↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR

『君がいなくても眠れる』と妻を遠ざけた夫は、二千の夜、彼女が自分を眠らせていたことを知らなかった

作者: 歩人
掲載日:2026/06/06

 扉の向こうで、息が浅く上がっては落ちた。


 胸の上のほうで息をしている人の音だ。まだ眠りは浅い。これがもう少し深く、腹のあたりまで降りてくれば、彼はようやく朝まで眠れる。降りるまで、私はここにいる。


 私は燭台をひとつだけ灯して、夫の寝室の前に立っていた。夜は、この屋敷でいちばん長いものだった。私の夜が、いちばん長い。


 そっと扉を押す。


 部屋に入ると、まず頬に温もりが触れた。火の色ではなく、温度のほうが先に来る。指の甲を炉に近づける。掌をかざせば、もう、この人のための温度だとわかった。暑すぎれば人は眠れない。寒すぎても眠れない。そのあわいの、ちょうどよい温もりに、暖炉はもう落ちついている。


 小卓のあたりに、かすかな草の匂いが立っていた。今宵の彼は、昼間の客で気が昂《たかぶ》っていた。こういう夜は、鎮める草を少しだけ多くする。多すぎれば頭が重くなって、かえって眠れない。少なすぎれば効かない。その加減は、彼の眉間《みけん》の皺を見ればわかった。


 眉間が、まだ少しだけ寄っている。


 私は寝椅子の脇に膝をつき、声を出さずに彼の息を数えた。私の息を、彼の息に重ねる。彼が吸えば私も吸い、彼が吐けば私も吐く。そうしてしばらく合わせてから、少しずつ、私の息のほうを遅くしていく。人の息は、すぐ隣で誰かがゆっくり呼吸していると、釣られて遅くなる。母がそう教えてくれた。


 吸って、止めて、吐いて。


 彼の息が、だんだんと腹のほうへ降りていった。眉間の皺がほどける。胸の上下が、ゆっくりと、深くなる。


 これで、眠る。


 二千の夜。私はそれを指折り数えたことがあっただろうか。ない。ただ、嫁いだ夜から積み重ねた夜の重さを、自分の身体の疲れだけが知っていた。眠らせる手は、自分の眠りをいつのまにか手放していた。


 彼の寝息が、規則正しく闇を満たしている。明日からは、誰がこの息に、自分の息を重ねるのだろう。——そんな問いを、もう私が抱えなくていい夜が来る。それが、今宵だった。


 燭台の灯を、私は指でそっと摘み消した。あとには、彼の寝息だけが残った。




 あの人を、はじめて眠らせた夜。私はいまも、指がそれを覚えている。


 嫁いで三日目。まだ屋敷の廊下の曲がり角も覚えきっていないころだった。夜半に侍女が私の部屋の扉を叩いた。


「奥様、旦那様が……お眠りに、なれないご様子で」


 言い終わらないうちに、私は寝間着のまま廊下を歩いていた。アルヴィスの寝室では灯りがいくつも灯されていて、彼は寝台の上で身を起こしていた。目が、爛々《らんらん》と冴えている。眠れない人の目だ。何日も眠っていない者の、底の見えない目だった。


「……来なくていい。どうせ、眠れないんだ」


 彼は私を見ずにそう言った。生まれつき夜に眠れぬ質《たち》だと聞かされてはいたが、目の当たりにするのは初めてだった。眠れぬ者がどれほど追い詰められた顔をするのか、私はそのとき初めて知った。


「灯りを、半分落としてもよろしいですか」


 私は尋ねた。


「好きにしろ。何をしたって同じだ」


「お辛いのですね」


「……辛いなんてものじゃない。三日、眠っていない。目を閉じても、頭の芯が、燃えているように冴えるんだ」


 私は燭台を半分消した。暗すぎると不安になる人もいる。彼の目を見て、これくらいだと決めた。それから暖炉の火を熾火にして、香炉に草を一摘み入れた。彼の寝台の脇に膝をつき、何も言わずに、ただ彼の息に私の息を重ねた。


「……何をしている」


「お背中に、手を当ててもよろしいですか」


 彼は答えなかった。私は黙って、彼の背に手を当てた。掌で、ゆっくりと円を描く。母が、眠れぬ貴人にそうしていたように。


 しばらくして、彼の昂った息が、少しずつ落ちていった。


「……妙だな」


「はい」


「眠れる、気がする」


 それが、出会って三日目の夫が、私に初めてかけた言葉だった。


「ええ。眠ってよろしいのです」


「君は……夜伽係《よとぎがかり》、なのか」


「ええ。寝間を共にする役ではございません。眠れぬ夜を、香と火と声で整え、人を眠りへ運ぶ者です」


「……眠りだけを、作るのか」


「ええ。閨《ねや》の務めではなく、眠りの務めにございます。眠れぬ人の傍らに座り、暖炉の温度を測り、香を選び、息を合わせて、ただ眠りだけを」


「妙な役だな。聞いたことがない」


「数も、もう少なくなりました。母が、そうでした」


 それ以上は言わなかった。彼の息が深くなり、やがて寝言ひとつないまま、彼は眠りに落ちた。私はその寝顔を、しばらく見ていた。


 ウィンタヴェイル公爵家が私を選んだのは、私が夜伽係の娘だったからだ。それは嫁ぐ前から、はっきりと言い渡されていた。


「丈夫な嫁が要るのではない。あれを眠らせられる嫁が要るのだ」


 義父はそう言った。


「眠らせるだけで、よろしいのですか」と、私は尋ねた。


「ああ。あれが朝まで眠れさえすれば、それでいい。ほかには、何も望まん」


 私はうなずいた。条件のはっきりした取引のほうが、私にはむしろ気が楽だった。愛されてではない。役に立つから、この家に呼ばれた。それでよかった。母から受け継いだこの手が、夜の底にいる誰かを眠らせられるのなら、それで十分だと思っていた。




 それからの夜は、いつも同じだった。


 夕方になると、私の身体がそわそわし始める。日が傾けば、彼の夜の支度が始まるからだ。暖炉に薪をくべ、ほどよく熾火になる頃合いを見計らう。香炉の草を選ぶ。その日の天気を窓から見て、湿った夜か、乾いた夜かを確かめる。湿った夜は香の通りが鈍くなるから、少し多めに焚く。


