02❀ アフロディーテの呪い
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アフロディーテの呪い。
美しい芸能人やモデルのあいだで次々に症状が確認されたことから、そう呼ばれるようになった。
アフロディーテとは、ギリシャ神話に出てくる、愛と美を司る神だ。
ヴィーナスと同一視されることもある。
彼女は、自らを凌ぐとまで言われた、美しい人間の女プシュケーに嫉妬し、陥れようとした神話を持つ。
その神話になぞらえ、「美の神に嫉妬され、姿を奪われた」――そう語られるようになり、やがて〈アフロディーテの呪い〉という俗称が定着した。
報告が最初に出たのは五年前。
症状はごく単純。
鏡にも、写真にも、動画にも、自分の姿が映らなくなる。
ただ、それだけ。
けれど、その「それだけ」が、人を社会から切り離すには十分だった。
当初は、それが症状として本当に存在するのかどうかすら疑われていた。
写真も動画も残らない。つまり、証明も否定もできない。
誰かが「この子、映らないんだよ」と言っても、そこには何も映っていない。
長らく、ただの虚言だと思われていた。
だが、複数の著名人やメディア関係者からの報告が重なり、映像制作現場での不可解な欠損記録が記録されるようになると、事態は風向きを変えた。
それが本当にある現象だと知られるようになるにつれ、社会はその現象に怯え始めた。
発症者はしだいに、差別を受けるようになる。
都市伝説の延長線で消費されたり、不気味な感染者として距離を置かれたり。
原因の究明には、物理学者が真っ先に手を挙げた。
その現象が、光学や量子理論と根本的に矛盾していたからだ。
学者は新たな現象の発生に、一種喜びさえ見出しているようで、その積極的な発信から、一躍有名になった物理学者ももいた。
しかし、あれから五年――いまだに謎は解明されていない。
結局アフロディーテの呪いは、『像投影障害』という医学的な病名が付き、精神病の枠組みに押し込められた。
脳内における像の投影プロセス――とくに視覚的に認識する能力に関わる領域に異常があるという仮説が立てられたのだ。
でもそれって、発症者の問題なのか、社会の問題なのか、いまいちよくわからなかった。
まなざす方の病気なら、すべての人が発症者と言えた。
医学もまったくもって説明不足だったけど、社会は既存枠組みを欲し、結局「物理的ではないなら精神の問題だ」という結論に至った。
理解不能なこの現象に名前を与え、秩序を取り戻すことが、社会のために必要だった。
ようやく世間に病として認識され始め、発症者が“人間”に戻れたのは、つい最近のことだった。
もちろん、日常生活にも深刻な影響があった。
髪型を整えることもできず、メイクの仕上がりも、ひげの剃り残しも確認できない。
証明写真が撮れないため、身分証や履歴書が用意できない。
社会に出ることへの不安で、多くの発症者が外に出られなくなった。
芸能人にとってはさらに致命的だった。
顔を記録に残せないということは、そのまま仕事が消えることを意味した。
広告契約は打ち切られ、イベント出演は見送られた。
私はこの病気の深刻さを、繰り返し調べていて、知っていた。
もはや一種の専門家のようだった。
だからこそ、私は朱里の軽さに戸惑った。
「かかっちゃった」なんて、まるで風邪みたいに笑ってみせる。
その無邪気さに、どこか追いつけないものを感じた。
高校二年生の冬。クリスマスが迫り街が浮かれ始める頃、私はこの病気になった。
私は、他の発症者の例にもれず、外に出られなくなっていた。
毎日一時間かけていたメイクができない。それだけで、私はもうだめだった。
「可愛くない自分」を想像すると、ぞっとした。外なんて、まして学校なんて行けるはずがなかった。
前髪の乱れも、肌荒れも、口角の歪みも、そばかすの濃さも、誰にも見せたくなかった。
“見せられる顔”が、どこにも見つからなかった。
「なんでうちにきたの」
「わたしがこの病気にかかったって知って、多田ちゃんが連絡くれて。久乃ちゃんもおんなじだって、教えてくれたの。あ、多田ちゃん、覚えてる? あっちに行ってからも、ちょこちょこやり取りしてたんだ」
その言葉に、私は思わず、心の奥でざらりと何かが削れるのを感じた。
多田ちゃんは、小三のときに同じクラスだった子だ。
地元の中学に進んだはずで、それきり何の接点もなかった。
なのに、なぜそんな子が、今の私のことまで知っているのだろう。
私は誰にも話していないし、学校に行けなくなってから、外にも出ていない。
ママには地元のママ友もいないから、そこから漏れるなんてこともない。
全く関係ない誰かに伝わっている――その事実が、ぞっとするほど気持ち悪かった。
他人の言葉で、私という輪郭が好き勝手に形作られていくのを想像するのがいやで、私はそっと頭を振る。
でも――なんで多田ちゃんと連絡を取っていたんだろう。
多田ちゃんと朱里が特別仲良かった記憶はない。
私が口出しできることじゃないけれど、私の知らないところで二人が仲を深めていたことに、胸がざわつく。
「ねえ、開けて。たくさん話したいことがあるの。わたし、久乃ちゃんがどんなに変わってたって、なにも思わないよ」
――でもそうだ。彼女が会いに来たのは、多田ちゃんじゃなくて私なんだ。
もしかしたら、先に多田ちゃんのところに行っていたかもしれないけれど、それでも私に会いに来たのだ。
私は無意識のうちに、玄関のドアの鍵に手を添えていた。
発症してから四か月、絶対に近づかなかった扉。
チャイムが私を怖がらせるとき以外は、私はこの扉を記憶の奥に押し込んでいた。
手のひらが汗ばんでいるのに気づいて、私は一度、ドアノブからそっと手を離した。
前髪に触れる。
いつのまにか、また少し浮いている気がして、指先で撫でつける。
マスクの位置を何度か直す。
上を少し持ち上げて、鼻筋にぴたりと当てる。
こんな私を見て、朱里はどう思うだろう?
怖くて仕方なかった。でもそれ以上に、会いたくてたまらなかった。
そして、私は開けてしまった。
重たかった扉が、急に軽くなる。
反対側から、朱里がぐっと引いたのだ。
扉は外へと大きく開き、光と風と、朱里が――まとめて、流れ込んできた。
彼女と目が合った。
その目がふっと細められ、いたずらっぽく笑った、と思った次の瞬間――桃色の花びらが、私の視界をさらっていった。
肩に、髪に、頬に、ふわふわと触れてくる。
何が起きたのか、すぐにはわからなかった。
でも、この感覚には覚えがあった。
小学生の頃、一度だけ、似たようなことがある。
通学路の八重桜の下で、朱里が内緒でランドセルいっぱいに花びらを詰めていた。
そして、家に入った瞬間、私に向かってそれを放ったのだ。
あとで、玄関の掃除が大変だったのを、ぼんやり覚えている。
花びらを浴びて立ち尽くす私の前で、朱里の腕が大きく広がっていた。
そのまま、倒れ込むように私を抱きしめてくる。
顔のすぐ横で、ウェーブした長い黒髪が、春の陽ざしと花びらをまとってきらめいた。
「ひさしぶり。久乃ちゃんの匂いだ。覚えてるよ」
春が帰ってきた、と思った。
――私は、朱里との日々を思い出していた。




