「お前を愛することはない」と白い結婚にされたので、愛してくれる人を連れ込んでみました
「どうしてこうなった?どうしてこうなったんですか??」
そう呟きながら、室内をウェディングドレスを着たままグルグルと歩き回る姿があった。
ここはグランディア公爵家の敷地内に建つ小さな離れ。
つい先程まで隣の礼拝堂では、爵位を継いだばかりの若きグランディア公爵の結婚式が行われていた。
親族一人呼ばず、誓いのキスも省略された、宣誓と両者の署名だけの式。
しかしこの結婚は成立する可能性が微塵もないので、実態はただ結婚式ごっこをしたに過ぎなかった。
外したヴェールをどこに置こうか迷いながら、放置された花嫁は嘆く。
「まさか妹の代わりに結婚することになるなんて――俺はこれでも男なんですが!?」
「それでは兄上、グランディア公爵家への謝罪をよろしくお願いします!」
そう言い残して駆け出した双子の妹を見送ったレンハルトの手には、騎士団から届いた緊急の書簡があった。グランディア公爵への説明に必要だから預かったのだ。
妹のお見合い当日に本人に仕事が入ってしまったので、兄であり次期侯爵でもあるレンハルトは、謝罪のために公爵邸まで足を運ばなければならなかった。
「急な討伐任務なら仕方がありません。先方への謝罪は俺に任せて、どうか怪我のないように」
「はい、ありがとうございます兄上!しかしおかしいですね。本日はお見合いがあると、騎士団にも報告しておいたのですが」
「お前の部隊に急遽魔獣討伐をねじ込んだ御方は、きっと相当な無理をしたんでしょうねえ」
「え?」
「何でもありませんよ。さあ、気をつけて行ってきなさい」
そんな会話を交わしてレンハルトも侯爵家を発ったというのに、一体どうしてこうなったのか。
事の発端はアシュレイ・グランディア公爵――初対面の彼は、非常に思い込みの激しい人物だったのだ。
「何を馬鹿なことを。レミリッサ・ヘイヴン侯爵令嬢本人だろう?」
「いえ、その双子の兄のレンハルトです。先程も申し上げました通り、妹は急な任務で――」
「銀髪はヘイヴン侯爵家の人間の特徴だ」
「ですから」
「美人で良い匂いもする。そして私と結婚するために来た。これで本人でないはずがあるか」
「け、結婚?お見合いという話では?」
「お前との結婚は父上の最期の願いだった。ゆえに絶対だ。来い――今から式を挙げる」
「今からって、正気ですか!?」
必死に抵抗したものの、レンハルトは武のヘイヴン侯爵家に生まれながら持病があって騎士になれなかった身。
あまり暴れては発作が怖かったこと、そして「逆らったらかえって意固地になるので」と心底申し訳なさそうに支度をするグランディア公爵家の使用人たちに同情したことで、最後にはとうとう流されてしまった。
「夫として愛し、敬い、慈しむ事を誓いますか?」
「誓おう」
「誓っちゃうんですか」
そして結局、隣に立って誓約するアシュレイのあまりの不機嫌オーラと圧に折れて、誓いまモニョモニョと答えてしまったレンハルトだが、自分は悪くないと主張したかった。
神官もとても気の毒そうな顔をしていたし。
「では誓いのキス――は飛ばしてこちらをご記入ください」
「花嫁の署名ですか」
レンハルトは少しの間悩んだ。
自分の名前を書くと、後々ややこしくなるかもしれない。
だが妹の、レミリッサの名前はもっとダメだろう。
何かひとつ良かったことがあるとすれば、それはいきなり結婚式の真似事をする羽目になったのが、妹ではなかったということだ。
いつか彼女が着るだろう本物のウェディングドレスは、こんな騙し打ちのようなものではなく、レミリッサ自身に選ばせてやりたい。
そう考えたレンハルトは、さらさらと羽根ペンで名前を書いた。
『レーニャ・ヘイヴン』
今は亡き大伯母の名前だった。直接の面識はない。
