044話 黒幕
結界を展開してから、二日が過ぎた。
魔物の動きは明らかに鈍っていた。街道付近で確認されていた不穏な気配は、結界の境界線に触れたところで引き返すか、霧散するように森へと消えていく。だが、それは「諦めた」動きではない。試すように、距離と時間を変えながら、何度も接触を繰り返している。
城の執務室では、緊張感のある空気の中、報告が続いていた。
「北東の街道、異常なし」
「南側、結界への接触を二度確認。魔物は小型中心」
「被害は?」
「今のところ、ありません」
ユリウス伯爵は腕を組み、地図を見下ろしている。
「……やはり、様子見だな」
「本隊は、別にいる可能性が高いですね」
レオンさんの言葉に、伯爵は静かに頷いた。
「結界の耐久は、あとどれくらいだ?」
「最大で、三日。安全を見れば、二日です」
セドリックさんの返答に、伯爵は一瞬だけ視線を伏せた。
「セラの負担は」
「昨夜はよく眠られていました。ただ……」
「ただ?」
「魔力の回復が、以前より早いように見えます」
伯爵の眉が、わずかに動く。
「成長、ということか?」
「あるいは、この土地と相性が良いのかもしれません」
伯爵は、それ以上は何も言わなかった。
その日の午後、私は城の回廊を歩いていた。体調は悪くない。むしろ、胸の奥に穏やかな熱が灯り続けている感覚がある。
「セラ様」
振り向くと、フェルンが駆け寄ってきた。
「巡回、終わりました!」
「異常は?」
「ありません。でも……」
フェルンは声を潜める。
「森の奥、空気が変です。ざわざわしてるっていうか……嫌な感じがします」
「魔物の、気配?」
「はい。それも、かなり大きい」
私は小さく息を吸った。
「教えてくれてありがとう。無理はしないで」
「はい! でも、何かあったらすぐ知らせます!」
フェルンはそう言って、また走り去っていった。
その直後、重い足音が近づく。
「君、歩いていていいのか」
ユリウス伯爵だった。
「少し、体を動かしたくて」
「医師は、安静だと言っていたはずだ」
「部屋に籠りきりだと、余計に疲れてしまいます」
伯爵はじっと私を見つめ、やがて小さくため息をついた。
「……なら、俺が付き添う」
「え?」
「一人で歩かせる気はない」
有無を言わせない口調に、思わず笑ってしまう。
「ありがとうございます」
二人並んで歩く回廊は、静かだった。
「君は、不安か」
「……少しだけ」
正直な気持ちだった。
「また戦いが起きると思うと、怖いです。でも」
「でも?」
「皆さんが、必死に守ってくれているのを知っているから……逃げたいとは思いません」
伯爵は、足を止めた。
「君は、十分すぎるほど勇敢だ」
「勇敢、ですか?」
「ああ。俺なら、君ほど強くはなれない」
その言葉に、胸が締め付けられる。
「私は……ただ、失うのが怖いだけです」
「俺もだ」
短く、だが確かな声音。
「だからこそ、守る」
その夜だった。
警鐘が、城下に鳴り響いたのは。
「魔物の大群、確認! 北東の森より接近中!」
一斉に、城が動き出す。
ユリウス伯爵は即座に鎧を纏い、剣を手に取った。
「全騎士団、配置につけ!」
「はっ!」
私は自室を飛び出し、フェルンと合流する。
「セラ様!」
「結界は?」
「まだ、持ってます。でも……数が多すぎます!」
遠くから、地鳴りのような音が聞こえる。
城壁に上がると、森の縁から黒い影が溢れ出してくるのが見えた。
「……」
息を呑む。
数は、百を超えている。
「君」
ユリウス伯爵が、私の前に立った。
「ここから先は、俺たちが引き受ける」
「私も……」
「君は、後方で待て。負傷者が出る」
その目は、揺るがない。
「……わかりました」
私は一歩下がり、祈りの準備をする。
結界が、淡く光った。
だが次の瞬間——
森の奥から、異質な魔力が立ち上った。
「来るぞ!」
レオンさんの叫び。
魔物たちが、一斉に咆哮を上げ、結界へと突進する。
「第一隊、迎撃!」
「第二隊、側面を抑えろ!」
ユリウス伯爵は最前線に立ち、剣を振るった。
一閃。
巨大な魔狼が、断末魔を上げて倒れる。
「……はあっ!」
動きに、迷いがない。
騎士たちもまた、鍛え抜かれた連携で魔物を押し返す。
「今だ!」
「突撃!」
剣と槍が、閃光のように交差する。
私は後方で、治癒の光を放ち続けた。
「大丈夫……すぐ、治ります」
倒れた騎士の傷が、みるみる塞がっていく。
「ありがとうございます、セラ様!」
「下がって、次に備えて!」
だが、その時だった。
結界の一角が、歪んだ。
「セラ様!」
フェルンの声。
黒いローブの人影が、結界の外に立っている。
腕を掲げ、何かを詠唱している。
「……あの魔術師」
胸が、ざわつく。
「君、下がれ!」
ユリウス伯爵の声が響いた。
だが次の瞬間、結界が——
砕けた。
「侵入を許すな!」
伯爵は即座に方向を変え、魔術師へと駆け出す。
「レオン、俺に続け!」
「はっ!」
騎士たちが道を切り開く。
魔術師が、不敵に笑った。
「さすがは、氷の伯爵……」
「貴様が、黒幕か」
「さて、どうでしょうね」
魔力が、爆発的に膨れ上がる。
その瞬間、私は理解した。
この戦いは——
まだ、始まったばかりだと。