 夜の質は、毎晩違った。


 昼間に来客があれば、彼は気が昂って眠れない。そういう夜は、声を落とした寝物語が要る。


「北の山に、雪を呼ぶ鹿がおります」と、私は低い声で語りはじめた。「その鹿が角を振ると、空から雪が、ひとひら、ふたひら、と落ちてまいります……」


 話の中身はどうでもよかった。声の高さと、速さと、間が大切だった。一語ごとに、私は自分の声をほんの少しずつ低く、遅くしていく。彼の息に合わせて。


「……今日の話は、聞き終える前に眠ってしまいそうだ」


「それでよろしいのです。聞き終える話ではありませんから」


 彼は半ば眠りかけた声で、ひとりごとのように続けた。


「この部屋は、不思議だな。横になると、自然と眠くなる」


「ええ。よい部屋でございます」


「君も、もう休むといい。こんな時刻まで、僕につき合わなくても」


「……はい」


 休むといい、と彼は言った。私がいつ休むのか、彼が知らないことを、私は黙っていた。


 暖炉の温度も、香の加減も、声の落とし方も、すべて私がその夜のために選んだものだった。けれど彼にとっては、部屋がもともとそういう部屋だった、というだけのことだったのだろう。窓の外で雨が降れば香を多めに焚いた、その手のことを、彼が尋ねたことは一度もなかった。咎める気は、なかった。眠るための部屋が、ひとりでにそうなっていると思える——それが、私の仕事のいちばん良い出来だったのだから。


 彼が小さく笑って、また枕に沈む。目を閉じればいつのまにか眠っている、彼にとっては、ただそれだけの夜が、何百回となく繰り返された。その眠りのために、誰が暖炉の前にしゃがみ、誰が香を選んでいたのか——考えなくていいように、私が黙っていたのだから。


 冬の夜はつらかった。寝室の暖炉だけでは身体が温まらず、私は隣室で毛布にくるまって、彼の寝息に耳を澄ませた。息が乱れれば、すぐに起きて様子を見る。眠りの浅い夜は、暖炉の火を足しに、何度も廊下を往復した。


 夏の夜は、暑さで彼が寝苦しがった。窓を開ける加減ひとつで、虫の声が入りすぎても眠れない。風が止んでも眠れない。その夜ごとのあわいを、私は毎晩、几帳面に手控えに書き留めた。


 乾いた夜。雨の夜。風の強い夜。客のあった夜。そのどれもに、眠りの表情があった。


 けれどそれは、いつも同じひとつの眠れなさだった。生まれつき夜に冴える、この人の夜。その一種類の夜を、私は飽きるほど知っていった。世の中に眠れぬ夜が、ほかにもいくつもあるのだということを、私はそのころ、まだ知らなかった。知る必要もなかった。私が眠らせるべき夜は、この屋敷にひとつだけだったから。


「フィオナ。お前は、なぜ夜遅くまで起きているのだ」


 あるとき、廊下ですれ違った義母が、訝《いぶか》しそうに私に尋ねた。


「旦那様のお眠りを、見ておりますので」


「侍女にやらせればよかろう」


「いえ。これは、私の手でなければ」


 義母は何も言わずに行ってしまった。きっと、地味な嫁が地味な仕事を抱え込んでいるとしか映らなかったのだろう。それでよかった。私の手仕事は、気づかれないことが正しかった。彼が朝まで眠り、健やかに目覚める——それだけが、私の役目の答え合わせだった。




 夜が、ひとを殺しにくると思った夜があった。


 嫁いで二年目の冬だった。何が彼の心を乱したのか、その夜の彼は、どうやっても眠りに落ちなかった。暖炉の温度を変えても香を変えても、寝椅子から起き上がってはまた横になる。目だけが冴えていく。眠れない夜が続くと、人は眠ることそのものに怯えるようになる。彼はその淵にいた。


「もう、いい。眠らなくていい。眠ろうとするから、苦しいんだ」


 彼は両手で顔を覆った。


「アルヴィス様」


「眠れないんだ。何をしても。君が来たって同じだ。——いつか、僕は眠れないまま死ぬ」


 私は香炉の火を落とした。それから、灯りをすべて消した。真っ暗にしたのは、初めてだった。


「……何をする気だ」


「お手を、お借りします」


 私は彼の手を取り、自分の胸に当てた。私の鼓動が、彼の掌に伝わるように。


 闇のなかで、彼の指がわずかに強張《こわば》った。掌の下で、私の胸が静かに上下する。男の手の重みと、その熱が、薄い夜着ごしに伝わってくる。私はそれを意識すまいとした。これは眠らせるための手であって、それ以上のものではない。けれど、暗闇のなかで他人の鼓動に触れるというのは、昼の光の下では決して許されない近さだった。


「私の息を、聞いていてください。眠ろうとなさらなくて、いいのです。ただ、私の息だけ、聞いていてください」


 そうして私は、ゆっくりと呼吸を始めた。吸って、止めて、吐いて。彼の掌の下で、私の胸がゆっくり上下する。眠れなくていい。眠ろうとしなくていい。ただ、隣で誰かがこうして息をしている。その音だけを、闇のなかに置いた。


「……君の心臓の音が、聞こえる」と、彼が闇のなかで呟いた。


「ええ。聞いていてください。それだけで、いいのです」


「こんなことを、毎晩……君は」


「お話しにならないで。息だけ、私に合わせてくださいませ」


 長い夜だった。


 彼の手が、少しずつ温かくなっていった。強張っていた指の力が抜けていく。やがて、私の胸に当てた彼の掌が、重くなった。


 眠っていた。


 私は、その手をすぐには戻せなかった。彼の掌が私の胸に置かれたまま、闇のなかで、私自身の鼓動だけが速くなっていた。これは仕事の手だ、と何度も自分に言い聞かせて、ようやく私は彼の手をそっと寝具の上に戻した。それから朝が白むまで、寝椅子の脇に座っていた。彼の息が途切れないか、ただそれだけを確かめて、一晩が過ぎた。


「……君が、いてくれて、よかった」


 明け方、寝言のように、彼がそう言った。眠れぬ夜を越えた朝にだけ、彼はそういうことを言った。きっと、本人は覚えていない。日が昇れば、いつもの彼に戻っていた。


 それでよかった。私は、彼が「君がいてくれてよかった」と昼間に言うことを、望んではいなかった。望めば、苦しくなる。望まなければ、ただ手を動かしていられた。


 ただ、あの夜だけは。闇のなかで彼の掌の重みを胸に感じたあの夜だけは、私はほんの一瞬、役目を忘れかけた。手仕事の手と、女の手の境目が、暗がりのなかで溶けかけた。だからこそ私は、それを誰にも言わずに、いちばん深い引き出しに仕舞った。


 そうした夜をいくつ越えたか、数えてはいない。けれど、眠りの浅い癖も、夜半に目が覚める癖も、あの夜々が私の身体に刻んだものだ。


 ふと思うことがあった。私はこの人を毎晩眠らせている。けれど私を眠らせてくれる人は、この屋敷のどこにもいない。母が死んでから、誰かに息を合わせてもらったことは、一度もなかった。


