08✿ ここは天国
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練習生の生活は、思っていたほどきつくはなかった。
みんながホームシックや将来の不安で泣いていても、わたしはのびのびと過ごしていた。
帰りたい場所もなければ、「絶対にアイドルになりたい!」という強い願いもなかったからかもしれない。なにも背負っていなかったぶん、焦りも力みもなかった。
それがかえって、よかった。
バレエを長くやっていたからか、ダンスはすぐに覚えられたし、歌も思ったより悪くなかった。
いちばん不安だったのは言葉だっただけど、同じ練習生の男の子たちが丁寧に教えてくれた。
ご飯のときも、夜の練習後も、いつも誰かがそばにいて、ノートに発音を書いてくれたり、好きなフレーズを教えてくれたりした。数か月もすれば、会話には困らなくなっていた。
むしろ問題は、そのうちの何人かが順番に告白してきたことだった。
わたしはそんなつもりじゃなかったし、そもそも練習生同士の恋愛は禁止されていた。
でも彼らは、そんなルールなんて最初からなかったみたいに、普通にわたしを好きになった。断ると、面と向かって罵倒されたり、裏で変な噂が広まったりで、本当に困った。
そういうやり取りに疲れて、一度だけ断りきれずに付き合った子がいたけど、わたしが先にデビューしたことで関係は悪化した。
――お前なんか、顔だけだ。たいして中身もないくせに。
そうチャットで送ってきた彼に傷つきながらも、少しだけ、ほっとしていた自分もいた。
もう、彼の自慢話を聞かなくていい。機嫌を取らなくていい。
あれが恋愛だったのかどうかも、よくわからなかった。
とにかく、男の子関連以外、わたしはほんとうに幸せだった。
練習室は早朝から深夜まで開いていて、ゆっくり眠ることはできなかったけど、いつでも居場所があった。食堂のごはんはいつも少なくて、全然おいしくなかったけど、冷たい牛乳だけは好きだった。
寮の廊下は騒がしくて、ときどき喧嘩もあったし、夢に破れて荷物をまとめていく子もいたけど、わたしたちは助け合って暮らしていた。
でも、わたしがあこがれていた“普通の関係”は、やっぱりここでも手に入らなかった。
わたしは、人の心を動かすのが得意だった。
笑顔のタイミング、目線の角度、声のトーン、言葉の順番――それをほんの少し変えるだけで、空気を変えられた。
誰に教わったわけでもなかった。
ただ、最初から、そういうふうに生まれていた。
そんなわたしを好いてくれるのは、たいてい自信のない子たちだった。
理想の自分になれなくて、でもなりたくて、苦しんでる子たち。
わたしは彼女たちがほしがっている言葉が、なぜかちゃんとわかった。
だから背中をさすってあげたり、涙をぬぐってあげたりした。
気づけば、わたしは神様みたいに扱われていた。
でも、ほんとうはそんなの、ちっともうれしくなかった。
同じ部屋の子が、ある日、わたしの枕元で泣いていた。
「朱里がいなきゃ、死んじゃう」って、笑いながら泣いていた。
最初はびっくりしたけど、それが何日か続くと、もう驚かなくなった。
手を握ってあげると安心するみたいだったし、スープを分けてあげると、ちゃんと笑った。
だからそのまんま、受け入れた。
でも、なんだろう。
わたしの体温が、少しずつその子の中に吸われていくみたいで、だんだん冷えていく気がした。
数か月後、その子は結局国に帰った。
やっぱりわたしじゃなくていいじゃん。そう思った。
ただのわたしでも、ここにいていいよって――そう言ってくれる人が、ひとりでいいからほしかった。
でも現実はいつも極端で、見上げられるか、距離を取られるか、そのどっちかだった。
対等でいられた記憶なんて、ほんのわずかしかない。
……ふとしたときに思い出す子がいる。
久乃ちゃん。
彼女だけは違ったなあって。いちばん近くで笑ってくれた。
顔を寄せ合って本を眺めて、お腹がすいたらプリンを半分こしてくれた。その時間が、ただ静かで、自然だったことを、いまでもよく覚えている。
ずっと、誰かを探していた。でも――ほんとうは誰かじゃなかったのかもしれない。
わたしのまんなかには、ずっと久乃ちゃんがいた。もしかしたら、わたしは、あの子しかだめなのかもしれない。
けれど、その久乃ちゃんには、嫌われてしまった。
わたしのせいだった。
もっと……可愛ければよかった?
