13❀ 頬をすべる
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朱里との再会が、こんなにも和やかなものになるなんて思っていなかった。
ふたりで、玄関に舞い落ちた桜の花びらを拾い集めているうちに、いつのまにか、私たちは昔の距離感に戻っていた。
花びらの感触と、指先の距離と、ほんの小さな笑い声――それらが、積もった不安や沈黙を少しずつほぐしていくようだった。
「ごめん、こんなに散らかしちゃって」
朱里が照れたように笑うので、私はつい口元を緩めた。
「そういうしおらしいこと言いながら、前もやったじゃん」
あの八重桜のいたずらのことを思い出しながら返すと、朱里はくすくすと笑った。花びらをまとめた袋をねじって縛り終えたとき、朱里がふいに顔を上げた。
「……ねえ、久乃ちゃん。久乃ちゃんの部屋って、まだあそこ?」
私は少しだけ息を詰めた。
部屋のこと。朱里はあの頃のままの声で、当然のようにそれを訊いたけれど、その一言が、妙に現実を揺さぶってくる。
「……うん。変わってない。階段上がって、左」
そう答えながら、背中のあたりがじんと熱を帯びる。朱里が本当にここにいる――その事実に、身体がようやく追いつこうとしていた。
朱里はいたずらっぽく笑うと、制止する暇もなく、とたとた軽い音を立てて階段を駆け上がっていった。腰まであるやわらかい黒髪が、踊るように揺れている。
「ま、待って!」
慌ててその背中を追いかける。子どもの頃と同じ構図なのに、距離だけが少し違っていた。
白い壁に埋め込まれた焦げ茶の扉。ドアノブの塗装は、少しだけ剥げていた。
朱里は迷いなくその前で立ち止まり、振り返る。
「ここでしょ?」
私はうなずきかけて、思わず立ち止まった。「ちょっと待って……!」
とっさに腕を伸ばし、彼女の前に立つ。
「中……散らかってて」
「へえ、見てみたいなあ。いまの久乃ちゃんの散らかし方」
おどけた声に、私は思わず言い返した。
「別に、他の部屋でもいいでしょ」
「やだ。久乃ちゃんの部屋に行きたい」
朱里は、わざと子どものふりをしているようだった。少しだけにらみ合って、結局、私が折れる。
「……汚いからね」と念押ししてから、ドアをそっと開ける。
そこには、いつもの――でも、絶対に誰にも見せたくない私の部屋があった。
ベッドの毛布は、足元の方へずれて、半分だけねじれたまま。枕には、片側だけ浅く跡がついている。朱里を迎えに出たきりの形で残っていた。
机の上には、読みかけのコスメ雑誌と伏せられた参考書。ノートの角が折れたままで、傍らにリップクリームが転がされている。
本棚には差し込みきれなかったノートが積まれ、横に傾いた冊子がひとつだけはみ出していた。
朱里が最後に来たときと、家具の位置も物の置き場も変えていない。
ずっとひとりでいた空気。触れられていないのに、触れられたみたいにざわついて、私は思わずうつむいた。この部屋はずっと、私だけのものだった。その濃さを、そのまま見られるのが、なんだかすごく恥ずかしかった。
「……来るなら、掃除したかった」
「ね、そんなに気にしないで。ぜんぜん汚くないよ」
朱里はそう言って、ふわりとカーテンに触れ、机の前の椅子を指で撫でた。部屋の空気が、彼女の動きに合わせてやわらかく揺れる。
「この部屋、変わってないねえ」
懐かしそうに言いながら、朱里の目線が、テディベアに移る。
「わあ。これ、小学生のときもいたぬいぐるみじゃない?」
クマの頭をそっと撫でながら、笑う朱里。でも私は、まだ拗ねていた。
「着替えだって……朱里はきれいな格好してるのに、はずかしい」
白いTシャツに淡いブルーのハイウエストデニム――ただそれだけの装いが、かえって彼女の輪郭を際立たせていた。
服の上からでも伝わる無駄のないラインは、一筋の糸のようにまっすぐ伸びている。
それに引き換え、私は、髪はぼさぼさ、襟元の伸びたパジャマのままだ。ずっとダイエットを頑張ってきたけど、引きこもってから大して運動もできていなくて、お腹がぷにぷにし始めている。肌も乾燥してるし、クマも隠せていない。こんな姿、見せたくなかった。
「え! わたしも、ぼさぼさだよ! ほら、メイクもしてないし、マスクだけ~」
そう言って、口元のマスクをぺりっと剥がす。
肌の輪郭が露わになる。白く、なめらかで、透きとおるようだった。私は言葉を失った。