 幼いころ、眠れない私の背に、母はよく掌を当ててくれた。


「フィオナ、息を合わせるとね、眠りはひとりでするものじゃなくなるの」


「おかあさまも、誰かに合わせてもらうの」


「ええ。母さんも、誰かにそうしてもらいたい夜が、あるのよ」


 あのとき母が、誰にそうしてもらっていたのか、私は知らない。聞かないうちに、母は逝ってしまった。いまになって、母のあの夜の声の翳りが、私にもわかる気がした。毎晩、人の眠りを作る手は、自分の眠りだけを、どこにも預けられない。


 馬鹿げた思いつきだと、すぐに打ち消した。眠らせる手は、眠らせてもらうためのものではない。それでもときどき、暗い隣室で寝苦しい夜更けに、誰かのこの背に掌を当ててほしいと、ほんの一瞬だけ、思ってしまう自分がいた。思ってしまってから、いつも私は、いちばん深い引き出しのほうへ、その願いを押し戻した。




 彼の顔から夜の翳《かげ》りが消え始めたのは、三年目の春ごろだった。


 目の下の隈が薄れ、頬に肉が戻り、朝の目覚めがよくなった。あれほど夜を恐れていた彼が、ある夜、私が来る前に自分から灯りを落として横になっていた。


「フィオナ、見ろ。昨夜は、君が来る前に眠ってしまったんだ」


 彼は子どものように笑った。


「ええ。よく、お眠りでした」


「君のおかげだな」


 その一言が、思いがけず胸に染みた。彼が私の手仕事を口にしたのは、それが最初で、たぶん最後だった。


「いいえ。あなたが、ご自分で眠られたのです」


 私はそう答えた。本当は、嬉しかった。けれど、嬉しいと顔に出すのは、なぜだか気が引けた。喜んでしまえば、この手仕事が「報われたいもの」になってしまう気がした。報われたくて続けているのではない。彼が朝まで穏やかに眠る——ただそのために、私は毎晩起きていたかった。


 眠れるようになるにつれて、彼は外に出るようになった。夜会に呼ばれ、馬に乗り、夜遅くまで帰らない日が増えた。


 ある夜、遅く帰った彼に、私はいつものように寝室の支度ができていることを告げた。


「今夜も、お支度はできております」


「ああ……今夜はいい。疲れているから、すぐ眠れる」


 彼はそう言って、私のほうを見もせずに寝室へ入っていった。


「おやすみなさいませ」


 扉が閉まる。返事は、なかった。私は廊下に灯した燭台を、ひとつ、また消した。彼が私を呼ばない夜が、こうして少しずつ増えていく。それが、私の仕事のいちばん良い出来なのだと、自分に言い聞かせた。


 それは喜ばしいことのはずだった。私が望んだ結果そのものだった。


 なのに、隣室で彼の帰りを待ちながら、ときどき奇妙な寂しさがよぎった。彼が健やかになるほど、私の手の出番は減っていく。眠れぬ夜は遠のき、彼が私の名を呼ぶこともなくなった。


 それでいい、と私は自分に言い聞かせた。気づかれない手仕事が、いちばん良い仕事をしたとき、それはやがて要らなくなる。それが、夜伽係の手の行きつく先なのだから。


 ただ、行きつく先が、こんなに早く来るとは思っていなかった。




 三日前のことを、私は思い返していた。


 午後の客間に、笑い声が満ちていた。アルヴィスと、遠縁のセシリア。十八になる彼女は、健やかそのものの頬でよく笑い、よく動いた。


 私は紅茶を運んで入った。


「フィオナ」


 アルヴィスが私を呼んだ。声には張りがあった。夜に怯えていたころの、かすれた呼び方ではなかった。


「もう、夜のあれはやめにしよう」


 あれ、と彼は言った。眠りの世話、とは言わなかった。


「僕はもう、すっかり良くなったんだ。セシリアとも約束したんだよ。今度の夜会に出るって。いつまでも、寝かしつけてもらっているようでは、男として恰好がつかない」


「お従兄《いとこ》様、本当にお元気になられて。前は、夜になるとお顔が真っ青でいらしたのに」


 セシリアが屈託なく笑った。彼女に悪気はなかった。健やかに眠れる人に、眠れぬ夜の重さが見えるはずもない。見えないように、私が隠してきたのだから。


「だろう。もう昔の僕とは違うのさ。——なあフィオナ、君も肩の荷が下りるだろう。毎晩あんな遅くまで起きて、苦労をかけた。これからは、君もゆっくり眠るといい」


 彼は、ねぎらっているつもりだったのだと思う。悪意はなかった。


「君がいなくても、僕はもう眠れる」


 アルヴィスは軽やかにそう言った。


 まるで、もう要らなくなった古い毛布を畳むように。重荷をひとつ下ろすように。


 胸の奥が、すうと冷えた。私が毎晩、自分の眠りを手放してまで作ってきた夜を、彼は「いなくても眠れる」夜だと言った。私のいない夜を、彼はもう、待ちかねている。


 毎晩この人を眠らせて、私は、誰にも眠らせてもらえなかった。それでよかったはずだった。けれど「いなくても眠れる」と言われた瞬間、はじめて、その片側のなさが、こんなにも寒いものだと知った。誰も私の背に掌を当てない夜が、これから先、私の生のぜんぶになる。それを、この人は知らない。


 私は紅茶を注ぐ手を止めなかった。琥珀の液が白い杯に静かに満ちていく。湯気が立つ。私はその湯気の向こうで、ただ微笑んだ。


「ええ」


 それだけを言った。


 言い返す言葉は、いくつも浮かんだ。あなたは眠れるようになったのではない。眠らせてもらっているだけだ、と。私がいなくなれば、また冴えた目で夜を見つめる日が戻ってくる、と。


