038話 覚悟
合意が成立してから一週間後。
城の空気は、表面上は穏やかだった。だが、張り詰めた糸が見えないところで引き延ばされているのを、私は感じていた。
そしてその予感は、外れることなく現実になる。
深夜、城鐘が短く鋭く鳴り響いた。
警鐘——それも、国境からの急報を告げる合図だ。
私は跳ね起き、羽織を掴む。
同時に、廊下を駆ける足音が重なった。
「セラ!」
扉を開けると、ユリウス伯爵が立っていた。既に鎧姿だ。
「国境の砦が襲撃された」
「魔物、ですか」
「いや……人だ」
その一言で、すべてを察する。
「ルミナリア、ですね」
「ああ。だが正規軍ではない。傭兵と、私兵を混ぜた部隊だ」
政治的に、最も厄介なやり方。
「俺が出る」
「……行かせてください」
私が言うと、伯爵は一瞬だけ眉を寄せた。
「君は後方だ」
「承知しています。ですが、負傷者が出ます」
「……離れるな」
短い言葉に、強い意志が込められていた。
城門前には、既に騎士団が集結していた。
先頭に立つのは、レオンさん。
「辺境伯様、迎撃準備は整っています」
「敵の数は」
「百前後。夜襲ですが、動きは統率されています」
「……訓練された連中だな」
ユリウス伯爵は剣を抜いた。
月明かりを反射し、刃が冷たく光る。
「各隊、指揮官の命令を厳守しろ。突出するな」
「はっ!」
号令と共に、騎士団が動き出す。
私はフェルンと共に、後方支援の位置についた。
「セラ様、無理はしないでくださいね!」
「フェルンこそ、前に出すぎないで」
「了解です!」
国境の森に近づくにつれ、空気が重くなる。
やがて、剣戟の音が聞こえてきた。
ユリウス伯爵は迷いなく前線へ躍り出る。
剣の一振りで、敵の槍を弾き、返す刃で鎧の継ぎ目を正確に断つ。
無駄がない。
冷静で、圧倒的。
「……さすが」
レオンさんが息を呑む。
「辺境伯様は、戦場では別人だ」
実際、そうだった。
普段の静かな威圧感とは違う、研ぎ澄まされた殺気。
だが――
敵も、ただの烏合の衆ではなかった。
「魔術師だ!」
誰かの叫びと同時に、炎が上がる。
即座に、騎士たちが盾を構えた。
「前衛、下がれ! 第二隊、散開!」
ユリウス伯爵の声が、戦場を貫く。
指示は的確で、無駄がない。
混乱が、最小限に抑えられていく。
負傷者が出始めた。
私は走り、倒れた騎士の元へ膝をつく。
「大丈夫、すぐ治します」
光が広がり、血が止まる。
「……ありがとうございます、聖女様」
「いいえ。あなたは、ここを守ったんです」
そのやり取りを横目に、フェルンが唸り声を上げる。
「セラ様、後ろ!」
振り向いた瞬間、短剣を構えた敵が迫っていた。
だが——
鋭い音と共に、その刃は弾かれる。
「俺の後ろにいろと言ったはずだ」
ユリウス伯爵だった。
敵を斬り伏せながら、私を庇う位置に立つ。
「……すみません」
「謝るな。君が無事ならいい」
その一言に、胸が強く打たれた。
戦況は、次第にこちらに傾いていく。
騎士たちは連携し、無駄な追撃をしない。
敵の動きを読み、包囲し、逃げ道を塞ぐ。
これは――
即席の防衛ではない。
日々の鍛錬が、確実に実を結んだ戦い方だった。
やがて、敵の指揮官が倒れる。
混乱した傭兵たちは、森へと散っていった。
夜明け前。
戦場には、静寂が戻っていた。
「……終わったな」
レオンさんが剣を収める。
「死者は最小限です。迅速な指示のおかげで」
「当然だ」
ユリウス伯爵は短く答え、私の方を見る。
「セラ、怪我は」
「ありません。皆さんも、無事で……」
そう言った途端、緊張が切れたのか、膝が少し揺れた。
すぐに、伯爵の手が伸びる。
「無理をするな」
「……はい」
彼は一瞬、迷うような仕草を見せてから、私の肩を支えた。
「君は、十分すぎるほどやった」
騎士たちが、静かにその光景を見ている。
誰も、何も言わない。
それが、答えだった。
城へ戻る道すがら、東の空が白み始めていた。
「今回の件で、向こうも理解するだろう」
「何を、ですか」
「力づくでは、奪えないということを」
そして、低く続ける。
「君も、この国も」
朝日が、城壁を照らす。
血と雪に染まった夜を越え、シュネーブルクは守られた。
剣を振るう人々がいて。
支える人々がいて。
そして。
選び、立ち続ける者がいる。
私は、ユリウス伯爵の隣で、静かに息を整えた。
この地を守る覚悟は、もう。
私一人のものではないのだから。




