夏がはじまる
【プロローグ 夏がはじまる】
「ケイコちゃん達、来られなくなっちまったってよ」
ケータイから聞こえるマモルの言葉に、俺は思わずマジックを床に落とした。
「……どういうことだ?」
俺の住む、築三十年の男子寮六畳一間2人部屋には、昨日購入したばかりのバナナボートが置かれていた。部屋の半分を簡単に占領したソイツに俺はまたがり、先頭の部分を顔に見立てマジックで目やら口やらを書き込んでいる最中の悲報だった。
「いや、こないだ一緒に麗一クンいたじゃん? ヤツの親父がさ、ハワイに別荘持ってるって言ってたじゃん。それでさ――」
「――くそ、もうわかった、みなまで言うな。つまり、彼女たちはオマエの田舎、瀬戸内の海とハワイの海とを天秤にかけ……それはもうブッチギリで負けた訳だな?」
海外・南国・別荘3点セットという凄まじい重りを載せられたケイコちゃん達の天秤は、まるで古代ローマの投石機のように俺達の誘いを大気圏外まで跳ばしたに違いない。
「でさー、麗一クン、俺達も来ていいって言ってくれてるけど……ゆうたはどうする?」
俺は新調したばかりの海パン姿で『マリンゆうた号』を見つめていた。
高校生最初の夏休みをキラメキとトキメキで彩ってくれるはずだったコイツは……もはやただのでかいゴム風船でしかなかった。
「……あのなマモル、よく聞け」
「ん?」
「この『マリンゆうた号』はな、3人乗りなんだ」
「は? お前まさか、バナナボート買っちゃったの?」
「ケイコちゃん・俺・ミクちゃん。そーゆー順番ね。何故ならミクちゃん、胸でかいから」
「……俺の乗る場所は?」
「知るかよルーザー」
「黙れこの妄想先走りヤロウ! 俺の家にある船はオヤジの漁船だけだって言ってあっただろ! どっちみち無駄だったんだよ!」
「コイツは俺のバイト2ヶ月分したんだよ! ハワイ行く旅費なんぞある訳ねえだろ!」
マモルは電話の向こうで深いため息をついたようだった。
「……俺だってそんな金あるわけねえ。ってゆうかもう帰省しちまったし。お前、一人で寮にいても仕方ないだろ? ゆうただけでも俺の実家来いよ?」
クッ。何故輝かしいはずのヴァカンスまで男2人コイツとつるまにゃならんのだ。
「いや、実はよ。いい話、あんのよ?」
「夢のサンドイッチ大作戦を上回るほどか?」
「合コンで1回会ったきりの女の子にそこまでこだわるなよ」
「マモルのくせに余裕発言じゃねえか! 男子校の合コンチャンスがどれだけ少なねえか知らねえのか!」
「俺がセッティングした合コンだろうが!」
「うるせえ! 何でテメーと2人っきりでただ浮かんでるだけのバナナボートに乗らなきゃならねえんだ! 死ね! バーカバーカ!」
俺はケータイをぶん投げると畳に寝転がった。
あどけない瞳をした『マリンゆうた号』が俺を見つめる。
全開にした窓からは耳障りな蝉の声。
扇風機が部屋のぬるい空気をどろどろとかき混ぜる。
夏は……俺の夏は始まったばかりだったはずなのに。
とりあえず――。
俺は『マリンゆうた号』に眉毛を描くことにした。