 けれど私は、それを飲み込んだ。


「あの……フィオナ様」


 帰り際、玄関で、セシリアがふと声をかけてきた。


「お従兄様の、夜のお世話のやり方を、私にも教えていただけませんか。私、お従兄様のお役に立ちたくて」


 悪気のない、まっすぐな申し出だった。私は少しだけ迷って、こう答えた。


「ええ。寝室の小卓の引き出しに、覚え書きがございます。お読みになれば、火加減も、香も、すべて書いてあります」


「まあ、それなら私にもできますね」


 彼女は嬉しそうに笑った。私は、その笑顔に何も言えなかった。読めばできる——そう信じている人に、読んでもできないのだと告げる言葉を、私は持っていなかった。


 言葉で訴えても、彼には届かない。届くのなら、五年のあいだに届いていたはずだ。


 その夜、私は離縁の書面を整えた。


 筆を擱いたとき、侍女がひとり、茶を運んできた。


「奥様……本当に、お発ちになるのですか」


「ええ」


「旦那様は、奥様がどれほど……」


「いいのです」と、私は侍女の言葉を、静かに遮った。「気づかれない手仕事が、いちばんよい仕事をしたとき、それは要らなくなるものなの。それだけのことよ」


 侍女は、何か言いたげに口を開きかけて、けれど結局、頭を下げて去った。


 涙は出なかった。不思議なほど静かな気持ちだった。




 最後の夜の支度を終えて、私はアルヴィスの寝顔を見ていた。


 暖炉の熾火に、頬がほのかに照らされている。穏やかな寝息。出会ったころの彼を知る者は、この顔を信じられないだろう。


 嫁いできた夜、アルヴィスの目は爛々と冴えていた。眠れない、と荒れた声で吐き捨てた。夜が来るたびに、彼は死の淵を覗くような顔をしていた。


 その顔が、こんなに穏やかになるまで、いくつの夜を重ねただろう。息を数えた夜が、いくつあっただろう。


「……お元気で」


 声に出してから、誰にも届かないことに気づいて、私は小さく笑った。


 それから、もう一度だけ、彼の額にそっと掌をかざした。触れはしない。ただ、夜の最後に、いつもそうしていたように。眉間に、皺はなかった。私が初めて触れたあの夜の、凍りついたような強張りが嘘のように、彼の顔はやわらかく緩んでいる。


 この眠りを作るのに、二千の夜がかかった。


 掌を引く。彼は何も知らずに眠っている。それでいい。私の役目は、もう終わったのだ。


 扉を閉める。




 屋敷を去る支度に、たいした荷物は要らなかった。


 嫁いだとき持ってきたのは、母の形見の古い香炉と、いくつかの草の種だけ。それだけを麻の袋にまとめる。


 最後に、私は寝室の小卓の前に立った。


 いちばん下の引き出しを開ける。なかには綴じた紙の束が入っている。五年ぶんの、眠りの覚え書きだ。


 どんな天気の夜に、どの草をどれだけ焚いたか。昂った夜には何が効き、何が効かなかったか。暖炉の温度、寝物語の声の高さ、彼が眠りに落ちるまでの拍——そのすべてを私は毎晩、几帳面に書き留めてきた。


 筆跡は五年で少しずつ変わっている。最初のころの硬い字。慣れてからの流れる字。指のかじかむ冬の夜の、わずかに乱れた字。


 めくれば、二千の夜が、そこにあった。


 誰に読ませるつもりもなかった。私が忘れないために、ただ書いていた。


 昨日のセシリアの言葉が、ふとよみがえった。覚え書きを読めばできる、と彼女は信じていた。


 私はもう一度、束をめくった。「香、一摘み多く」「火、熾火」「声、息に合わせて」——そこに書いてあるのは、結果だけだった。一摘みとは、どれほどの一摘みか。熾火とは、どの加減の熾火か。息に合わせるとは、誰の息に、どこまで合わせるのか。私自身、それを言葉にしようとして、いつもうまくいかなかった。書けるのは、こぼれ落ちたあとの抜け殻だけだった。


 私はその束を、引き出しのなかにきちんと揃えて戻した。


 持っていこうとは思わなかった。これは、この家のものだ。私の手が消えても、せめてこの覚え書きがあれば——そう思ったのかもしれない。あるいは、ただの未練だったのかもしれない。


 引き出しを静かに閉める。


 霧の夜のなかへ、私は出ていった。誰にも見送られず、誰の足音も追ってこない。それでよかった。


 馬車の窓から振り返ると、屋敷は霧にぼやけて、もう輪郭も定かではなかった。




 私が去ったあとのことを、私は知らない。


 知らないけれど、のちに人づてに聞いた。


 最初の数日、屋敷は何も変わらなかったという。


 いや、ひとつだけ変わったことがあった。夜、誰も彼の寝室に来なくなった。けれど、それを寂しいと思う者はいなかった。アルヴィスはむしろ、寝かしつけられる煩わしさから解放されたことを喜んでいた。


「どうだ、誰の世話にもならず眠れる。セシリア、明日は遠乗りに行こうか」


「まあ、嬉しい。お従兄様と遠乗りだなんて」


 妻のいない食卓は、かえって賑やかだった。誰も、夜更けの暗い寝室のことを思い出さなかった。


 異変が起きたのは、五日目の夜だった。


 夜会から戻ったその夜、アルヴィスは寝台に入ったが、眠れなかった。


 久しぶりの——けれど、彼にとっては忘れていた——冴えた夜だった。妻がいなくなって、抑えられていた不眠が、ゆっくりと牙を取り戻していたのだ。


 最初の一夜は、疲れているのだろうと思った。二夜目も、三夜目も眠れず、彼はようやく怯え始めた。目だけが冴えていく。眠れない夜が続くと、人は眠ることそのものに怯えるようになる。彼は、その淵に再び立っていた。


「セシリア……どうやって、フィオナは僕を眠らせていたんだ」


「覚え書きを、読めばいいのよ。フィオナ様が、引き出しにあるとおっしゃっていたわ」


 セシリアは覚え書きの束を見つけ、寝室へ走った。




 寝室に立ったセシリアは、まず暖炉の火加減でつまずいた。


「火、熾火……熾火って、どれくらい」


 彼女は薪を足しすぎて炎を上げてしまい、慌てて掻き出した。今度は火が小さくなりすぎて、部屋が冷えていく。覚え書きには「暑すぎず、寒すぎず」とあったが、その「ちょうど」が、彼女にはわからなかった。


「香、一摘み多く……一摘みって、どれくらい」


 彼女は香草をひと掴み入れてしまい、寝室は煙でむせ返った。アルヴィスは咳き込んだ。


「セシリア、煙い……」


「ごめんなさい、ごめんなさい。今、少なくするから」


 今度は香が薄すぎて、匂いがしなくなった。


 覚え書きを開いて、声の高さの頁を読む。「声、息に合わせて、低く、遅く」。けれどセシリアの声は、焦るほど高く、速くなった。彼女がとりとめのない話をしようとしても、声が震えて、間がうまく取れない。話せば話すほど、アルヴィスの目は冴えていった。


「効かない……どうして……書いてある通りにやったのに」


「お従兄様、もう一度、やってみますから」


「セシリア……いいんだ、無理を、しなくても」


「いいえ。書いてあるんです。ちゃんと、書いてあるんですもの。私が、読めていないだけで」


 セシリアは何度もやり直した。火を変え、香を変え、声を変えた。覚え書きのどの一行も読み落とすまいと、何度も目を走らせた。けれど書かれているのは結果だけで、その手前にある加減は、どの行にも記されていなかった。


