032話 平穏
それからしばらく、城内は穏やかな日々が続いた。
表向きには何事もなく、書類は滞りなく処理され、城下町も落ち着いている。
けれど私は、微かな違和感を覚えていた。
(……静かすぎる)
執務室で帳簿を閉じながら、ふと思う。
「どうした、セラ」
ユリウス伯爵は、私の沈黙に気づいたらしい。
「いえ……何となく、です」
「“何となく”は、君の場合、無視すべきではないな」
彼はペンを置いた。
「言葉にできるか」
「……はい」
少し考えてから、口を開く。
「城下町の配給騒ぎの後、商人たちの動きが変わっています」
「具体的には」
「取引量が減っているのに、価格は下がっていない」
ユリウス伯爵の視線が、鋭くなる。
「帳簿で確認したのか」
「はい。今日までの分を」
沈黙。
やがて、彼は静かに息を吐いた。
「やはり、か」
地図が広げられる。
「この辺りの商人が、同時に動いている」
「……結託、でしょうか」
「可能性は高い」
私は、喉の奥がひりつくのを感じた。
「私に、できることはありますか」
「ある」
即答だった。
「君には、“話を聞く役”を頼みたい」
「……話を?」
「商人たちは、権力に直接対峙するのを嫌う」
「だから……」
「だから、君だ」
その意図が、はっきりと伝わってくる。
「君は威圧しない。だが、軽くも見えない」
「それは……」
「才能だ」
褒め言葉として受け取っていいのか、判断に迷う。
翌日。
私は、数人の商人と茶会という形で会うことになった。
場所は城内の小広間。
形式張らないが、礼節は保たれた場。
「本日は、お時間をありがとうございます」
私がそう言うと、商人たちは一斉に頭を下げた。
「とんでもございません。伯爵様のご婚約者様直々にお招きいただけるとは」
その言い方に、少しだけ苦笑する。
(肩書き、強い……)
だが、だからこそ使う意味がある。
雑談を交えつつ、慎重に本題へ入る。
「最近、取引でお困りのことはありませんか」
一人が、少しだけ目を泳がせた。
「……いえ、特には」
「そうですか」
すぐには追及しない。
沈黙を、恐れない。
「ただ」
別の商人が、ぽつりと口を開いた。
「治安が良くなりましてね」
「ええ」
「その分、輸送路の警備が厳しくなった」
私は、頷く。
「安全になったのは、良いことです」
「……ええ、ですが」
そこから、少しずつ本音が漏れ始めた。
検問の増加。
通行手続きの煩雑化。
結果として、取引が滞る。
「それで、値を上げざるを得なかった、と」
「……ご理解いただけますか」
私は、即答しなかった。
「理解は、できます」
だが、と付け加える。
「正当化は、できません」
空気が、張りつめる。
「市民の生活に影響が出ています」
「しかし、我々も……」
「だからこそ、提案があります」
私は、事前にまとめた案を示した。
「一時的な手続きの簡略化と、代替ルートの整備」
「そんなことが……」
「伯爵は、検討に前向きです」
その言葉に、商人たちの表情が変わった。
「本当に?」
「はい。ただし」
私は、静かに言う。
「価格操作が続くなら、話は別です」
沈黙。
やがて、一人が深く頭を下げた。
「……我々の不手際でした」
茶会の後。
「お疲れ様」
廊下で、ユリウス伯爵が声をかけてくる。
「緊張しました」
「顔には出ていなかった」
「本当ですか」
「ああ」
彼は、少しだけ柔らかく笑った。
「君は、人を追い詰めない」
「それが、良かったのでしょうか」
「少なくとも、今回の件では最善だ」
私は、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
その夜。
書簡を整理していると、ふと手が止まる。
(私……)
聖女として祈ることも、癒すことも、今はしていない。
それでも。
(役に、立ってる)
そう思えた。
数日後、正式に商人たちとの合意が成立した。
城下町の物価は落ち着き、噂も収まる。
報告を終えた後、ユリウス伯爵は私を見て言った。
「君がいなければ、もっと荒れていただろう」
「そんな……」
「事実だ」
そして、少し間を置いてから。
「俺は、君を“守る対象”として選んだわけじゃない」
「……」
「隣で、一緒に考えられる人間としてだ」
その言葉は、重く、そして優しかった。
私は、ゆっくりと頷く。
「私も……そうありたいです」
まだ、至らない。
完璧には程遠い。
けれど。
選ばれたからではなく、
選び続けることで。
私は、この場所に立っている。
ユリウス伯爵の隣で。
——自分の足で。