あどけなさの残る丸みと、大人びた影のバランスが、恐ろしいほど自然だった。たしかにすっぴんのはずなのに、すでに完成されている。私は神様に文句を言いたくなった。
私の視線に気づいたのか、朱里はちょっと気まずそうに視線を逸らし、それからふっと空気を変えるように笑った。
「……ねえ、久乃ちゃん! ひさしぶりに……おままごと、しない? 子どもの頃みたいに。今なら、ほら――」
彼女は机の上のメイクポーチを見つけると、それをひょいと持ち上げて振って見せた。
「お化粧ごっこ、とか。してみない?」
それは明らかに朱里の気遣いだった。でも、あのときの遊びの続きを、今になって提案されたような気がして、私は自然にうなずいていた。
「うれしい! 最初は下手だったんだけどね。たくさん練習して、上手くなったんだよ。……いっちばん可愛くしてあげる」
朱里はメイクポーチのチャックを開けて、中をのぞき込んだ。筆やチップ、コンパクト、チューブの蓋が、触れ合ってやわらかな音を立てる。
「なに使ってもだいじょーぶ?」
「うん」
「じゃあ、目つむって」
そう言われて、私はおとなしくベッドの端に座り、ゆっくりとまぶたを閉じる。
部屋の中の光が少し遠くなって、かわりに、朱里の息遣いが近くなる。布団が沈む気配。
私のすぐそばに、彼女がいる。指先が、そっと頬に触れた。
「……冷たい?」
「ううん、だいじょうぶ」
本当は、その陶器のような冷たさと湿度のなさに驚いたが、私はなるべく平然を装った。
指が、私の額をなぞり、眉尻へと滑っていく。でも特に何もしないまま、しばらく私の顔をひんやりとした指が行ったり来たりした。私は耐えきれず口を開く。
「……メイク、しないの?」
「あ、目開けちゃだめ! ……うーん、もうちょっと堪能させて。だって久しぶりなんだもん」
私は、どういうことか理解できなかったが、彼女のしたいままにさせていると、やがて満足したかのか、手が離れていった。
「肌、きれい。下地塗るね?」
冷たく、どろりとした液体が肌の上に乗せられ、ゆっくり、円を描くように広げられていく。その軌跡に、私の皮膚は微かにざわついた。
肌がきれいなんて、そんなの嘘だ。私は鼻から頬にかけて、そばかすがあって、ずっとそれがコンプレックスだった。
でも、なぜか――彼女の声は私をその気にさせる力があった。
クリームが何度か塗り広げられた。
「目、閉じててね」
朱里の声が、耳元でささやくように落ちる。
チークだろうか。やわらかい刷毛の先端が肌をなぞるたび、ふわふわした感覚がこめかみまで伝わってくる。
私はまぶたを閉じたまま、そっと息を吐いた。
「……朱里って、こういうの、ほんとに慣れてるんだね」
「うん、まあ……機会が多かったから」
くすくすと笑いながら、朱里の指がもう一度、私の鼻筋に触れる。
「……ねえ」
私は、少し迷ってから問いかけた。
「なんで……うちに来たの?」
朱里の手の動きが一瞬だけ止まる。息を飲む気配がしたかと思えば、すぐに何事もなかったように動きが再開される。
「うーん……」
思案するふりをしながら、朱里の声はやわらかく濁っていた。
「……どうしても、久乃ちゃんに会いたくて。だから来ちゃった」
私は思わず目を開けそうになる。
だが朱里はすぐに「だめだめ、まだ目は閉じてて」と、小さく笑いながら制してきた。
「でも、いきなりすぎるでしょ」
咎めるような声色になるのを止められなかった。
私たちの間に、どれだけの空白があったと思ってるんだろう。どうして、そんなふうに、何もなかったみたいに笑えるの。
なんにも悪くなかったあなたを勝手に遠ざけてたのは、私なんだよ。あの日のこと、どう思ってるの。私が子どもみたいにすねたりしなければ、この六年間だって、違う形で続いていたかもしれないのに。
私は朱里に責めてほしかった。そうじゃないと、あの日の決別が、朱里にとってはなんてことないことだったのかもしれないって、思ってしまうから。でもそれは、あまりに勝手な言い分だった。
朱里は、私の鼻先や目じりを指でなぞった。たぶん、ハイライトだ。肌に触れるその動きが、少しずつ輪郭をなぞっていく。
指の腹がすっと滑るたび、皮膚の下の神経がゆるやかに波打つのを感じる。
「……ごめんね、ほんとうに。ちゃんと段階踏めばよかったんだけど、我慢できなかった」
朱里は、悲しそうな声で言った。
そんなこと、望んでなんかいなかった。ただ来てくれただけで、私は救われていた。




