09✿ あなたのもとに帰ります
この部屋は、あんまり好きじゃない。
白い照明と、高すぎる天井。静かすぎて、声がすこし跳ね返る。
デビューが決まったときも、グループ内でもめごとが起きたときも、わたしはいつもこの椅子に座らされた。
そして今日も、そうだった。
「辞めたいです。今日は、その話をしに来ました」
言ったあと、少しだけ手が冷たくなった。
目の前に座っているスーツ姿の人たちは、わたしのことを『朱里』ではなく、『斉木さん』と呼ぶ。声のトーンは丁寧だったけど、机の向こうの空気はどこまでも硬くて、冷えていた。
「理由をうかがっても?」
一番左に座っていた男の人がそう言った。名前は思い出せないけど、たしか前にグループの契約内容を説明してくれた人だった。会うのは、たぶん三年ぶりくらい。
「『アフロディーテの呪い』が出てから、三ヶ月以上たちます。鏡にも、カメラにも、自分の姿が映らない状態が続いていて……今のままだと、まともな活動はできません」
「最近では、症状が回復した例も出ています。その判断は時期尚早ですよ」
男の人は予想していたのか、すぐに言葉を返した。
「でも、それだけのせいじゃないんです」
もちろんわたしだって準備してきてたから、負けなかった。でも、そこから先が、うまく出てこなかった。ちゃんと整理してきたはずなのに、喉の奥が冷たくなって、言葉がばらばらになった。
「もともと……誰かに見られたくてこの仕事を始めたわけじゃないので。たしかに、注目されたり、期待されたりしてるうちに、 見られることが、生きてる理由みたいになってました。でも、それがなくなって――今は、ほっとしてるんです」
静かな沈黙が落ちた。何も言わないまま、ユンさんが書類をめくる音だけが、妙に響いていた。
「朱里さんのケースは、事務所としても慎重に扱う必要があります」
ユンさんの声は低く、抑えられていて、どこにもとげがなかった。でもそのぶん、かえって逃げ道がなかった。
彼は本部側の人間で、舞台やメディア部門をまとめている管理職らしい。日本語も流暢に話すけれど、こちらの感情に合わせてくれるような雰囲気はない。
わたしが言葉に詰まっても、何かを飲み込もうとしても、彼はただ次の説明を継いでいく。
「現在の映像媒体では、活動の継続が難しいのは承知しています。しかし、記録に残らない存在としてのマーケットニーズはすでに顕在化しています。クローズドなイベントやライブ案件は複数あり、十分に成立しうるものです」
わたしは、かすかに首を横に振った。
「すっぱり辞めたいんです。籍も残さず、きっぱりと」
言ったあと、ちょっと息が上ずった。急いで整えたけど、たぶん伝わっていた。
でもユンさんは、まったく動じなかった。書類をまとめる手が一瞬止まっただけで、表情は変わらなかった。
「……それは難しいですね」
その言い方が、あまりに自然すぎて、かえって胸に残った。
「退所手続きを進めるとなると、既存の契約条項に抵触します。契約解除に伴う違約金の精査、保証金の取り扱い……複数の調整が必要になります。一方で、無期限の活動停止という形であれば、実務上も法的にも、円滑な対応が可能です。活動義務は発生せず、連絡がない限り、こちらからの干渉もありません」
言葉は丁寧だった。でも、もう最初から答えが用意されていたみたいだった。
「念のため、復帰の可能性も含めた処理とさせていただきます。先ほどスズキさんのおっしゃった通り、アフロディーテの症状が回復したとされる事例も、一部では報告されています。あくまでご本人の選択肢を確保するという意味で、より理にかなった対応かと考えています」
選択肢を確保する――やさしい言葉に聞こえた。
でも、それは利用価値のある商品を手元に置いておきたい、そういう響きがあった。
「焦らなくていいからね」
マネージャーのサラが、やわらかく笑った。
彼女は、事務所で練習生の育成やスケジュール管理を担う現場マネージャーで、わたしの担当をいちばん長く務めてくれた人だった。寮の手配、通訳、体調の報告、何か困ったときの相談窓口――練習生だった頃から、わたしの生活はいつも彼女を通して動いていた。
声は穏やかで、なにも責めていなかった。なのに、どうしてだろう。そのやさしさが、今はひどく冷たく感じた。
見守られてる気がするのに、もう見放されてるような気がして。どこかで、もう引き返せない場所に来てしまった、という確信だけが、胸の奥にじんわりと広がっていく。
「無理に結論を出す必要はないわ。でも、お仕事をしないと、生活もしていけないでしょう。もし困ったときに助けになりたい、私たちそう思ってるの」
サラの目線は、いつもと変わらずまっすぐだった。ちゃんとわたしのことを見てくれてる。
だけど、その目が今はこわかった。
だって、ずっと味方だと思ってた人が、今わたしと対立してる人たちに「私たち」だなんて使うから。