もっと強く久乃ちゃんを惹きつけられたら、違ったのかな。
そう思いかけて、ふと我に返る。たぶん、それは意味がなかった。
だって、久乃ちゃんは、わたしが可愛いかどうかなんて、最初から気にしていなかった。
つやつやの髪。さらさらの肌。鏡の前で重ねた可愛さの正解たち。
そういうものを纏ってにっこり目を見て笑えば、たいていの人は、わたしを好きになってくれた。
はたから見てて疎ましくても、それを向けられたら、みんなほだされてしまうのだ。
でも、久乃ちゃんがわたしを好きだった理由は、きっとそれじゃなかった。
それじゃあ、どうしたらいいの?
わたしの唯一できることでは、もうあの子の心は動かせないの?
なにを頑張ったら、もういちど好きになってもらえるの?
わたし、きれいだなんて言ってほしくない。男の子なんて一個も好きじゃない。なのに、どうしていつも、いらないものに邪魔されるの。あの子さえいてくれたら、それでよかったのに。
夢の浅瀬で、誰も知らないほんとのわたしが、あの子を想って時々泣いた。わたしはいつも、そんなわたしを、ああ、そんなに悲しいのか、って他人事のように見下ろしていた。
どれだけ嘆いても、欠けたピースは戻らない。
現実のわたしは、それをしっかりわかっていたから、与えられた毎日の中で、幸せに暮らしていた。
久乃ちゃんはいないし、ふつうにもなれなかったけど――練習生の生活は、悪くなかった。
みんなが自分のことで精一杯で、わたしは彼らの景色だった。景色として、同じ床に寝て、同じレッスンを受けて、同じ未来を目指してた。
あの時間だけは、ちゃんと平等でいられた。わたしにとって、あれが唯一の、天国だったんだと思う。
本当につらかったのは、デビューしてからだった。
同じグループの子たちは、スキルも努力も意識も、本当にすごかった。
わたしよりずっと長く練習生をやってきた子ばかりで、みんなアイドルになることに強い誇りを持っていた。
でも、わたしはどこかで、仲良くできることのほうが大事だった。
その思いが、きっと伝わってしまっていた。彼女たちが守ろうとしていたものを、わたしは軽く見てるように映っていたんだと思う。
表面上は何もなかった。撮影中は笑い合っていたし、悪口を聞いたこともない。
でも、彼女たち同士には練習生時代からずっと一緒だった。大して時間もかけずデビューしたせいで、わたしだけが、最初からその輪の外にいた。
撮影の空き時間も、移動のバスも、楽屋も。いつも、わたしはちょっとだけ余っていた。
――この子、たぶん本気じゃない。
そんな空気が、背中に刺さるようなときがあった。
わたしは手を抜いたことなんて一度もなかった。でも――そう見えていたんだと思う。
グッズの売上も、動画の再生数も、わたしがいちばんだった。それはうれしいというより、どこか申し訳なかった。だから気づけば、わたしはメンバーのご機嫌をとるようになっていた。
笑いかけたり、先に謝ったり、相手が話しやすい空気を作ろうとしていた。でも、そういう気遣いすら、うざったく思われていたんだと思う。
SNSでは、「不仲説」や「いじめ疑惑」が何度も取り上げられた。ファンもアンチも、勝手に期待して、勝手に怒って、勝手にわたしを愛した。
わたしはそんな人間じゃない。
わたしをちゃんと見て――そう、何度も思った。
でも、誰も『シュリ』じゃないわたしのことなんて、最初から見ようとしてなかった。




