036話 束の間の休息
それから数日、城には穏やかな時間が流れていた。
会談の予定は一段落し、治療棟も落ち着いている。私は朝の巡回を終え、回廊の窓辺で足を止めていた。外では雪解けが進み、白と灰色の世界に、かすかな緑が混じり始めている。
(春が来るんだ……)
そう思った瞬間、背後から聞き慣れた足音がした。
「ここにいたか、セラ」
ユリウス伯爵だ。
「はい。少し、外を見ていました」
「……顔色がいい」
それは、以前も言われた言葉だった。
「この城に来てから、よく言われます」
「それだけ、無理をしていないということだ」
伯爵は私の隣に立ち、同じ景色を見る。
「今日は、このあと時間はあるか」
「ええ、特に予定はありませんが」
「なら、城下へ行こう」
「城下、ですか?」
少し驚いて問い返すと、伯爵は淡々と頷いた。
「視察だ。……君にも、見ておいてほしい」
「私も、ですか」
「君は、この地の一員だ」
その言葉に、胸が静かに鳴った。
馬車で城下へ降りると、通りには人が増えていた。露店が並び、子どもたちの声が響いている。
「ユリウス様!」
「辺境伯様!」
人々が気づき、次々に声をかけてくる。
「お元気そうで何よりです」
「この前はありがとうございました!」
礼を言われるたび、伯爵は短く頷き、私の方を見る。
「セラ、君のおかげだ」
「……私一人の力ではありません」
そう答えると、彼は否定しなかった。
市場の奥で、足を止める。
小さな花屋だった。まだ早い季節だというのに、温室で育てたらしい花が並んでいる。
「綺麗……」
「好きか」
「はい。見るのは」
そう言うと、伯爵は店主に声をかけた。
「これを」
「え?」
差し出されたのは、淡い色の花束。
「……私に?」
「他に誰がいる」
戸惑いながら受け取ると、ほのかに甘い香りがした。
「ありがとうございます。でも、どうして……」
「理由が必要か?」
「……いえ」
必要ないのだと、わかってしまった。
城に戻ったのは、昼を少し過ぎた頃だった。
馬車を降りたところで、セドリックさんが待っていた。
「ユリウス様、少しよろしいでしょうか」
「何だ」
「王都から、新たな書状が」
伯爵の表情が引き締まる。
「内容は」
「教会と、王家の連名です」
「……そうか」
私を見る。
「セラ、部屋で待っていてほしい」
「……私も聞くべきでは?」
「まだ、君を巻き込む段階ではない」
その言い方に、少しだけ胸がざわついた。
「……わかりました」
部屋に戻っても、落ち着かない。
花束を花瓶に活けながら、考えてしまう。
(巻き込まれる、か)
それは、私が守られる側に戻ることを意味しているのだろうか。
ノックの音がした。
「セラ、入ってもいいか」
ユリウス伯爵の声。
「はい」
入ってきた伯爵は、いつもより表情が硬かった。
「……やはり、隠しきれませんね」
「君は、察しがいい」
彼は椅子に腰を下ろし、私を見る。
「教会が、正式に君の召喚を要求してきた」
「……やはり」
「王家も同調している。名目は“確認”だ」
私は深く息を吸った。
「拒否、できますか」
「できる。だが、代償はある」
「どんな」
「圧力だ。交易、宗教、政治……あらゆる方面から来る」
それを聞いても、恐怖は湧かなかった。
「……ユリウス伯爵」
「何だ」
「先日、言ってくださいましたよね。協力者として、共に守ってほしいと」
「ああ」
「でしたら、これは私の問題でもあります」
伯爵は、じっと私を見つめた。
「君は、行きたいのか」
「いいえ」
「なら、拒否するか」
「……その前に」
私は言葉を選ぶ。
「私が直接、返答することはできますか」
「直接?」
「はい。教会に、私の意思を」
伯爵の目が、わずかに見開かれた。
「それは……」
「危険なのはわかっています。でも、これからもずっと、誰かの判断に委ねられるのは嫌なんです」
沈黙が落ちる。
やがて、伯爵は静かに立ち上がり、私の前に立った。
「……君は、本当に変わらないな」
「戻っただけです」
彼は、小さく息を吐いた。
「いいだろう。ただし、条件がある」
「条件?」
「俺も同席する」
「当然です」
その言葉に、伯爵はわずかに笑った。
「なら、準備をしよう」
夜、窓辺に立ち、月を見上げる。
怖くないと言えば、嘘になる。
それでも、逃げたいとは思わなかった。
(選ぶのは、私)
その覚悟が、胸の奥で確かに根を張っていた。
遠くで、城の鐘が鳴る。
それは、警告ではなく——
新しい一歩の、合図のように聞こえた。




