルを投げ入れようとしていたなつめは俺を2度見した後、無言で後ずさった。
ちょっと勝った気がした。
「……な、なんなのよアンタソレ? なに入れてんのよ。キモイにもほどがあるわよ?」
俺は返事代わりにジャンプした。ぼいんぼいん揺れている。
「も、もしかして……それ、レイシアが描いた紋様で……?」
壁に張り付いていたなつめだったが、サンバを踊る俺を見ているうちに表情が真剣になった。意を決したように口を開く。
「……アンタさ? ……ちょっと、脱ぎなさいよ」
「……は?」
「その紋様見せなさいって言ってるのよ! わたしがいくら描いてもちっともうまくいか……い、いいから見せなさいよ!」
俺は顎に手をやると流し目で彼女の胸を見やり、ふふんっと鼻を鳴らした。なつめは俺の視線に気付くと胸を隠し睨みつけた。
「ナツメサン? 大きいだけが全て、じゃなくってよ? もっともパッド入れてそれだったら同情してあげてもいい……ブホーーーッ!?」
大方の予想通り、セリフを言い終わる前に蹴りが俺の顔にめり込んだ。
「いってーな、もう。わかったよ、どーせ脱がなきゃ洗えねんだから」
ぶつぶつ言いながらTシャツに手をかける。
が、この時、得体の知れない感情が俺の心に広がった。それは今まで生きてきて味わったことのない感覚、だった。目の前には紅潮した顔で俺を見据えるなつめ。
「な、なんだこの感情はッ……!? しゅ、羞恥か? いや……むしろ、見られたい……俺は目の前のこの少女に見られたい! だが恥ずい、これはどうすりゃいいんだっ? この涌き上がるリビドーを……ッ!?」
「いいから脱げやこのヘンタイっ!」
再び蹴りをくらい倒れた俺になつめは馬乗りになった!
Tシャツを脱がそうとする彼女の手に必死で抵抗する。
「ど、どっちがヘンタイだよ!?」
「う、うっさい! いいから見せなさいよ!」
なつめはちょっと錯乱してるかもしれなかった!
「イ、イヤッ! おかあさーーーんッ!」
両腕を組み伏せられた俺は覚悟を決めた。
これからこの身を襲うであろう羞恥と屈辱に顔をそむける。
この荒い息でせまる陵辱者から逃れる術はもはや……無い。
「……ん?」
涙でぼやけた視界、洗面所の扉がうすく開いていた。
開いたドアの隙間に見えるのは、しっかり構えられたケータイと、レイシア。
その目は……すっごい輝いていた!
俺の視線を追ったなつめも追って硬直する。
「な、なつめさん?」
おそるおそる声をかけた瞬間、なつめは弾かれたように立ち上がり風呂場に駆け込んだ。
直後、窓ガラスの割れる音が響く。
「……レイシアよう?」
俺は乱れた着衣を直し立ち上がった。
「この技、封印しろ。誰もしあわせになれねえ」
返事のかわりに、シャッター音が鳴った。
「……なつめちゃんはこの日、かえってこなかったっ!」
「イヤ、勝手にまとめんなよ。流石に可哀相だろ」
俺はレイシアの頭にチョップすると走り出した。
なつめを見つけるのはそんなに大変ではなかった。元より小さな島だし住人は皆顔見知りときている。すれ違う人に尋ねていけば追跡は容易だった。
発見したのは船着き場として使われているコンクリート製の桟橋。
なつめは海に向かって脚を投げ出して座っていた。
ポニーテールにまとめた黒髪が静かに揺れている。こちらに背を向けてるから表情はわからなかったけど、素足をぶらぶらさせて座る彼女は何だか小さな女の子のようだ。
「なつめ」
俺の呼びかけに一瞬体を震わせたなつめは両腕で顔をこする仕草をした。……まさか泣いていたわけじゃないだろうが……。なつめは俺に背を向けたまま怒鳴る。
「な、なに追いかけてきてんのよ!」
「まあ……ほら、ほっとけねえし」
「大きなお世話よ! 子供じゃないんだから!」
なつめは膝を抱えて顔をうずめた。
「……アンタがこの島に来てからというもの、あたしのペースは狂いっぱなしよ……」
「……そりゃ、まぁ、すまん」
それからしばらく、俺達は黙ったままだった。でも、なんでだろう。こんな時だというのに、蝉の声とかウミネコの声とか波の打ち寄せる音とか、そんなものが心地よくて、何かあまり余計な事を言う気にならなかった。なつめの気の済むまで付き合おうと思った。
「……おなか減ったね」
なつめがゆっくり顔を上げる。声の調子がいつも通りに戻っていた。
「ふぅ。さ、帰って朝ごはん食べよ……」
だが、立ち上がったなつめは俺の姿を見た途端、眉をつり上げた。
「ア、アンタ……いつまでそんな胸してるつもり?」
「……え? お、おお!?」
そういえば。急いで飛び出した俺は、胸の戦化粧を洗い流していなかった。
「やっぱりわたしをからかいに来たんでしょ!」
「ちょ! ちょっと待……ブッ!?」
言うが早いかなつめの素足が俺の顔にめり込んだ。
が、しかし。今日の俺はひと味違った。
「フフフ……最近気付いたんだけどお前の足の裏、こう何か? 柔らかくて超いいゼ!」
「ひっ!? ヘ、ヘンタイ!?」
なつめの体が硬直した隙を見逃さず、俺は彼女の腰を抱きしめる。
そして、渾身の力で海に向かってジャンプした。
「きゃあ!」
桟橋から朝日にきらめく水面まで2メートルほど。滞空時間は瞬きする間もない。
滅多に聴けないなつめの可愛い悲鳴は、すぐに大きな水飛沫にかき消されてしまった。
ほんの一瞬の出来事――――だけど。
俺は予感した。確信に近い、予感だ。
きっとこのコトは、忘れない。
この島で、朝の海に飛び込んだこのコトは、いつまで経っても忘れない思い出になるだろう――――。
光と水の飛沫をかきわけて俺は浮かび上がった。海水がかなり鼻に入ったみたいですぐに咳き込んだ。
「な、なにすんのよこのバカ!」
目の前に鼻を赤くしたなつめの顔が浮かんでいる。
「うははははッ、超面白かっ……ゲホッブホッ……は、鼻がいてえ!」
「アンタ……ねえ……」
「おおっ!? 見ろよ! ゲホッ、俺の胸が縮んじゃう!?」
「……っていうか……ふふっ、ゆうた、アンタすごい鼻水出てるっ……!」
「な、なにぃ!?」
「……ふふっ……あはっ、あははははははっ!」
気が付くと、なつめは声をあげて笑っていた。
朝日に照らされた彼女を見ながら、俺は今日の予定を考える。
海水浴か、それとも釣りかな。マリコさんにアーチェリーを教えてもらうのもいいな。そして午後はラ・ベットラ・アマゾニスでまったり過ごすのだ。
でも、その前に。
もう少しだけここで、なつめと笑っていようと思った。