生涯独身だった彼女は結婚願望自体はあったと聞くが、騎士としてあまりにも強過ぎたため、結局誰とも縁付くことがなかったのだ。
(形だけでも若くて美形な公爵閣下の妻になれたわけですし、天国の大伯母様もきっと笑って許してくださるでしょう)
「この結婚は、ヘイヴン侯爵家と縁を繋げという亡き父上の言葉を果たしただけだ」
式が終わった直後、アシュレイは冷たく言い放った。
「私がお前を愛することはない」
「はあ」
「白い結婚でいいな。異論は認めない」
「承知しました」
貞操の危機が去ったレンハルトは一も二もなく頷いた。
白くない結婚など冗談ではない。
「この離れで好きに暮らしていろ。他は何もしなくていい。だから勝手に出歩くなよ」
そう言われてもあまりここに長居する気はないし、侯爵家にも連絡をとるつもりだった。
なのでその言葉にはあえて返事をせずに、レンハルトは促されるまま離れへと足を踏み入れた。
――そして現在に至る。
「本当に、どうしてこうなったんですかねえ」
ようやく落ち着いてきたので歩き回るのをやめて、ソファに腰を下ろす。
自然に溜め息が出てきたが、今ここにはレンハルト一人しかいないので遠慮なく吐き出した。
「とにかくあの、ろくに人の話を聞かないグランディア公爵をどうにかしなければ。逃げても追って来そうですし、諦めてもくれなさそうですからね」
そのために必要なのは、公爵家の現状を把握すること。
この離れは狭いがまともらしく、少なくとも監禁部屋ではなかった。
庭も見えるし、日当たりも良さそうだ。
ただし、ここも本邸も明らかに人手が足りていないように思えた。
「使用人の様子、公爵家の財務状況、前当主の性格――」
これから探ってみる予定の情報を声に出して確認しながら、レンハルトは思考を巡らせた。
そしてふと、自分の格好を見下ろす。
雪のように真っ白なウェディングドレス。
美しいヴェールと揃いの繊細なレースの手袋。
それらを身に纏った自分の髪は艶めく銀色で、肌は病気がち故に透けるような白さ。
顔立ちも中性的で、線が細く儚げな容姿をしている。
幼い頃はよく性別を間違えられたレンハルトだ。
今でも、手も足も腰もどこもかしこも細く頼りなくて、男としては色々と物足りない。
パッと見ればまあ麗しの花嫁ではあるのだろう――が、しかし。
「それでも俺は立派な成人男性なんですけどねえ。どうしてあの人だけ気がつかないんです?」
自分の現状があまりにも嘆かわしくて泣けてくる。
だが、まずは侯爵家に連絡を取らなければと、レンハルトは目についた紙を広げてペンを手にとった。
例えどんな目にあったとしても、彼女に送る手紙の書き出しだけはいつもと変わらない言葉で。
「我が最愛の妻 エレクトーラへ と」
翌朝。
朝の光が薄いカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
全部夢なら良かったのに、現実かぁ――と遠い目をするレンハルトの耳に、控えめなノックの音が響く。
「おはようございます、奥様。お時間を頂戴してもよろしいでしょうか」
昨夜ウェディングドレスを脱がせてくれた使用人の声だった。
「俺は男なのに奥様なんですね……どうぞ」
若干の気落ちが含まれた返答に従い、扉が開く。
使用人に続いて入ってきたのは一人のメイドだった。
真新しい濃紺のメイド服は、糊のきいた襟が硬さを主張している。
「本日より奥様付きとなります、新人メイドのミンミと申します。よろしくお願いします」
「ミンミはさる貴族家より推薦で参りました。本日雇用の身ではございますが、礼儀作法と貴族に関する知識は保証されております」
「なるほど」
紹介を受けたレンハルトは何度も頷いた。
使用人はミンミに幾つか指示をしてから、頭を下げて寝室を出て行く。
残されたレンハルトとミンミの間に沈黙が落ちた。
「奥様」
