10✿ 二度目の別れ
帰国の日。まだ朝の光がぼんやりしていて、空港の床がすこし冷たかった。
サラは、つやのある黒髪を変わらずきれいに一つ結びにしていて、でもいつもよりちょっとだけ疲れて見えた。わたしの前に立って、紙袋を差し出す。
「じゃあ、元気でね」
その中には、焼き菓子と封筒と、日本のマンスリーマンションの契約書が入っていた。書類には、サラの名前があった。
思わず顔を上げる。
「えっ……これ、なに?」
「住所と鍵は、そこに書いてあるわ」
「どうして……こんなの、いらないよ。わたし、ちゃんと家に帰るつもりだし。連絡はしてて、既読にもなってるんだから」
サラは、少しだけ笑った。でも何も言わなかった。その笑い方が、わたしをざわざわさせた。なんか……サラの目が、“そんなことないかもね”って言ってる気がして。
そうじゃない。私のお母さんって、そうじゃないの。
「たしかに、お母さんとはあんまり一緒にいなかったし、叩かれたことも、ごはんがなかった日も、けっこうあったけど……でも、それってお母さんが悪いわけじゃないと思う。仕事が大変だっただけ。ちゃんと理由があることって、わたし、分かってる。だから……そんなふうに思わないでほしい」
わたしはなんだか焦って、今までサラに言ってこなかったことまで口走ってしまった。サラの眉が、ぐっとしわを作る。
でも、それでも伝えたかった。サラにじゃなくて、自分自身に向けてでも。
わたしが育った家が、間違ってたなんて、思いたくない。
家に帰って、お母さんにちゃんと話したかった。「わたし、こういうふうに生きてきたよ」って。「お母さんのこと、嫌いじゃないよ」って。
だけど、目の前のこの紙袋がまるでそんなことできないって言ってるみたいで、指先にじわっと汗がにじんだ。
「……これ、サラの名義で契約されてるよ? 支払い、どうしたら……」
「あなたの口座と紐づけておいたわ。一時的にわたし名義にしてあるだけ。必要ならすぐ切り替えて」
「使わないよ、いらない」
「友達でも呼んで、遊び場にでもすればいい。せっかく自由になったんだから」
こんな勝手なことをする人じゃなかった。マネージャーとして、すぐに対応してくれるやさしいお姉さんだったけど、わたしが助けを求めなければ、余計なことは絶対にしない人だった。
「幸せになって」
サラがそう言って、微笑んだ。わたしは、めまいがした。
思えば彼女は、わたしが初めてこの国に来たとき、初めてあった人だった。空港まで迎えに来てくれて、スーツケースを引きながら、寮の階段を一緒にのぼって、「ようこそ」って言ってくれた。
デビュー前の夜、服のサイズが合わなくて泣いたときも、一緒にお店を探してくれた。舞台に上がる前、緊張で気持ち悪くなったときは、胃薬と一緒にペパーミントの飴をくれた。
サラはずっと、ほんとうの味方だった。
だからこそ、あの最後の会議室で、商品としてのわたしの話をされたとき、彼女に裏切られたと思った。好きだったぶん、もう顔も見たくない、って思った。
だけど今、もしかしたら、わたしのことをちゃんと好きでいてくれたんじゃないかって、胸の中がぐらぐら揺れる。
「強く生きてね。……応援してるよ、ずっと」
そう言って、サラがわたしを抱きしめた。その瞬間、心臓がぎゅっと縮まった。
――あ、やだ。やだやだ、やめて。
涙がぶわっとあふれて、サラの肩に顔をうずめた。しゃくりあげながら、声が勝手に漏れる。
「やだ……。そんなふうに抱きしめないで……!」
だって、それって、最後みたいだから。
あのときもそうだった。空港で、お母さんとぎゅっと抱きしめ合って、「頑張りなさいね」って言われて。
わたしは飛行機に乗った。――それが最後だった。
あれから一度も、会えていない。
もちろん、帰国したらお母さんと会えるって、わたし信じてる。
でも、もし会えなかったら?
これが永遠の別れの儀式に成り代わるようで、怖かった。
サラは何も言わず、わたしの背中を撫でてくれた。
その手はあたたかくて、安心したけど、それ以上に、どうしようもなく寂しくなった。
わたしは、自分からそっとサラの手をほどいた。
泣き顔を見られたくなくて、うつむいたまま、「ありがとう」とだけ言って、改札をくぐった。
飛行機に乗るのは、もう何度目か分からないくらいだったけど、ひとりで乗るのは――これが、初めてだった。




