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05❀ 遠くへ行ってしまった


 ❀


五年生の三学期が始まる頃、気づけば朱里はもういなかった。

単身で海外に行ったらしい。誰かが「アイドルの練習生になったんだって」と言っていた。


朱里が置かれていた立場を知ったのは、それから少し経ってからだった。


彼女は二組の千佐子ちゃんにいじめられていたという。

千佐子ちゃんは、雑誌に載っているようなブランド服を着こなす気の強い女の子だった。

みんな、彼女のことを好きというわけではなかったが、数人の同類とつるみ、声が大きいので、クラスの女子たちはなんとなく彼女の言うことに従っていた。


そんな千佐子ちゃんは、拓海くんのことが好きだったらしい。

けれど、拓海くんは朱里に惹かれていたらしく、それが千佐子ちゃんの耳に入ってしまった。


怒った千佐子ちゃんは、クラスの女子たちにこう言ったという。


――斉木さんと話したら、わかってるよね?


それから、朱里を取り巻く環境は変わった。

声をかけても無視されたり、プリントを配られなかったり。

そういうちょっとした悪意が日常になった。


拓海くんは、自分の言動が朱里を傷つけていたことに、どこかで気づいていたのかもしれない。

休み時間、彼は何気ない顔で朱里の席に立ち寄り、配られなかったプリントを置いていった。

周りの視線には目もくれず、ただ当たり前のように。


その姿は、誰よりも静かに、彼女の側に立っているように見えた。

でも――そんな彼の姿は、かえって千佐子ちゃんの怒りを煽った。


――やってもらって当然って顔してるよね。

――あれで“私、なにもしてません”とか言うんだよ、きっと。

――わかっててやってるんじゃない? あざと。


そんな声が、次第に女子のあいだでささやかれるようになった。


千佐子ちゃんだけじゃない。


拓海くんをひそかに好いていた女の子たちの間でも、朱里への冷たい感情が、音もなく積もっていった。


誰よりもかっこいい拓海くんが、ひとりの女の子を守っている。

そのこと自体が、朱里にとって新たな火種になっていった。


私は何も知らなかった。

それどころか、朱里の話も聞かずに、勝手に傷ついて、勝手に突き放してしまった。


朱里がいなくなってから、拓海くんは私に何度も話しかけてきた。


――なあ、斉木の連絡先、知ってる? お前、仲良かっただろ。


拓海くん、連絡先も知らなかったんだ。そこには冷たい優越感があった。

朱里も私も、小学二年の頃にはもう携帯を持っていた。親の仕事の都合で、放課後はそれぞれ一人で過ごすことが多かったからだ。


私の親は「困ったらすぐ連絡しておいでね」と言って、最低限のルールだけ決めて、好きにさせてくれた。

朱里の家はもっと自由で――というより、誰にも何も言われない家だった。

だから私たちは、いつの間にか毎日のようにチャットをしあっていた。


「ひまだね」

「今、何してる?」


たわいもないやりとりが、子どもだった私たちの小さな居場所だった。


私たちは、それだけ近かった。

だから、連絡先も知らない程度の仲で、私たちの関係を壊したことに、私は心底苛立って、「知らない」と冷たく返した。


拓海くんさえいなければ、私は朱里とずっと仲良しでいられたはずなのに。

彼女はもう遠くへ行ってしまって、きっと私のことなんて忘れてしまった。


あるいは、心底恨んでるかもしれない。


――嘘つくなよ。……俺、斉木にひどいことしちゃったんだ。俺のせいで、あいつ、いなくなったのかもしれない。だから、謝りたいんだ。


ひどいことをしたのは、私も同じだった。

だから、朱里と話す資格なんて、私たち二人ともになかった。


私と拓海くんは、朱里をはさんでずっと冷戦状態だった。

でも表立って責め合わなかったのは、お互い、どこかで「同罪」だと分かっていたからだ。