レンハルトが口を開こうとしたのを制して、ミンミがそう呼びかける。
「まずは身支度を。お湯をお持ちします」
――こうしてこの離れに新たな火種が落ちたことを、この時はまだ誰も知らなかった。
最初の事件はあまりにも堂々と訪れた。
「奥様、お待たせしました」
湯気の立つ洗面器は適温に用意されたもの。
ミンミはそれを両手で運んで来たが――バシャッと音を立てて、そのお湯はベッドの上へとぶち撒けられた。
白いシーツに熱が染み込んでいく。
「申し訳ございません。ついうっかり」
「いえ、かかりませんでしたから。貴女は大丈夫ですか?」
「はい。タオルを取ってきますので少々お待ちを」
ミンミはそのまま部屋を出ていった。そして――戻ってこなかった。
レンハルトはしばらくそのまま座って待ってみたが、やがて軽く首を傾げると、濡れたシーツに指を向けた。
「《乾燥》」
魔術師のような攻撃魔法こそ使えないが、レンハルトの魔力は膨大だ。
生活魔法などいくらでも使い放題である。
「タオル、遅いですね。迷ったんでしょうか」
誰に向けたでもない呟きだけが残った。
そして少し時間が経ち、第二の事件が起きた。
「奥様、お庭の花を持ってきました。こちらに飾りますね」
ミンミが抱えてきた花は瑞々しいが、その茎には大量の泥がこびりついていた。どう見ても処理が雑だ。
それを窓辺の花瓶に突っ込むように押し込んだため、床に次々と泥が落ちる。
だが彼女は気にする様子もなく花の位置を整えようとして――そのたびに床は汚れ、靴で踏まれて黒い跡が広がった。
「この離れに相応しくなりましたね」
ミンミはそのまま片付けをすることなく部屋を出ていった。もちろん、泥の靴跡も残されたまま。
レンハルトは床に指を向けて魔法を唱えた。
「《清浄》」
元の姿を取り戻した床から花瓶に目を移して、レンハルトはまた誰に向けるでもなく呟く。
「花選びと生けるセンスは見事ですね――そうだ、念のためあれにも魔法をかけておきますか」
第三の事件は、ミンミが戻ってきてすぐに起こった。
「奥様、紅茶をお淹れしましょうか?」
「いいですね。お願いします」
レンハルトの返事を聞く前に、ミンミは既にぎこちない手つきでティーポットやティーカップを並べ始めていた。
部屋に備え付けのそれらに湯を注ぐ動作は悪くない。問題はその次だった。
ティーカップを持ち上げた瞬間、案の定指がわずかに滑る。
「あっ!……え?」
ぼよん、という間の抜けた音が室内に響いた。
目を丸くするミンミの前で、床に落としたはずのティーカップがぼよんぼよんと生き物のように何度か跳ねて――テーブルに戻った。何事もなかったかのように。
ミンミが思わず隣を見ると、レンハルトの立てた人差し指の先には溢れた紅茶が球状になって浮かんでいた。
くるりと回した長い指をティーカップに向けると、紅茶は静かにその中へと注がれる。
「いただきますね。あ、美味しい」
「――っ」
悔しそうな顔で一瞬レンハルトを睨んだミンミは、何も言わずに部屋から出て行った。
それを見送って、弾力性のある素材に一時的に変化させていたティーカップを魔法で元の磁器に戻す。
「備えあれば憂いなし、とはこのことですね」
次の事件は夜だった。
窓の外がすっかり闇に染まった頃、それは食卓に現れた。
「奥様、夕食をお持ちしました」
ミンミが運んできた皿には、見慣れない緑色のペースト状のものがたっぷりと盛られていた。粘度のあるそれは、光を鈍く反射している。
「これは何ですか?」
レンハルトの問いに、スプーンを差し出しながらミンミは即答する。
「栄養です」
「料理ではなく?」
「栄養です」
「ああ、ほうれん草ペーストなんですね」
レンハルトがそれを平気な顔で、実に上品に口に運ぶのを横目で見て、ミンミは嫌そうに眉根を寄せた。
「なかなか悪くない味ですよ。貴女も食べますか?」
