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06✿ 夢は練習生


わたしが練習生になろうと思ったのは、小学五年生の夏だった。


あの頃の記憶は、ところどころ黒く塗りつぶされたみたいに曖昧だけれど、一つだけはっきり覚えている。

もう、あの街にはいたくなかった。

誰の目も声も、もうこれ以上受け止められなかった。

何もかもがいやで、息が詰まりそうだった。どこでもいいから、遠くへ行きたかった。


でも、わたしはまだ十一歳の子どもで、行ける場所なんてどこにもなかった。


夏休みに入ったころ、お母さんが「大阪行ってくるから、あんたは留守番」って言ってきた。

「一緒に行きたい」って言ったけど、当然断られて、でも駄々こねて、半泣きでしがみついたら渋々連れていってくれた。

 

お母さんは「ホテルにいなさい」と言っていたけれど、チェックインして少し経つと、わたしはロビーを抜けて外へ出ていた。

行く宛てはなかったけど、それでもホテルにはもう戻らないって、なんとなく決めていた。

 

はじめての大阪は、思ってたよりうるさくて、にぎやかで、でもちょっとだけ優しかった。 

駅前には大きな看板がぎらぎらしてて、観光している外国人がたくさんいた。

小学生にしては高い身長もこの中でなら紛れられた。知らない人たちがわたしを気にせず笑ってて、それが心地よかった。


道頓堀の橋のあたりを歩いていたら、たこ焼き屋の横から太ったねずみが出てきた。びっくりしたけど、逃げるでもなく、のそのそ歩いて、やがて暗い路地裏に帰っていった。

 

なんかいいな、と思った。誰にも見られず、誰にも縛られず、ごはんのことだけ考えて生きてる。そういうの、うらやましかった。

わたしも、毎日ちゃんと食べて、寝て、それで終わり、みたいな暮らしがしたかった。


でも、そんなふうに思って歩いてると、男の人が近づいてきた。笑ってて、なんとなく声のトーンでわかる。


――ああ、まただ。

 

その瞬間、身体が勝手に冷えて、無意識に早足になった。

なるべく明るいほう、にぎやかな方へ逃げて、気がつくとデパートの中に入っていた。

冷房がよく効いていて、ひんやりとした空気に包まれたら、ちょっとだけ気持ちが落ち着いた。

 

地下の食品売り場では、お店の人が試食を配っていた。お腹が空いていたから、何も考えずに、もらったものを口に運んだ。何周もした。

恥ずかしいな、と思いながらも、それしかできなかった。

 

そんなとき、背広を着た男の人が声をかけてきた。

「もしかして、また?」と身構えたけれど、様子が少し違った。距離を詰めてこないし、声も低くて静かだった。


もしかして、試食を注意されるのかな?

わたしは少しどきどきしながら、口の中のチョコレートを溶かしていた。


「突然すみません。私こういう者で……、少しだけ、お時間いただけますか?」

 

その人は、海外の芸能事務所の者だと名乗って、名刺を差し出した。


――海外。

その言葉に、胸がじんとした。

 

わたしのことを誰も知らない場所。遠くて、手の届かない場所。

そこに行ける可能性なんて、自分の人生にはないと思ってた。

わたしの世界がぱっと開けたような気がした。


声をかけられたのは、実はこれがはじめてじゃなかった。前にも何度か、駅とか街で似たようなことはあった。

でもそのときは、軽くて、適当で、なぜかちょっと見下されてる感じがして、渡された名刺は、結局そのまま捨てた。

 

でも、この人は違った。

ちゃんと敬語で話してくれて、目をそらさず、ふざけたところがひとつもなかった。


「よければ近くで、少しだけ」って、静かに言われて、わたしはうなずいた。

すぐそばにあった、ガラス張りのカフェ。人通りもあるし、店員さんも見える。……それに、まだちょっとだけお腹が空いていた。

ココアとチーズケーキを頼んでもらって、向かいの席に座った。

 

その人は、海外での育成制度のこと、練習生の仕組み、寮生活や費用のことを、ゆっくり丁寧に説明してくれた。


「親御さんとご相談いただいてからで大丈夫です」

 

そう言って、こちらの反応を急かしたり、無理に話を引き出そうとすることもなかった。

わたしをちゃんと「人」として扱ってくれる大人って、本当にいるんだ――そんなふうに思った。

ちゃんと挨拶されて、まっすぐな目で話しかけられて。

大人って、「いい子」って言いながら、こちらが黙るのを待ってるものだと思ってたから、そんなふうに話されること自体が、なんだか不思議だった。

 

名刺の紙は、ふつうの厚紙だった。

でもそのときのわたしには、金色のチケットに見えた。ここじゃない、どこか遠くへ連れていってくれる気がした。ばかだけど、本気で、そう思った。

 

その人の話は、本当に夢みたいだった。

練習生になれば、寮で仲間と一緒に暮らせて、ごはんも部屋もお風呂もあって、大人がちゃんと面倒を見てくれるんだって。

しかも、デビューさえすれば、これだけお世話になってお金もかからないし、将来は自分で稼げるかもしれないって。こんな都合のいい話、ほんとは嘘かもって思うべきなんだろうけど、そのときのわたしには、それが救いにしか見えなかった。


お母さんも、わたしに関心がないぶん、こういう「勝手にどこかへ行ってくれる話」には、きっと乗ってくれるはずだと思った。

 

いちばん心を動かされたのは、寮暮らしだった。ひとりじゃない生活。

毎日、だれかと一緒にいて、同じ目標に向かってがんばって、疲れたらお風呂に入って、眠るだけ。

 

それがどれだけしあわせか、わたしは知っていた。一度だけだけど、ちゃんと経験したことがあったから。胸がぎゅっとなるくらい大事だったあの日々を、わたしはどうしても忘れられなくて、ずっと探してた。

 

ただ、安心できる場所がほしかった。

自分は何も変わっていないのに、周りばかりが少しずつおかしくなっていって、気づいたら居場所がなくなっていた。

 

きれいだって言われること、それはまるで罰みたいだった。

ただ生きてるだけなのに、理由もなくにらまれたり、狙われたりした。特別になりたいんじゃなくて、「ふつう」に交ざりたかった。

 

だから思った。

芸能界みたいな、きらきらした世界に行けば、逆に目立たなくてすむかもしれないって。


わたしなんて全然たいしたことない。

あの世界なら、誰の目にも留まらずに、小さくなっていられる気がした。

それに、"商品"として扱われるなら、きっと誰かが守ってくれる。そんな打算も、どこかにあった。

ただ、同じような子たちと、同じ場所で、安心して暮らしたかった。練習生という立場は、そのすべてにぴったりだった。

 

だから、わたしの夢はアイドルになることじゃなかった。

わたしの夢は、練習生になることだった。

 

親の許可は、あっけないほど簡単におりた。

お母さんは、名刺を一瞥しただけで、すぐに判を押した。

なんだか悲しいなあと思う反面、彼女から離れることで、もう一度生まれ直せるような気がした。


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