 熾火の、ちょうどの温度。香の、ひと摘みの量。声を、相手の息のどこまで合わせて落とすか。それはフィオナの手と耳が覚えていたもので、紙に移そうとした端からこぼれ落ちてしまうものだった。


「どうして……書いてある通りにしているのに、どうして」


 彼女は寝室に立ち通しだった。夜が更け、暖炉の薪が尽き、また足され——それでも、アルヴィスは眠らなかった。


 窓の外が、白んできた。鳥が、まだ鳴かない時刻。


 夜明け前の寝室で、セシリアははじめて気づいたのだろう。


 毎晩、この時刻まで、誰かがこの部屋にいたのだと。鳥も鳴かない暗がりのなかで暖炉の温度を指で測り、息を相手に合わせていた手があったのだと。


 その手が何をしていたのか。客間で笑っているあいだ、夜会の支度に浮かれているあいだ——誰の目にも触れない場所で、何が静かに続けられていたのか。


 セシリアは覚え書きの束を胸に抱えて、声を殺して泣いたという。読めるのにできない。その紙の重さだけが、彼女の腕のなかにあった。


「ごめんなさい……ごめんなさい、フィオナ様。私、何も知らなかった。何も、見ていなかった」


 誰かを責める涙ではなかったはずだ。ただ、見えていなかったものが急に見えてしまった——その重さに、人は泣くのだと思う。


 二千の夜が、そのときはじめて、たしかな輪郭を持ったのだ。




 アルヴィスの不眠は、その後も戻らなかった。戻ってきたのは、眠れぬ夜のほうだった。


 屋敷じゅうの者が、彼を眠らせようとした。侍女頭も、料理人も、セシリアも。みな覚え書きを読み、その通りにやった。けれど、誰の手でも、彼は眠らなかった。


 アルヴィスは王都から、名のある夜伽係を呼んだ。腕の良い者を、金に糸目をつけず。彼らは寝室で一夜を過ごし、首を振った。


「書いてある手順は、間違っておりません。火も、香も、声も、書かれた通りでございます。ですが……これは、書いた者の手でなければ、同じには眠らせられますまい」


「金ならいくらでも出す。同じように眠らせてくれ」


「申し訳ございません。我々にできるのは、似た真似ごとまで。あとは……この覚え書きを書いた、その御方を捜されるよりほかに」


 アルヴィスは、初めて理解したのだろう。


 毎晩、自分が目を閉じるだけで訪れていた、あの穏やかな眠り。煩わしいと脱ぎ捨てた、あの夜々の手が、どれほどのものだったのかを。


 夜伽係が帰ったあと、彼は自分で覚え書きをめくったという。震える指で、頁を一枚ずつ。「香、一摘み多く」のところで、彼の指は止まった。一摘み。どれほどの一摘みなのか、いくら睨んでも、紙からは立ちのぼってこなかった。彼は声に出して呟いたそうだ。「半分でも、一摘みでも……どれも、僕は見ていなかった」と。眠っているあいだのことだったから、見ようがなかった。けれど、見ようとしたことも、一度もなかったのだ。


「セシリア」と、彼はある夜、声を落として言ったという。「僕は、とんでもないものを、捨てたんじゃないだろうか」


「お従兄様……」


「『君がいなくても眠れる』と、僕は言ったんだ。彼女に。——いなくても眠れるなんて、嘘だった。いなければ、僕はもう、一夜も眠れない」


 彼はまた、痩せていった。眠れぬ夜のたびに目の下の隈が濃くなり、頬がこけていく。出会ったころの、夜を恐れる顔に近づいていく。鏡を見るたびに、彼は自分が捨てたものの大きさを思い知ったに違いない。


 それは罰ではなかった。誰も彼を罰しはしなかった。セシリアも、屋敷の者も、ただ案じていた。


 ただ、当たり前だと思っていたものが、ひとつも当たり前ではなかった——その事実が、静かに彼の内側から彼を責めていた。




 それから一年が過ぎた。


 私は王都の外れの、街道沿いの小さな宿で夜番をしていた。


 旅人の眠りを整えるのが、私の仕事だった。長旅で気が昂って眠れない客に、暖炉の加減を見て香を焚き、低い声で他愛のない話をする。母から受け継いだこの手は、ここでようやく、気づかれる場所にいた。


「夜番さん、昨夜はよく眠れたよ。何ヶ月ぶりだろうな、あんなにぐっすり眠ったのは」


 朝、発つ前の客が、宿の戸口でそう言った。


「それは、ようございました。お疲れの溜まった夜には、あの香が合いますから」


「あんたの夜は、不思議だ。部屋に入った途端、肩の力が抜けるんだよ」


「同じ部屋でも、夜の整え方ひとつで変わります。それだけのことですよ」


「いやいや。その『それだけ』が、できる人がいないんだ。だからみんな、この宿で眠りたがる」


「……そう、言っていただけると」


「次に通るときも、必ず寄るよ。あんたの夜を、また分けてもらいに」


 私は、戸口で頭を下げた。胸の奥が、ほのかに温かかった。私の夜を、欲しがってくれる人がいる。屋敷では、ついぞ言われなかった言葉だった。


 たったそれだけの言葉が、五年のあいだ私には与えられなかったのだと、ここに来てはじめて知った。


「夜番さん、子どもが眠れなくて、ぐずって」と駆け込んでくる母親がいた。「歳をとると、夜が長くてかなわん」と杖をつく老人がいた。私は一人ひとりの顔色を見て、息を聞く。公爵邸では、私の手は一人のためだけのものだった。ここでは、たくさんの夜が、私の手を必要としていた。


 宿の主人が、ある朝、帳場で私に言った。


「あんたが来てから、この宿は『よく眠れる宿』だと評判でね。眠れない客が、わざわざ遠回りしてでも泊まりに来るんだ」


「大げさですよ」


「いいや。あんた、自分の手がどれだけのものか、わかってないんじゃないか」


 私は、湯気の立つ釜のほうを見たまま、すぐには答えられなかった。わかっていなかった、とは言えなかった。屋敷では、わかってもらえなかっただけだ。


「ここにいてくれて、助かってるよ」


 その一言が、なぜだか、胸の奥のいちばん深いところに、静かに灯った。要る、と言われた。要らない、ではなく。たったそれだけのことが、五年のあいだ、私には一度も与えられなかったのだ。


