050話 春の訪れ
春の兆しは、ある朝ふいに訪れた。
城の庭に残っていた雪が解け、土の匂いが風に混じるようになった頃、私は窓辺でその変化に気づいた。
「……冬が、終わるんだ」
シュネーブルクの冬は長く厳しかった。けれど、あの白銀の季節を越えたからこそ、今この景色がこんなにも美しく感じられる。
ノックの音がして、フェルンが顔を出す。
「セラ様! 大変です!」
「どうしたの?」
「城下町が大騒ぎです! ユリウス伯爵が……」
胸が跳ねた。
「ユリウス伯爵が、どうかしたの?」
「今日の評議会で、重大な発表をするって!」
私は思わず立ち上がった。
「発表……?」
「みんな『ついに決まったか』とか『あの噂は本当だったんだ』とか、言ってます!」
噂、という言葉に嫌な予感がよぎる。
「……何の噂?」
「それは……」
フェルンはもじもじしながら言った。
「セラ様のことです」
心臓が一気に高鳴った。
「わ、私の……?」
「はい。城下ではもう、セラ様は伯爵様のお妃様になるって――」
「ちょ、ちょっと待って!」
慌ててフェルンの言葉を遮る。
「それは……まだ、何も決まって……」
けれど、否定の言葉が途中で消えた。
否定したいのに、できなかった。
胸の奥で、小さな期待が芽生えてしまったからだ。
評議会は正午に開かれるという。
私は落ち着かない気持ちのまま、城の大広間へ向かった。
すでに貴族たちや騎士団の幹部、城下の代表者たちが集まっている。
その中央に立つのは、ユリウス伯爵。
黒い正装に身を包んだその姿は、いつも以上に凛として見えた。
私の姿に気づくと、ユリウス伯爵はわずかに目を細める。
「セラ、来てくれたか」
「はい……」
緊張で、声が小さくなる。
やがて場が静まり返り、ユリウス伯爵が一歩前に出た。
「本日は、シュネーブルクの今後について、重要な決定を報告するために集まってもらった」
低く、よく通る声。
「我が国は長らく、魔力の枯渇と周辺諸国からの圧力に悩まされてきた。しかし――」
視線が、私へと向けられる。
「セラ・アッシュタールの尽力により、結界は再生され、医療と魔法の両面で新たな時代を迎えようとしている」
ざわめきが広がる。
「彼女は、もはや客人ではない。この国にとって欠かすことのできない存在だ」
ユリウス伯爵は、私の前に歩み寄った。
「セラ」
その名を呼ばれ、胸が震える。
「君に、この国の未来を共に歩んでほしい」
会場が息を呑む。
「俺は君を、妻として迎えたい」
一瞬、音が消えたように感じた。
視界が揺れる。
心臓の音だけが、やけに大きく聞こえる。
「……ユリウス伯爵」
声が震える。
「私は……」
ルミナリアで過ごした日々が、脳裏をよぎる。
蔑まれ、利用され、追い出された過去。
けれど、ここでは違った。
私は必要とされ、守られ、愛されている。
「私は……この国で、生きたいです」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ユリウス伯爵と一緒に、この国を守っていきたいです」
大広間がざわめき、やがて拍手が起こった。
騎士たちが剣を掲げ、城下の代表者たちが頭を下げる。
「聖女様万歳!」
「伯爵様万歳!」
その声に包まれながら、私はユリウス伯爵を見つめた。
「……よろしくお願いします」
そう言うと、ユリウス伯爵は私の手を取り、静かに口づけを落とした。
「こちらこそ」
その瞳は、誰よりも優しかった。
***
それから数週間後。
城はかつてないほどの賑わいに包まれていた。
結婚式の準備で、城下町からも職人や商人が集まり、通りには花が並ぶ。
私は仕立て屋に囲まれ、純白のドレスの試着をしていた。
「とてもお似合いです、セラ様」
「まるで女神様のようだ」
頬が熱くなる。
「そんな……」
鏡に映る自分は、少しだけ別人のようだった。
あの頃の、居場所を失った聖女ではない。
今の私は、この国の未来を担う存在なのだ。
控室を出ると、廊下の先にユリウス伯爵の姿があった。
目が合った瞬間、互いに足を止める。
「……綺麗だ」
そう言って微笑むユリウス伯爵に、胸が高鳴る。
「ありがとうございます」
「緊張しているか」
「……少しだけ」
「俺もだ」
意外な言葉に、思わず笑ってしまう。
「ユリウス伯爵でも、緊張するんですね」
「当然だ。人生で一番大切な日だ」
そう言って、私の手を取る。
「行こう」
大聖堂の扉が開かれる。
光が差し込み、花の香りが満ちる。
人々の祝福の視線の中、私はユリウス伯爵の隣を歩いた。
祭壇の前に立ち、誓いの言葉を交わす。
「健やかなる時も、病める時も――」
一言一言が、胸に刻まれていく。
「あなたを愛し、敬い、共に生きることを誓いますか」
「誓います」
そう答えると、ユリウス伯爵はまっすぐに私を見つめた。
「俺は君を愛し、守り続ける。どんな困難があろうとも、共に歩む」
そして、指輪をはめる。
祝福の鐘が鳴り響いた。
***
夜。
祝宴が終わり、城の中庭で二人きりになる。
星空の下、灯りに照らされた噴水が静かに輝いていた。
「……不思議ですね」
私は空を見上げる。
「こんな日が来るなんて、昔は想像もできませんでした」
「俺もだ」
ユリウス伯爵は隣に立ち、同じ空を見上げる。
「君と出会うまでは、国を守ることだけが俺のすべてだった」
「今は……?」
「今は、君とこの国を守ることが、俺のすべてだ」
胸がいっぱいになる。
「私、幸せです」
「俺もだ」
手を繋ぐ。
指先の温もりが、確かな未来を感じさせてくれる。
(私はもう、独りじゃない)
この人と、この国と、生きていく。
それが、私の選んだ道。
かつて追放された聖女は、今——
この国の守護者であり、ユリウス伯爵の妻となった。
雪の城で始まった物語は、春の光の中で、新しい章を迎える。
そしてこれから先も、きっと続いていく。
愛と誓いと、希望に満ちた未来へと。
——ここが、私の本当の居場所。
そう胸に刻みながら、私はユリウス伯爵の肩にそっと寄り添った。