「絶対いらないです」
深夜。
離れは昼間とは別の顔をしていた。
灯りが落とされて閑散とした廊下には、静けさだけが積もっている。
どの部屋も深い眠りに沈む中、レンハルトが休む寝室は薄い月光に満たされていた。
ベッドの上には規則正しい呼吸の整った寝姿。何も起きないはずの安息の時間。
――その扉が、音を立てずにそっと開いた。
「奥様」
小さな声は、枕を抱えたミンミのものだった。
足音を殺しながらベッドへ近づき、眠る寝室の主を見下ろす。
その視線は今朝からのそれとは違い、どこまでも真っ直ぐにレンハルトを捉えている。
「起きてますよね」
返事はない。
ミンミは一度だけ周囲を見回し、小さく息を吸った。
次の瞬間、彼女は枕を――ぎゅうっとレンハルトの顔に押しつけた。
「レンレン!寝たふりしないの!起きてるのはわかってるんだからねっ」
「ぷはっ!あはは、やめてください酸欠になる!俺が死んじゃったら未亡人ですよ?」
レンハルトは枕を押しのけると、目の前のたおやかな手を引いた。
すんなりとベッドへ入ってきた彼女の、そのいかにもな眼鏡とウィッグをまずは外してやる。
「そんなのダメよ!あたくしはレンレンと一緒に孫もひ孫も玄孫も見るんだからっ」
「それはまた壮大な計画ですねえ。じゃあお互い頑張って長生きしましょうね、エレクトーラ」
怒っている姿もまた美しいレンハルトの最愛の妻は、メイド服のシワを気にしながら不満そうに唇を尖らせた。
「もう!何かレンレンの役に立とうと思って来たのに、今日一日全然上手くいかなかったわ!せっかくだから変装してみても一瞬でバレるし、洗面用のお湯を運んだら転ぶし、タオルはちっとも見つからないし!」
「わざわざ本邸まで行ったのに、リネン室に辿り着けなくて残念でしたね」
化粧で細かく描いたらしいそばかすを、レンハルトは指先で優しく拭う。
「お花の泥で廊下を汚しちゃってたし――部屋の床はレンレンが綺麗にしてくれたのよね?ごめんなさい」
「あのくらいお安い御用です。花を生けてくれてからパッと華やかになって、俺も嬉しかったですよ」
エレクトーラは幸せそうに大好きな夫の手に頬を寄せ――そこでハッと目を見開いた。
「でも紅茶の件は納得いかないわ!どうせまたあたくしが失敗すると思ってたんでしょう!」
「たまたまですよ、たまたま。ああ、それで夕食がアレだったわけですね。俺へのちょっとした仕返し、と」
なかなかに衝撃的な見た目の緑のペーストは、確かに食欲を裏切るものではあった。
「なのに何で完食しちゃうの!?」
「それはエレクトーラの優しさのお陰ですねえ。俺の好きなほうれん草味だったじゃないですか」
きーっ!と隣で頭を抱える妻が、レンハルトは可愛くて仕方がない。本当に、日に日に魅力が増していく罪な女性だと心から思う。
「今日は一日中本当に楽しかったですよ。エレクトーラのお陰で元気が出ました。それにしてもよくわかりましたね?俺が起きていたこと」
「だってレンレン、いつもはもっと寝相がやんちゃよ?」
なるほど、とゆるく笑いながらレンハルトは妻の細い身体をそっと抱き寄せた。
エレクトーラは夫の長い銀髪を手に取ると、あみあみと三つ編みにし始める。メイド仕事は不器用ゆえに失敗の連続だったが、慣れた作業なら問題なくこなせるのだ。
「手紙を書いた時は、こうしてエレクトーラが来てくれるとは思いませんでしたよ。何時間も顔を見られないと落ち着かないですからね。ありがとうございます」
「レンレンは本当に災難だったわね。グランディア公爵め、簡単には許さないんだから!あたくしだってレンレンにウェディングドレスを着てもらったことないのに、ズルいわ!」
「いやそっちですか。俺、今回はさすがにちょっと傷ついたんですが?まるで男と気づいてもらえなくて」