 そして私は、宿に来てはじめて知った。眠れぬ夜には、いくつもの種類があるのだということを。


 屋敷では、眠れなさはひとつきりだった。生まれつき夜に冴える、あの人の夜。私はその一種類を、五年かけて知り尽くしたつもりでいた。けれど街道の宿には、私の知らない夜が次々と泊まりにきた。


 ある夜は、明日の商談で胸を高鳴らせて眠れない若い商人がいた。


「だめだ、目が冴えて。明日のことばかり、頭をめぐる」


「では、つまらない話を、いたしましょう」


「つまらない話?」


「ええ。麦の俵が、ひとつ、ふたつ、と荷車に積まれていく話を。お聞きになるうちに、数を数えるのも面倒になります」


 商人は最初は笑っていたが、十俵を数えるころには、寝息になっていた。


 ある夜は、親を亡くしたばかりの女がいた。香も寝物語も効かなかった。私はただ隣で繕い物をして、糸を引く音だけを部屋に置いた。眠れぬ夜の質が違えば、整え方もまるで違う。同じ手では、別の夜は眠らせられない。


 私の手は、そうやって、五年のあいだよりもずっと多くの夜を覚えていった。




 いちばん深く私の手を変えたのは、戦から戻ったという、一人の旅の男だった。


 冬のはじめの夜だった。男は埃《ほこり》まみれの外套を着て、宿の囲炉裏端に座っていた。背は高く、けれど肩がひどく落ちていた。眠れないのだと、宿の主人から聞いていた。私は部屋に暖炉を熾し、いつものように香を焚き、低い声で雪を呼ぶ鹿の話を始めた。


 けれど、彼の目は冴えたままだった。


 香を強めても、声をどう落としても、彼の身体はわずかも緩まなかった。昂りでもない。不安でもない。私の知っているどの眠れなさとも違う夜だった。


「……無駄だよ、夜番さん」


 彼は低い声で言った。


「眠ると、見たくないものが戻ってくるんだ。だから、眠らないようにしてるのさ。眠れないんじゃない。眠りたくないんだ」


 私は、香炉の火を落とした。寝物語もやめた。


 屋敷でなら、私はこの夜を知らなかった。眠らせるべき相手が一人しかいなかったから。けれど、ここには、私の知らない夜が、まだいくつもある。私はそれを、この一年で知ったばかりだった。


 私はただ、彼の隣に座った。暖炉の火を見ていた。何刻もそうしていた。何も尋ねず、何も焚かず、ただ、隣に人がいるという気配だけを、部屋に置いた。


 やがて男は、ぽつりと話し始めた。


「五人いたんだ。同じ隊に。みんな、おれより若かった」


 私は何も言わず、火を見ていた。


「眠ると、そいつらが戻ってくる。瞼の裏に、五人、並んで立ってる。なんでお前だけ生きてるって、責めもしないで、ただ並んでるんだ。……それが、いちばんこたえる」


「……」


「だから眠りたくない。眠れば、また会っちまうから」


 私は相槌も打たなかった。直そうともしなかった。ただ、聞いていた。彼の声が、部屋の闇に少しずつ溶けていくのを、ただ聞いていた。


 話し終えたころ、男は壁にもたれたまま、眠っていた。香も、寝物語も、何ひとつ使わずに。


「あんたは、薬も香も使わずに、人を眠らせるんだな」


 翌朝、男はそう言って、少しだけ笑った。


「いいえ」と私は答えた。「私は、何もしておりません。あなたが、やっと話せたから、眠れたのです」


「話す相手なんて、もう何年もいなかった」


「では、また眠れぬ夜が来たら、誰かに話してくださいませ。私でなくとも、よいのです」


「いや」と、男は外套を肩にかけながら言った。「あんたみたいに、ただ黙って聞いてくれる相手は、そうそういないさ」


 男は私の顔をしばらく見て、それからうなずいた。


「眠れなさにも、種類があるんだな。香で眠れる夜と、話さなきゃ眠れない夜と」


「ええ。私も、ここに来て、はじめて知りました」


「屋敷では、わからなかったのかい」


「屋敷では、眠らせる相手が、ひとりきりでしたから。その方の夜しか、知らずにおりました」


 男は、外套の埃を払いながら、ふっと笑った。


「そりゃあ、もったいない手の使い方だ。あんたの手は、ひとりのためにしまっておくには、惜しいよ」


 男が発ったあと、私は長いあいだ、その言葉を反芻していた。眠れなさには、種類がある。香でほどける夜もあれば、誰かに見つけてもらわなければ、決してほどけない夜もある。


 屋敷で、私は一種類の夜しか知らなかった。あの人の眠れなさを、私は香と声で眠らせていた。けれど——もし、あの人の夜が、いつか別の種類に変わったとしたら。香でも声でもほどけない夜が、あの人に訪れたとしたら。そのとき私の手は、何を差し出せばいいのだろう。


 その問いを、私はまだ、答えのないまま胸に抱えていた。




 その答えが、思いがけない形で戻ってきたのは、冬を越えた春の夜だった。


 遅い春の、雨上がりの夜だった。宿の戸口に、人影が立った。


 私は香炉の蓋を閉じる手を止めた。


 戸口に立っていたのは、アルヴィスだった。


 目の下には、また濃い隈があった。一年前より、ずいぶん痩せている。彼は王都じゅうの夜伽係を訪ね歩いたのだろう。けれど、彼を私と同じに眠らせられる者は、どこにもいなかったのだ。


 彼は長いあいだ、何も言えずに立っていた。


 張りのあった声は、もうない。「君がいなくても眠れる」と言ったあの軽やかさも、どこにも残っていなかった。


「……フィオナ」


 ようやく、彼は私の名を呼んだ。あの客間で呼んだときとは、まるで違う声だった。


「お久しぶりです」と、私は言った。


「君を、捜していた」


「ええ。お顔色で、わかります」


「……ひどい顔を、しているだろう」


「眠れていらっしゃらないのですね。何夜も」


「何夜も。——いや、君が去ってから、ずっとだ」


 彼は唇を噛んだ。何かを言おうとして、言葉が出てこないようだった。


「……すまない」


 ようやく、彼はそう言った。


 訥々《とつとつ》と、言葉を探しながら。


「君が毎晩、何をしてくれていたのか。僕は何も知らなかった。眠っているあいだのことだったから」


「知らなくて、よかったんです。それが私の役目でしたから」


「役目で、人はあそこまでするものか。鳥も鳴かない時刻まで、たった一人で」


「役目だから、できたのです。役目だと思えば、見返りを、望まずにすみますから」


「違う」


 彼は首を振った。


「役目なんかじゃない。あれは……君が、僕を眠らせてくれていたんだ。二千の夜も。僕はそれを当たり前だと思っていた。当たり前のものなんて、ひとつもなかったのに」


「あの世話がなければ、また眠れぬ夜が戻るでしょう」


「ああ。毎晩、思い知っているよ。——眠れない夜のたびに、君の声を思い出す。暖炉の薪が爆ぜる音まで」


「思い出して、眠れますか」


「いや」


 彼は、短く首を振った。


「思い出すほど、眠れなくなる。あれが、もう、僕の手の届かないところにあるとわかるから」


 私は何も答えなかった。


 答える言葉を、まだ持っていなかった。喜びでも恨みでもない、もっと静かな何かが、胸の奥でゆっくりと動いていた。


「セシリアも……ずっと、君に詫びたがっている。あの子は、君の覚え書きを抱えて泣いたんだ。読めるのにできないと言って。あの子も、僕も、君がいなくなって初めて、君の手の重さを知った」