結局、私たちは皆、同じだった。


彼は朱里の可愛さに惹かれ、千佐子ちゃんは彼のかっこよさに夢中だった。

私だって。誰よりも綺麗な子が、誰よりもかっこいい子に選ばれる――その構図に、心がざわつかないはずがなかった。


私たちは皆、「美しさ」に目を奪われ、「美しさ」に振り回されていた。


私たちの傷は似ていた。

だから、朱里がいなくなってから、私と拓海くんは、なんとなく一緒にいるようになった。


別に何かを話すでもない。


慰めあうわけでもなく、責めるでもなく、ただ、同じ後悔を持つ者同士としてともにいた。

私は、彼といる時間に癒されていた。

あのとき傷ついたのは、自分だけじゃなかったのだと、傷ついた拓海くんを見て、安堵していた。


でも。


私たちは、朱里を失った痛みだけで繋がっていたのに、結局それすら恋と誤解された。


千佐子ちゃんは、私を次のターゲットに選んだ。

拓海くんは、私に興味が失せたのか、あるいは朱里のときの失敗を思い出したのか、ひっそりと私に近づかなくなった。


クラスが違ったというのもあり、千佐子ちゃんは空気をコントロールできず、この理不尽な八つ当たりは二週間足らずで鎮火した。


でも、そのわずかな期間のわずかな悪意さえ、幼い自分には堪えた。

千佐子ちゃんのいる前では、誰も私に話しかけず、廊下や合同授業の時間に、ひっそり避けられているのを感じた。


洗面所に彼女が居座り私の悪口を言い、トイレから出られなかった日もある。

その日、彼女は朱里という脅威を追いやったことで気を大きくし、数人の友達ときゃらきゃらと笑った。


――江口って、斉木と違ってブスなのに、なんで拓海くんは一緒にいるんだろ?


私は、朱里の受けた一方的な評価の残酷さを、身をもって知ったのだった。

朱里と私はなにか大きな渦の中に巻き込まれていた。

だからこそ、しっかり手を繋いで、離れないようにしなければならなかったのに。


ずっと謝りたかった。


信じなかったこと。

声をかけなかったこと。

味方になれなかったこと。


でもそれが叶うことはなかった。


朱里は、海を渡って――そして一年も経たないうちに、五人組アイドルグループ『Ⅰ+NE(アイネ)』の一人として鮮烈にデビューしたから。


『この子、誰?』という書き込みと一緒に、『シュリ』の写真がタイムラインに流れてきて、心臓が一瞬、跳ねた。

それはたしかに朱里だった。


でも、違った。


メイクをして、大人びた表情になって、画面の中で完璧に仕上がった彼女は、どこか別の世界の人みたいに見えた。知ってる顔なのに、知らない距離があった。


練習生の期間がこれほど短いのは、異例のことらしい。

彼女は、ほんの一瞬で、手の届かない場所に行ってしまった。


私は連絡するタイミングを、完全に逸していた。

 

連絡しないための言い訳が、いくらでも浮かんできた。

私よりも何倍も忙しいだろうから、邪魔したくない。

有名になったから連絡したと思われたくない。


でも本当は――もしも既読すらつかなかったら、って考えるのが怖かった。

仲直りできるかもという、あの淡い希望が、一瞬で粉々に砕けるような気がしていた。

 

それから私は、朱里に連絡を取る代わりに、彼女とのトーク画面を時々開くようになった。

特別なことは書いてない。過去の他愛もない日常が並んでいるだけ。


でもそこには、ちゃんと笑っていた頃の、ふたりの時間が保存されていた。

中学生の頃、悲しいことがあると、私はその画面をそっと開いて、彼女の名前を見つめていた。

 

きっと、彼女と私の人生が重なることは、もう一生ないだろう。

もう、二度と会えない。

ずっと、そう思っていた。


でも彼女は、春と一緒にやってきた。

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