そこでレンハルトはふと、まさか予定通り妹のレミリッサが公爵家を訪れていたら、アシュレイは「兄君ではなく令嬢本人が来てくれ」などと言い放ったのではないか?と思った。
確かにレミリッサはとても凛々しい女騎士だが――さすがにそんなはずはない、と言い切れないのが悲しいところである。
「まあ、そのくらい精神的に余裕がないということなんでしょうが」
「え?グランディア公爵って普段からああじゃないの?」
「どうやらそうみたいですねえ。使用人たちによると、普段はあそこまで話が通じないわけではないらしいです」
言いながら人差し指を二度振れば、そこには魔力で創られた半透明の蝶が現れる。攻撃魔法以外なら何でも使えるレンハルトの、いつもの潜入偵察魔法だ。
「まあ!そんな魔法を使って調べものだなんて、レンレンったらいけない公爵夫人ですこと!」
「そうですよ? こうして夜に新人メイドをベッドに連れ込むような――俺は悪い奥様です」
エレクトーラの冗談に笑いながらそう返したレンハルトは、月明かりの下では黒に見える濃紺のメイド服をするりと撫でた。
「それにしてもミンミとは素敵な名前ですね。紹介状はどうしたんです?」
「お母さまに書いてもらったわ。昨日レンレンからの手紙が届いてすぐに実家に行ったの。ミンミはお母さまが飼い始めたワンちゃんの名前を借りたのよ。ふわっふわで可愛いの!」
エレクトーラは、この国で王家に次いで高貴な大公家の出身だった。
しかし深窓の姫君とは真逆の、とても行動力溢れる女性である。
「なるほど。義母上はなんと?」
「レンレンに迷惑だけはかけるなって――ふんっ!明日はもっと上手くメイドできるわ!期待してて!」
気合いを入れてみせる彼女に苦笑しながら、レンハルトは首を振った。
「残念ながら、そうもいかないんですよ。蝶で本邸の執務室を覗いてみたら、かなり面白いものを見つけてしまって」
夫の言葉にエレクトーラは目を丸くする。
「え?グランディア公爵は一日中ずっと執務室にいたはずよ。どうやって?」
「ああ、彼が正式に爵位を継ぐ前に使っていた方の執務室ですよ。そちらはお父上が亡くなって以来、一度も足を踏み入れていなかったようですね」
そこで見つけたものについて、レンハルトは明日アシュレイと話し合うつもりだった。
「最初は、彼には少々お仕置きが必要かと思っていたんですがねえ――話が変わってきました」
「勝手に出歩くなと言ったはずだが?」
執務室の椅子に座ったまま睨みつけてくるアシュレイは、どこか疲れているように見える。顔色があまり良くない。
唯一の肉親だった父を亡くしたことが、想像以上に堪えているようだった。
「それを承知した覚えはありませんよ。それより、昼食は?昨夜も今朝もほとんど何も口にしていないと聞きましたが」
「食べる気がしない」
「それでは体に毒ですよ。健康は願っても手に入らない資産ですから、お持ちなら大切にしないと」
レンハルトの後ろに控えていたミンミ姿のエレクトーラが、軽食と一通の手紙を載せたシルバートレイを執務机に置く。
迷惑そうな顔をしたアシュレイは皿やグラスには見向きもせず、無造作に手紙を摘み上げ――封筒に書かれた文字に大きく目を見開いた。
『アシュちーへ
ダディクールの遺言状だよ⭐︎』
封蝋がされていなかったため、本当に申し訳ないが先に中身を確認させてもらったレンハルトは、遺言状の最初の数行で脱落しかけたのを思い出した。
今も笑ってはいけないと、頬の内側を噛んで耐える。
『親愛なるアシュちーへ
はお♡ 今頃は天国にいるダディクールだよ♪
きっとアシュちーはまだまだ落ち込んでるよね?
でも大丈夫! この遺言状を読んだらきっと――』
古参の使用人に確認したところ、宰相すら務めたあの厳格な先代公爵は、屋敷の中では自分をダディクール・息子をアシュちーと呼ぶなど、なかなか愉快なお人だったらしい。