「セシリア様を、責めないでください。あの方に悪気はありませんでした」


「わかっている。悪いのは、僕だ。——あの子はね、毎晩、夜になると寝室に立とうとしたそうだ。君のいた時刻に、君のいた場所で。それでも、君の夜にはならなかった」


「無理をなさらないよう、お伝えください。手で覚えるものは、心で焦っても、近づきません」


「君は……どうして、そんなに静かでいられるんだ。僕は、君を遠ざけたのに」


「遠ざけられたとは、思っておりません。要らないと言われただけです。要らないものを、無理に置いていくほど、私は図々しくありませんでした」


「恨んでは、いないのか」


「恨んでおりません」


 私は、ほんとうにそう言った。


「恨むには……あなたを、毎晩眠らせた夜が、私には多すぎました。あの夜々は、恨みに変えるには、惜しいのです」


 彼はそれ以上、復縁を口にしなかった。戻ってくれとも、やり直そうとも言わない。たぶん、それを言える立場でないことを、彼はようやく学んでいた。


 ただ最後に、彼はこう言った。


「もう一度だけ……君が眠りを整えるのを、そばで見せてもらえないだろうか。眠れなくてもいい。ただ、もう一度だけ」


 私は、首を横に振った。


 彼が、わずかに目を見開いた。


「火を熾しても、香を焚いても、いまのあなたは眠れません」


 私は静かにそう言った。彼の顔を、もう一度よく見た。痩せた頬。落ちた目尻。けれど、私が見ていたのは、その顔色ではなかった。


「あなたの眠れなさは、もう、昔のあなたのものではありません」


「……どういう、ことだ」


「昔のあなたは、生まれつき夜に冴えるだけの方でした。香と声で、ほどけました。けれど、いまのあなたは違う。あなたは、目を閉じるたびに、私の覚え書きを思い出すのでしょう。一摘みが読めなかった頁を。何も見ていなかった、あの五年を」


 彼の喉が、小さく動いた。


「眠れないのではありません。眠ると、見たくないものが戻ってくる。だから、眠れずにいるのです」


 その言葉を口にした瞬間、薪の匂いが、ふっと鼻の奥に戻ってきた。


 ——あの冬の夜、囲炉裏端の男が、おなじ目をしていた。香を強めても声を落としても、わずかも緩まなかった肩。暖炉の火を見つめたまま、低い声で言ったのだ。眠ると、見たくないものが戻ってくる、と。あのとき部屋に満ちていた、乾いた薪の、かすかに焦げた匂い。


 ——その薪の匂いが、いま、戸口に立つこの人の上に、もう一度立ちのぼっていた。


 同じ種類の夜だ、と私は思わなかった。思う前に、手のほうが、もう知っていた。香でほどける夜ではない。誰かに見つけてもらわなければ、決してほどけない夜だ。一年前の私には、わからなかった。あの人の夜が、こんな種類に変わるなどとは。けれどいまの私は、この夜を知っている。


「……お入りください」と、私は言った。


「ただし、香は焚きません。寝物語も、いたしません」


 彼が、訝しそうに私を見た。


「では、どうやって」


「あなたが、話してくださるのを、聞きます。それだけです」


「……話す。何を」


「眠れない夜に、あなたを起こしておくものを。それが何か、あなたはもう、ご存じのはずです」


 彼は、答えなかった。けれど、その沈黙が、答えだった。




 私はいちばん奥の部屋に、彼を通した。


 暖炉に火は入れたけれど、香炉は出さなかった。寝物語の支度もしなかった。私は寝椅子の脇ではなく、彼の正面に、一脚の椅子を据えて座った。


 昔は、私はいつも彼の枕元にいた。眠っている彼の、見えない側にいた。けれどいま、私は彼の正面にいる。目を開けたままの彼と、向き合っている。


「……何も、しないのか」


 アルヴィスが、戸惑ったように言った。


「ええ。何もいたしません。ただ、聞きます。眠れない夜に、あなたの瞼の裏に戻ってくるものを」


「聞いて、どうなる」


「どうにも、なりません。ただ、ひとりで抱えていたものが、ひとりではなくなります。それだけです」


「それだけで、眠れると」


「眠れるかどうかは、私にはわかりません。けれど、眠ろうとしなくて、よいのです。昔、あなたに申し上げたとおりに」


 彼はしばらく、黙っていた。暖炉の薪が、ぱちりと爆ぜた。その音に、彼が肩を震わせた。


「……その音だ」と、彼が呟いた。


「眠れない夜に、いちばん戻ってくるのが、その音なんだ。薪が爆ぜる音。あれは、君がいた夜の音だ。僕が眠っているあいだ、君がずっと聞いていた音だ。——その音を思い出すたびに、僕は、自分が何を捨てたのかを思い知る。だから、眠れない」


 私は相槌を打たなかった。ただ、聞いていた。


「覚え書きをめくっても、一摘みがわからなかった。専門家を呼んでも、首を振られた。そのたびに思ったよ。君は毎晩、僕の見ていないところで、こんなことをしてくれていたのか、と。鳥も鳴かない時刻に、たった一人で、僕一人のために」


 彼の声が、だんだんと低くなっていった。私が落としたのではない。彼が、自分で吐き出すうちに、ほどけていったのだ。


「謝りたかった。でも、謝っても、君が毎晩していたことは、もう取り返せない。二千の夜は、戻らない。それが——眠れないんだ。許してもらえないからじゃない。許されたって、僕が見ていなかった二千の夜は、もう、どこにもないんだ」


「ええ」と、私はただ、相槌のように言った。


「戻りません。二千の夜は、もう、どこにも」


 彼の目から、涙がひとつこぼれた。拭おうともしなかった。


「覚え書きを、毎晩めくった」と、彼は言った。「君の字を、指でなぞった。なぞれば、わかる気がしたんだ。でも、一摘みのところで、いつも止まる。何度なぞっても、君の手は、紙からは出てこなかった」


