01❀ 春が帰ってきた
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インターホンの音に怯えるのは、何も私だけじゃない。
レースカーテン越しの光が薄く部屋を満たし、月曜日が始まろうとしていた。
枕元の時計は、八時を示している。
私はパジャマのままベッドに横たわり、ぼんやりとSNSの画面をスクロールしていた。
制服姿で流行りのダンスを踊る少女たちが、スワイプとともに消えていく。
フォロワー0人の鍵垢のアルゴリズムは、私の興味関心に正直だった。わずかな時間、ふとスワイプの指を止めただけで、似たような投稿が瞬時に増える。
青春の課題にせわしなく取り組む同世代のきらめきが、鋭利な断面をしていた。
音源を聞き終えることもせず、次々に画面を切り替えていく。
不意に鳴り響いたチャイムの音が部屋の空気を震わせた。
反射的にスマホを伏せ、掛布団を引き上げてダンゴムシのように体を丸める。
光の入らない布団の内側に、自分の湿った呼吸の音だけが広がっていく。
……宅配? そんな予定はなかったはずだ。
母はもう出勤したし、こんな平日の朝に尋ねてくるような友人もいない。
音は二度、三度、ゆっくりと間を空けて鳴った。……宅配じゃない。だって、宅配なら、早々に諦めてすぐに置き配に切り替えるはず。
だからこれは、誰かが目的と確信をもって訪れている音だった。
私は布団を体に巻き付けて祈った。
ここには誰もいないんだから、早く諦めて帰ってしまえ。どんな用事だとしても関係ない。
誰にも会いたくないし、見られたくなかった。今の私を知っている人にも、知らない人にも。
ずっと息を殺していた。
しばらくしてようやくチャイムは止み、部屋は静けさを取り戻す。
しかし、ほっとしたのもつかの間で、代わりにスマホが震えた。
通知音が、布団の中で濁ったように響く。
おそるおそる画面を確認すると、《Syuri》からだった。
しばらく目が意味を結ばなかった。けれど、その名前は、体の奥のほうで確かに覚えている。
《ひさしぶり!》
短いその一文だけで、肺がうまく動かなくなった。すぐに通知が続く。
《わたしもおんなじ病気になっちゃった!》
《久乃ちゃんちの前にいる!》
その文字を見た瞬間、心臓が走った後のように激しく震えるのを感じた。
《急すぎた? でも、ずっと会いたかったの》
指が震える。返信しようとして、言葉が浮かばない。
何も言えないまま、私はただ、布団の中で、彼女の言葉だけを見つめていた。画面の文字を睨みながら、心の奥がじわりと濡れていく感覚だけがあった。
私も、会いたかった。
でも、どうして今なの。
あんな別れ方したのに、今更どうして。どうして今の私に会いに来たの。
あなたに見せれる顔なんて――。
しばらく既読にしないままでいると、ふいに着信が入った。《Syuri》の文字。
着信音が鳴るあいだ、思考は何度も止まっては、また動き出した。
切れてくれればよかったのに。でも、切れなかった。
私は、指先のほんのわずかな動作で通話を取った。
「……もしもし」
耳に押し当てたスマホから、時間差で、息を飲むような気配が返ってくる。そのあと、ひどく懐かしい――けれど、今の私には異物のような声が、あっさりと通り抜けてきた。
『久乃ちゃん?』
朱里。朱里だ。
「……ひさしぶり」
絞り出すような声だった。声帯が冷えてうまく動かない。
『久乃ちゃんだ! うれしい、つながってよかった!』
「今……どこにいるの」
『目の前だよ。久乃ちゃんちの、門のとこ。玄関のチャイム鳴らしたの、わたし。……出てくれなかったけど』
その言い方は、少しだけ、拗ねたように聞こえた。
まるで、昨日まで一緒に過ごしてたみたいじゃないか。どうしてこんな風に心に入ってくるんだろう。
私が黙り込んでいると、朱里が優しく言った。
『ね、わかってるよ。でも……ドア越しでもいいから、こっちきて? 顔見えなくていい。姿なんて、ずっと前から覚えてるし』
ちがう、と思った。
「ずっと前から覚えてる」なんて、そんなの、意味ない。
私の顔はあの頃とぜんぜん違う。釣り上がった目も、そばかすの出方も、なんだか間延びした輪郭も。
鏡を見るたび、私だって戸惑うくらいなのに――朱里が今の私を見たら、どう思うだろう。
『お願い。もう少しだけ、近くに来て』
私はスマホを耳に当てたまま、ベッドの上でしばらく固まっていた。
絶対に見られたくない。でも、声だけなら――。そんな理屈が、心のどこかで揺れる。
「……ちょっと待って」
気づけば声を落としていた。
『うん。待ってるよ』
朱里のはっきりとした言葉に観念して、私は、緩慢に体を起こした。
その拍子に、自分のだらしない姿をふっと想像する。ひどい恰好かもしれない。
下を見ると、肩に流れるぼさぼさの髪、開きかけたパジャマの襟が目に入る。思わず胸元をかき寄せ、前髪を押さえた。
ポーチの奥からマスクを引っ張り出し、何度も位置を確かめながら耳にかけた。
顔を見せるわけじゃない。でも、これがないと無防備すぎて落ち着かない。
部屋を出て、階段を降りる。できるだけ音を立てないように歩いた。息が上がっているのがわかる。通話の向こうにも、たぶん聞こえている。
そのままリビングを抜けて玄関に出た。
ドアの横、頭のちょっと上にあるガラス戸を、ほんの少しだけ開ける。風の流れが変わり、マスク越しでも外の空気がわかった。私はそっと指先でガラス戸を叩いた。
扉の向こうにいた気配が、こちらへと近づいてくるのがわかる。
「久乃ちゃん?」
耳元のスマホと、すぐ外からの生の声。そのふたつが重なった。
ほんの数センチ先に、朱里がいる。
私は深呼吸をして、電話を切った。
そして、窓の向こうに静かに語りかける。
「アフロディーテの呪いにかかったって、本当なの」
「うん、かかっちゃった。だからわたし、アイドルやめて帰ってきたの」
――軽く笑う彼女のかかった病は、いま最も芸能人が恐れるものだ。
あっけらかんとした物言いに、私は動揺した。
あんなに人気だったのに。
そんなふうに、ためらいもなく辞められるものなのだろうか。
悲しさも、苦しさも、そこには感じられなかった。
はじめまして!
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