11✿ 回らない鍵
羽田に着いたのは、お昼をちょっと過ぎたころだった。
外の空気は、思ってたより暖かくて、でも風だけは冷たかった。
飛行機を降りてからも、何も食べずに、まっすぐリムジンバスに乗った。お腹が空いてるような気もしたけど、食べたいものは思い浮かばなかった。
ひとつだけ持ってきたキャリー。
六年間の暮らしを詰め込んだはずなのに、手元は軽い。持ち帰れるものはあんまりなくて、ぜんぶ事務所のものだったんだなって思った。
駅前でリムジンバスを降りると、わたしは気合を入れた。
これから歩いて、家に帰るんだ。ただいまって言って、お母さんの顔を見て、「大きくなったね」って言ってもらうんだ。
家への道のりは、記憶よりも短かった。あのころは、この町が無限に広がっているように感じてたのに。
でも、ちょっとずつ道を間違えたり、角を通りすぎたりして、やっぱり時間はかかった。
町並みはけっこう変わっていた。地図を見ながら進むと、「あ、あの学習塾つぶれたんだ」とか「パン屋さんできたんだ」とか、そういう小さな発見がいくつもあった。六年って、ほんとうにすごい。変わるんだなあって思う。町も、自分も。
でも、変わらないものもあった。通学路の、八重桜。花びらが道路に絨毯みたいに広がっていた。それを見た瞬間、久乃ちゃんの顔がすぐに浮かぶ。
今まで、ほんとに色々あったのに、わたし、こんなにすぐに久乃ちゃん思い出しちゃうんだ。ちょっと胸が痛くなって、でも、ちゃんと咲いててよかった、って思った。
懐かしい道を通って、わたしはマンションの前まで来た。
昔は、白くてすっきりした中型のマンションだった。ガラス張りのエントランスがちょっとだけ高級そうで、子どものころはその感じがうれしかった。
でも、久しぶりに見ると、外壁がすこしだけ黒ずんでいて、マンション全体がどことなくよそよそしく感じられた。
オートロックの鍵穴に、自分の持っていた鍵を差し込む。ちょっと緊張しながら、くるりと回すと、カチッと音がして、ドアが開いた。
中に入ると、空気が少しひんやりしていた。それが、なんだか懐かしかった。
コンクリートの匂いと、静かな音。何度も通ったはずの空間に、胸が膨らみ、ちゃんと帰ってきたという感じがした。
エレベーターで二階へ。二〇二号室。わたしのおうち。ドアの前まで来て、わたしは思わず立ち止まった。
なにか、変だった。
表札がなくなっている。前は、『斉木』って書いてあったのに。
玄関の前に、子ども用の傘が立てかけられていて、その隣には、小さな鉢植えが三つ並んでいた。どれも元気そうな葉っぱで、プラスチックの鉢はちょっとだけ日焼けしてた。
わたしの記憶の中にある“わたしたち”の暮らしとは、ぜんぜんちがってた。
鍵を取り出す。ドアの前に立って、深呼吸してから、鍵を差し込む。
でも――途中で止まった。いつもみたいに、奥まで入っていかない。少し力を入れてみたけど、かすかに金属が擦れる音がしただけで、回らなかった。自分の呼吸の音だけ大きく聞こえる。
そのとき、背後から足音がして、誰かがエレベーターを降りてきた。
わたしは振り返らなかったけど、視線が突き刺さっているのがわかる。気まずくなって、鍵を引き抜き、キャリーを引き寄せて体を横にずらした。
「……すみません」
声が、うまく出たかどうかわからない。
その人は何も言わずに通り過ぎた。冷たい空気が、そのまま心にも入ってきた気がした。
わたしはそっとその場を離れて、エレベーターに乗り直した。
そのまま急ぎ足でポストに向かい、自分の記憶を頼りに二〇二を探す。
……あった。そこには、知らない人の苗字のシールがきれいに貼られていた。フォントがかっちりしていて、あっさりしていて、なんだかすごく他人だった。
頭の中が、すーっと冷たくなった。
わたし、間違えた? それとも……もう……。
……なにこれ。うそ。うそでしょ。ほんとに?
足元がぐらっとして、ポストの前からすぐに動けなかった。
外に出よう、と思った。早くどこかに行かないと、泣きそうだった。
駅までの道が、さっきよりずっと長く感じた。歩道の段差につまずきそうになって、キャリーがガラガラとうるさく鳴った。
気づいたら、駅前のベンチに座っていた。腰を下ろした瞬間、足がじんと重くなった。
喉が渇いていた。けど、自販機に行く気になれなかった。
スーツケースの持ち手が、手のひらにくっきり赤く跡をつけていた。
……ほんとに、いないの? 信じてたのに。ちゃんと立派になって帰れば、絶対、会えると思ってたのに。
心の中にしまい込んだわたしが、わたしのことをあざ笑った。
当たり前だよ、お母さんから、返信なんてなかったじゃない。
――でも、いつも既読になってた。誕生日はメッセージだって。
電話も取ってくれなかったでしょ?
――でも電話番号は変わってなかった。呼び出し音もちゃんと鳴ったよ。
でも、でも、あれ?
もう言い訳はでなくて、わたしをあざ笑ったわたしが『ほんとうにばかだね』って言って消えた。
サラ、知ってたんだ。きっとあのとき、もう全部わかってた。
だからああして引き留めてくれたの?
だから飴のかわりに、部屋をくれたの?
サラはちゃんと、大人だった。サラの言うことが、正しかったんだ。
でもわたしは、それをまだ認められなくて、わたしはサラじゃなくて、お母さんにメッセージを送った。
『お母さん、わたし、帰ってきたよ。今どこにいるの?』