「たとえば、クローズドなクライアント向けのモデル案件とか。今までの信頼関係があるから、朱里には優先的に紹介できる。スマホも持ち込めないような、完全非公開の空間でのお仕事よ。撮影トラブルの心配もないし、あなたが見えないっていうこと自体が、強みにもなる」
わたしは、ただ黙って聞いていた。でも、サラの声がだんだん遠くなっていく。
目の前で話しているはずなのに、その声はどこか、すごく遠い場所から届いているみたいだった。
「そういう場所って、表には出ないけど、ちゃんと運営されてるし、報酬も悪くないの」
練習生のころ、うわさで聞いた。
売れなかった子が、どこかに呼ばれる、って。とっても高収入だけど、カメラもスマホも持ち込んではいけない秘密の会。売れなくても仕事があるならいいねって、みんな笑いながら話してたけど、本当は、こわくて笑うしかなかっただけだった。
あのとき、わたしには関係ないと思いこもうとしていた。
でも今――わたしは、そっち側に押し込まれそうになっている。
アフロディーテの呪いにかかったとき、たしかにわたしは少しだけうれしかった。鏡も、写真も、わたしの姿を返してくれない。
誰からも見られないって、ちょっとだけ自由な気がした。目立ちたかったわけじゃないのに、勝手に注目されて、期待されて、比べられて。それが全部、ふっと消えたとき、やっと自分を休ませてあげられる気がした。
でも、見られないことがわたしの商品価値になった瞬間――心の底から、こわくなった。
カメラに映らないって、そういうことだった。
もしどこかに閉じ込められて、なにかひどいことが起きても、誰も気づけない。助けられない。たとえ泣いても、怒っても、訴えても、「証拠がありません」で終わってしまう。
……わたしは、それがどういうことか、知ってる。だから、それがいちばんこわい。
「もちろん、無理にとは言わないけどね」
サラの声は、変わらずやさしかった。
でも、そのやさしさの奥に――どうしようもない距離が見えた。
サラは、わたしの味方だと思ってた。いちばん近くにいてくれた人だったから。病気になったことも、これからどうなるかも、誰より理解してくれると思ってた。
なのに、どうしてそんな提案ができるの。なんで、そんな仕事を「安心だよ」って顔で紹介できるの。これ以上、見えなくなったわたしのこと、誰が守ってくれるの。
「はい、ペン」
サラが笑顔のままペンを置く。わたしは、逃げ場がないことを悟った。
ふっと目を落とした契約書のいちばん下に、「親権者署名」という欄があり、最後の抵抗みたいに、わたしはつぶやいた。
「ここ……お母さんのとこ、空欄のままでいいの?」
そう聞いたら、サラはにこっと笑って、「大丈夫、大丈夫」と言った。
「それは後から処理できるので」
ユンさんも静かにうなずく。
そうだ、いつもそうだった。お母さんは、わたしの判断にあまり口を出さなかった。何かを相談しても、「あなたが決めていいよ」って、軽く言うだけだった。
だからわたしはいつも、まあ、いいのかなって思って、空白の親権者署名欄を見ながら、真っ先にペンを取っていた。
未成年のわたしのサインは、なんの意味もなかったけど、わたしの心を縛ることはできた。だから、毎回儀式のように行われていた。お母さんじゃなくて、あなたと契約してるんだよ、そういうふうなやり方だった。
本当は、今度だけは、ちゃんとお母さんと話したかった。この大きな決断を、自分ひとりじゃなくて、誰かと一緒に考えたかった。
でも、やっぱりそれは無理だ。お母さんは、もう何年も声を聞かせてくれなかった。こっちに来てから、一度も電話に出てくれなかったし、わたしが何度かけても、呼び出し音が鳴るだけだった。
メッセージだけはずっと送り続けてた。
「今日、ちょっとだけ褒められたよ」とか、「練習で足の指ぶつけちゃった」とか。ほかに送る人もいなかったから。何を食べたか、空の写真、レッスン帰りの風景――本当にどうでもいいようなことを、日記みたいに送ってた。
返事はなかったけど、たいてい既読はついていた。だから、見てくれてるんだって、それだけでうれしかった。
それに、誕生日だけは、毎年「おめでとう」って一言だけ返してくれた。その短いメッセージが届くたび、うれしくて、すぐスクショして保存した。今もスマホのアルバムに残ってる。
わたしが仕事を辞めて、突然日本に帰ったら、お母さんはきっとびっくりすると思う。
これまでのわたしのことを知ってほしい。どんな思いでここに来たか。どうして辞めたのか。ちゃんと、自分の言葉で伝えたい。
サラが、契約書をそっとわたしのほうに押し出した。
「
シュリ、ここも。お願いね」
ピンクの蛍光ペンでぐるっと囲まれたサイン欄。そこだけ、すごく明るくて、紙の上から浮いて見えた。
わたしはペンを持って、「SYURI」って書いた。そのあと本名を書こうとしたとき、ちょっとだけペン先が止まった。
わたし、「斉木朱里」に戻るんだ。実感とともに署名する。
ペン先が紙に引っかかって、わたしの手元には、その感覚だけが残った。
ユンさんは「お疲れさま」と言って、サラは「じゃあ、またお仕事があったら連絡するね」と笑った。