「アシュトン様は元々はご自身をアシュちーと称しておられましたが、一人息子にアシュレイ様と名付けられた折に、その愛称を譲られたのです――くっ」
「いや感動秘話みたいに語ってますけど、最後笑っちゃってるんですよねえ」
長年仕えた使用人でもやられる、癖が強すぎる先代公爵アシュトン・グランディア――の遺言状を、この真剣な表情で読めるアシュレイは、さすがは先代の最愛の息子だった。
そんな彼が突如弾かれたように顔を上げて、レンハルトを見る。
「馬鹿な!ヘイヴン侯爵家と縁を繋げというのは」
「縁談を持ちかけろ、という意味ではなかったようですね」
遺言状の半ば辺りには、ヘイヴン侯爵家の次代はとても優秀で、領地運営も商会経営も同世代では頭ひとつ抜けていること。
それでいて武門の家系らしくない物腰柔らかな男性なので、困ったら屋敷の管理や貴族家当主としての心構えについて相談してみること――と書かれていた。
つまり先代公爵がアシュレイに縁を持ってほしかったのは、妹レミリッサではなく、兄であるレンハルトの方だったのだ。
「私は勘違いをしていたのか。父上の望みはお前、いや貴女の兄君との交流だったか」
「なんで性別の誤解はそのままなんですか!?俺です俺、レンハルト・ヘイヴンは俺!」
体が弱く騎士になれなかった代わりに積み重ねてきたものが、思わぬ形で評価されていた。
その事実にじんわりしていたが、アシュレイの言葉にレンハルトは思わず声を上げる。
背後でエレクトーラが「レンレン美人さんだから」と小さく呟いた。
「まさか遺言状があったとは。最期の言葉だけかと思っていたな――これはどこに?」
「貴方が元々使っていた執務室ですよ。こちらには持って来ませんでしたが、執務机に報告書と並べて置いてありました」
「報告書?」
何も思い当たらない様子のアシュレイに、遺言状をすべて読むよう伝える。素直に続きを読み始めた彼は、やがて驚愕の表情を浮かべた。
『頑張っても公爵家を維持するのが難しいなぁと思ったら、アシュちーの代で爵位を返上しちゃってもいいよ⭐︎
グランディア公爵家は王家の血も薄〜くなってるし、そもそもあの小っちゃい領地でずっとやってく方が無理だからね!
実は何代か前からほぼ詰んでたから、あんま気にしないでアシュちーの自由にやってこ♪
王家には話を通してあるし、使用人の皆にも紹介状を渡してあるから、だいたい一年くらい経つまでにはどうするか決めてね♡』
グランディア公爵家に使用人が足りていなかった理由が察せられる。
貴族の世界は優雅で、煌びやかで――そして残酷だ。
真っ直ぐな気性のアシュレイではこれから苦労するに違いないと、父親として案じた結果がこの提言なのだろう。
あるいは。
アシュレイをただの貴族のままにしておくのは、もったいないと思ったか。
レンハルトは遺言状に添えられた報告書の内容を思い浮かべた。
『アシュちーは当主教育の一環だと思ってたかもしれないけど、身分を隠して平民として働いてもらったのは、ダディクールの作戦だよ♪
仕立て屋さんとか、パン屋さんとか、宿屋さんとか。
アシュちーはどのお店でもすごく褒められてて、ダディクールは本当に鼻が高かったよ!
ちょっと無愛想だけど真面目で、地味な仕事も丁寧にやってくれて、物覚えもとっても良いって。皆見る目あるよね⭐︎
短期じゃなくてずっと働いてほしかった〜って言ってるって報告受けてるから、平民になったらどこかで雇ってもらうのもいいかもね!
アシュちーはたぶん他にはいない、市場でお肉やお野菜を値切って、自分で料理を作って、後片付けまできちんとできる素敵な公爵様です。
この生活力は本当に誇れることだからね♡』
遺言状の隅には『シチューすごく美味しかったよ』という書き込みもあった。
『アシュちーは賢いから、文官になるのも良いかもね!生涯安泰だよ♪
あ、でも絶対に宰相とか、出世を目指しちゃダメだよ?
