それから
――それから、歳月は経て。
「…………ふぅ」
茹だるような暑さがいっそう体力を削る、ある夏の日の昼下がりにて。
額の汗を軽く拭きつつ、ゆっくりと呼吸を整える。そんな私が今いるのは、木々や草花が優しく織り成す彩り豊かな山の中。……ふぅ、ほんと疲れた。明日辺り筋肉痛になりそう。……でも、やっぱりいいよね、こういうところ。
あれから、およそ五年――今、私は大学四年生。いつか立派な精神科医になるべく、地元の国立大学の医学部にて勉学に励む日々で。……そして、そんなふうに思わせてくれたのは、もちろん――
『――いやああああああああああああああああああああああぁ!!!!』
――忘れもしない、五年前のあの惨状。きっと、生涯忘れることはない。私を、犯罪者にしないため――あの時の藤二さんの行動をあの時はそう考えていたし、それもあながち間違いではないのかもしれない。
だけど、真の理由は他にあって。そして、そう確信したのはあの事件からおよそ一年後のこと。あの時、彼が私の前に出てナイフを受けた理由――それは、私を庇うため。ナイフを向け母親に突進した私が、返り討ちに遭い殺されてしまわないように。
あの時、あの広間には数人の護衛が潜んでいたとのこと。自身に対し何かしら生命を脅かすような攻撃を仕掛けてきたら、迎え撃ち躊躇なく殺してしまえ――そのような命が、あの邸宅の主人たるあの女から下されていたそうで。……まあ、いかにも母親の考えそうなことだよね。それなら、正当防衛という名目で私を始末できるわけだし。
そして、それを教えてくれたのはあの時の優しいメイド長さん。彼女が母の計画を知ったのはあの事件の後のことで、母にバレないようこっそり私に事実を教えに来てくれて。
だけど、私に対し深く頭を下げるそのお姿にこちらも甚く心が痛んで。だって、この人は何も悪くない……どころか、知らず知らずの間にあの女の計画の片棒を担がされていたのだから、身内としてこちらも深く頭を下げたくらいで……うん、本当に申し訳ないです。
ところで、結果的に藤二さんを刺してしまったあの事件に関してだけど――結局、私が罪に問われることはなかった。理由は、至って単純――誰も、私を訴えなかったから。私を始末したがり、そして実際に実行しようとしていたあの女さえも。……まあ、そうだろうね。あの時の母親の目的は、あくまで私を亡き者にすること。証拠が相当に乏しいので立証こそ困難なものの、それでも一応は娘であるからしてあいつが過去に犯した罪をまるで知らないわけじゃない。そして、そんな私の存在があいつにとってマイナスであることは疑う余地もないわけで。
そして、私を警察に突き出さない、というのが私に対する口封じでもあることも疑いの余地はなく。未遂に終わったとは言え、私はあいつを殺そうとした。刃物を突き出し突進する光景は、間違いなく隠しカメラなんかでバッチリ押さえているはずで。
つまり、これは取引き……殺人未遂という罪で訴えられたくなければ、星佳も母親の罪に関し黙っておけということで。……まあ、訴える気もなかったけど。例の件にしたって、そもそも立証が困難だから藤二さんも訴えなかったわけだし……それに、今となっては余計に言えない。それであの女が訴えを起こし私が捕まってしまおうものなら、その身を挺してまで私を護ってくれた彼の思いを裏切ることになっちゃうわけだし。
……ただ、それにしても……私も、随分と薄情なもので。本当は、私自身のための――最愛の妻が犯罪に手を染めていたことを知りショックのあまり、そして夫である自身で贖うかのように自殺してしまった大好きなお父さんの復讐だったんだけど……あの時、私の頭にあったのは専ら藤二さんのことだけで。そして、そんな私の後先考えない狂行で結果的に……ほんと、どれほど後悔してもし足りなくて。
……ところで、ずっと後悔していることは他にもあって。それは、海佳の死に関し藤二さんに放った数々の言葉についてで。
なんで、海佳を死なせたの――なんて、我ながら悪質極まりない言葉を言ったけど、当然のことそんな根拠などどこにもなかった。尤も、海佳に近づいたその目的が母親に対する復讐のため海佳を利用することにあったとしても……それでも、身内と言うだけで何の罪もない子を死なせるような人間じゃないことくらい、出会ってからほどない関わりの中だけでも十分に分かっていたはずだったのに。
なのに、彼を責めてしまったのは私の弱さ。海佳を救えなかった悔しさを、無力さを他人の――最も近くにいたあの人のせいにしていただけで。
もちろん、今となっては分からない。どうして、海佳が自らその尊い生命を絶ってしまったのか。
……それでも、こうじゃないかな、って推測は一つだけあって。それは、例の罪に関し海佳が知ってしまったという推測で。他ならぬ自身の母親が藤二さんのお母さまからお金を騙し取り、更には結果として彼のご両親がこの世を……そんな赦されざる親の罪をどういう経緯かで知ってしまい、それで身内として罪悪の念に耐えかねたのではないかと。
もちろん、そんなのは母親の罪であり海佳は何も悪くない。……それでも、海佳はとても優しい子だから。だから、何の罪もないのに自分を追い込んでしまい……うん、本当に悲しい。それでも、私としてはこの推測が最もしっくりきてしまって。だから……うん、ちゃんと謝ろう。ちゃんと頭を下げて、誠心誠意謝ろう。尤も、素直に受け取ってくれるとも思わないけども。
「…………さて」
そう、ポツリと呟く。そんな私の前には、彩り豊かな山の中に佇む一軒の簡素な小屋。……うん、やっとここまで来た。高鳴る鼓動に軽く目眩を覚えつつも、震える手でトントンと木組みのドアをノックして――
「…………あ」
直後、ポツリと声が。そこには、思わず見蕩れてしまうほどの端麗な男性。およそ五年が経過した今もその美貌は変わらず――いや、以前よりもいっそうその魅力に磨きがかかっていて。……うん、やっと……やっと、この時が――
――バタン。
「――いや閉めんじゃねえよ!!」
そんな感慨も束の間、お腹の底から思いっ切り叫びを上げる。……いや、この感覚もだいぶ久々だけども……ともあれ、あまりの扱いに抗議の意味も込めドンドンと扉を叩く。すると、
「……ったく、うるせえなぁ。それで、いったい何の用だよ……星佳」
そう、軽く後頭部を掻きつつうんざりした表情で言う美男子。だけど、それには答えず代わりに襟元を引っ張りこちらへ引き寄せる。そして――有無も言わさず、唇を重ねた。
その後、しばしして彼を解放する。すると、唖然とした表情で私を見つめる藤二さん。……何の用? そんなの、決まってるじゃん。そんなの――
「――好きだよ、天使。それから――もう、絶対に離してあげないから」