「ええ」


「鏡を見るのが、怖くなった。痩せて、隈ができて……嫁いできたころの僕に、戻っていくんだ。あのころは、君が毎晩、それを引き止めてくれていた。僕は、それを知らずに眠っていた」


 私は何も直そうとしなかった。香も焚かなかった。ただ、彼が一人で抱えてきた夜を、隣で聞いていた。暖炉の火を、ただ見ていた。何刻も、そうしていた。


 春の夜の、やわらかな闇が、宿の小さな部屋を満たしていた。


 話し終えたころ、アルヴィスは、椅子にもたれたまま、眠っていた。


 香も、寝物語も、何ひとつ使わずに。ただ、見ていなかった夜を、誰かに見つけてもらえたから。


 私は、その寝顔を見た。


 あの夜々、私が見つめた寝顔とは、まるで違う顔だった。けれど、眉間の皺は、ほどけていた。私が初めて触れたあの夜の、凍りついたような強張りが嘘のように。


 昔の私には、この夜は眠らせられなかった。香も声も効かない夜を、私は知らなかったから。あの人の夜が、いつか香でほどけない種類に変わったとしても、そのとき私の手は何を差し出せばいいのか——一年前の私は、答えを持っていなかった。


 いまは、持っている。


 屋敷を出て、街道のたくさんの夜のそばに立って、戦帰りの男に教わって。私の手は、一種類の夜しか知らなかったあのころより、ずっと豊かになっていた。彼を遠ざけたあの「君がいなくても眠れる」という言葉が、まわりまわって、私の手を、ここまで連れてきたのかもしれなかった。


 眠っている彼に、私はそっと声をかけた。


「……あなたは、ご自分で話されたのです」


 昔、私はいつもそう言った。あなたが、ご自分で眠られたのです、と。あのころは、半ば嘘だった。私が眠らせていたのを、彼の手柄にしていただけだった。


 けれど、今宵のは、本当だった。私は何も焚かず、何も語らなかった。彼が、自分で話したから、眠れたのだ。




 窓の外で、遅い春の鳥が、もう啼《な》きはじめていた。


 アルヴィスは、夜が明けてから目を覚ました。長い眠りだった。彼自身、それがいつ以来かわからないようだった。


「……眠って、いたのか。僕は」


「ええ。よく、お眠りでした」


「どれくらい」


「夜どおし。鳥が啼くまで」


 彼は、信じられないというように、窓のほうへ目をやった。それから、しばらく自分の掌を見ていた。眠っていたあいだの自分の手を、確かめるように。それから、私を見た。


「戻ってくれ、とは言わない」


 彼は、静かにそう言った。


「言える立場じゃない。それは、わかっている。ただ——また、来てもいいだろうか。眠れない夜に。君に、話を聞いてもらいに」


「眠れない夜に、ここまで」


「ああ。何刻かかっても。君の声を思い出すより、君に、聞いてもらいたい」


 私は、すぐには答えなかった。


 戻るとは、私も言わなかった。やり直そうとも、約束しなかった。あの二千の夜が、私たちのあいだに戻ることは、もうない。それは、彼の言う通りだった。


 けれど。


「お代を、いただきます」と、私は言った。


 彼が、驚いたように顔を上げた。


「ここは、宿ですから。眠れぬ客を眠らせるのが、私の仕事です。あなたも、その客のお一人なら——お代を、いただきます」


 彼は、ふいに、泣き笑いのような表情になった。


「……ああ。払うとも。いくらでも」


「一晩ぶんで、結構です」


 私は微笑んだ。


 妻としてではない。償わせるためでもない。ただ、街道の宿の夜番として、眠れぬ客の一人を、また眠らせる。それだけのことだ。けれど、それだけのことが、私には不思議と、悪くないように思えた。


 彼が、また訪れるのなら。私はきっと、もう一度、暖炉に火を入れるのだろう。


 夜明け前の暗がりではなく、見える場所で。気づかれない手仕事としてではなく、彼が目を開けて、私に話して、お代を払って帰っていく夜に。


 昔のように、彼の眠っている見えない側に、私はもういない。私は、彼の正面に座る。


 正面に座れば、私の顔も、彼から見える。眠らせる手だけでなく、その手を持つ者が、ここにいると知られる。あの屋敷で押し戻し続けた小さな願い——誰かに見ていてほしいという願いは、こんな形でなら、叶ってもいいのかもしれなかった。


 それでいいのだと思った。


 窓の外で、遅い春の鳥が、晴れた空に向かって、高く啼いていた。



最後まで読んでいただきありがとうございました。




 「静かな献身×後悔型」のお話です。声高に言い返すのではなく、ただ黙って去る——その去り方そのものが、いちばん雄弁なときがあります。フィオナは一度も夫を責めません。責める代わりに、覚え書きを揃え、香炉と種だけを抱えて、霧のなかへ消えていく。その静けさを書きたくて、このお話を始めました。


 今回いちばん書きたかったのは、戦帰りの男の夜です。フィオナは屋敷で、たった一種類の眠れなさしか知りませんでした。香と声で眠らせる、あの人の夜。けれど街道の宿には、香でも声でもほどけない夜が泊まりにくる。眠ると見たくないものが戻ってくる——そういう夜は、誰かに見つけてもらわなければ、決してほどけません。フィオナはそこで、はじめて「眠れなさには種類がある」と知ります。


 だから、再会の夜、彼女はもう、昔と同じ手を差し出しません。香を焚かず、寝物語もせず、ただ正面に座って、夫が見ていなかった二千の夜を、夫自身の口から聞きます。彼が眠れたのは、技を再現してもらったからではなく、抱えていた夜を、はじめて誰かに見つけてもらえたから。去って、たくさんの夜のそばに立って、彼女の手は、屋敷にいたころよりずっと豊かになっていました。彼を遠ざけたあの一言が、まわりまわって、彼女の手を育てたのかもしれません。


 覚え書きは読めても、一摘みの加減は書けない。誰かが毎晩していた名もない手仕事は、失われてはじめて輪郭を持つ。そういう「気づかれない献身」の重さを、二千の夜という数字に託しました。あなたの周りにも、きっと、まだ気づかれていない誰かの手があります。




◇◆◇ 「去りし令嬢の、その後の静けさ」シリーズ ◇◆◇




声を荒げず、ただ静かにその家を去った令嬢たち。残された者が、失ってはじめて気づく——名もない献身の重さに。すれ違いと、後悔と、再会の余韻で読ませる、一話完結の短編シリーズです。




☆評価・ブックマーク・感想をいただけると、次作の励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。