好きで結婚した奥さんの死に目に会えなかったりすると、一生引きずって地獄だからね⭐︎
アシュちーにはそんな思いをしてほしくないから、文官になったらのんびりお仕事できる部署で、楽しく過ごしてね♡』
ここからさらに遺言状は続くが、ほぼアシュちー自慢なので驚くような内容ではない。
それでも食い入るように読み進めるアシュレイを、レンハルトは黙って見守った。
隣にはエレクトーラが立って、無言のまま夫の手にそっと触れる。
その手を時折握り返したりしながら、しばらく待っていると――やがてアシュレイが大きく息を吐いた。
まるで魂を半分吐き出すかのような、深い深い呼吸。
それからシルバートレイのグラスを取って口をつけると、一気に中身を飲み干した。
そして次にこちらを見た時アシュレイは――その印象が、先程までとはまるで違っていた。
憑き物が落ちたような顔とはこういうものか、とレンハルトは感心する。
「この度のこと、グランディア家当主として深くお詫び申し上げる」
「いえ。こちらも勝手にお父上の遺言状を拝見してしまいましたから」
「その件については構わない。礼を失していたのはこちらだからな。それと強引に話を進めた態度を、アシュレイ個人としても謝罪したい。本当に申し訳なかった」
きっちりとした角度で、誤魔化すことなく誠実に頭を下げる――その姿は確かに、貴族らしいそれではなかった。
貴族の持つべき盾がなく、しかし貴族の持たない武器がある。
その興味深い本質をようやく見せたアシュレイに、一度エレクトーラと目を合わせてから、レンハルトは微笑みながら問いかけた。
「それで貴方は、これからどう生きるんですか?」
「私は――」
「兄上が大変な目に遭っている時に、私はっ!」
「別に構いませんよ。もう解決したことですからね」
魔獣討伐任務から無事に帰還した妹は、グランディア公爵家でレンハルトの身に起きたことを知って憤慨した。
それから急に自分のことを責めだしたので話を聞くと、どうやら騎士団長を務める第二王子に呼び出され、跪いて求婚されたらしい。
兄の窮地も知らず、驚きにふわふわしながら帰ってきた自分が許せないと言うレミリッサは、実に騎士らしい生真面目さだった。
殿下は下手を打ちましたねえ、とレンハルトは苦笑するしかない。
急な任務をねじ込んで、公爵家とのお見合いを潰したのは自分である――と告げてしまったのも悪手だった。
王子がようやく動いたというのに、レミリッサの中では「兄上の苦労はお前のせいか!」で全てが上書きされてしまったのである。
「あんな卑怯者の求婚などお断りです!裏庭で鍛錬をしてきます!」
そう言って出て行ったレミリッサと入れ替わるようにして、エレクトーラが部屋に入ってくる。
隣に座った愛しい妻は、呆れたようにレンハルトの頬をつんつん突いた。
「レンレンったら。グランディア公爵家の爵位返上手続きを急がせるのに、第二王子の名前を使ったこと、教えてあげないのね?」
「殿下からは何も頼まれていませんからね。それに正直、大公家から妻を得た次期侯爵の妹が王子妃、というのはちょっとねえ」
「まあ、お可哀想な第二王子殿下!」
くすくす笑ったエレクトーラは、レンハルトの前に広げられた手紙を覗き込んだ。
そこには手続きを早めたお陰で、滑り込みで平民として文官試験を受けられたアシュレイが、満点で合格したこと。
そして、爵位を返上した元公爵様ー!と一部の下級貴族がウザ絡みをしたものの、同僚たちが徹底的に追い払ったこと等が書かれていた。
「レンレンは本当に顔が広いわね!監査部にもお友達がいるなんて」
「ええ。どうやらアシュレイくんは、陽あぶりの刑を耐えられる人材として重宝がられているようですよ」
「ひ、陽あぶり??」
思わず聞き返したエレクトーラに、レンハルトは頷く。
「まるで太陽のように暑苦し――熱血な名物上司がいるらしくて。ジリジリ灼かれるような熱さだと。でも彼はほら、独特なテンションの年上男性には耐性があるでしょう?」
「ああ、ダディクール!」
それはもう、とんでもない逸材が来た!と部署内が沸いたことは想像に難くない。
屋敷を手放しても文官なら官舎住まいだし、そもそも公爵家に生まれながら一人暮らしの経験があるアシュレイは、早々に平民生活を謳歌しているらしい。
「良かったわ。後はレンレンがあたくしのためにウェディングドレスを着て見せてくれたら完璧ね!」
「いやそれは。まだ諦めてなかったんですか?」
「あたくしの知らないレンレンがいるなんて許せないもの!」
そう言って奮い立つエレクトーラは、二児の母とは思えないほど可愛らしいが――子どもたちに見せられない格好のリクエストは、さすがに少し困ってしまう。
今回はタイミング良く、じいじとばあばが二人を領地に連れ帰っていたので、父親が女装して結婚式を挙げたことは何とか秘密にできそうだが。
額に手を当てて天井を仰いだレンハルトは、とりあえず問題を先送りすることにした。
「まあ、また白い結婚を強要される機会でもあれば、ですね」
「約束よ、レンレン!その時はあたくしも、最初からミンミになって潜入するわ!」
「ははは。じゃあもしそうなったら――愛してくれる人を連れ込んでみますか」
※アシュレイくんの上司の名前はマツォーカさんです




