031話 隣
それからの私は、驚くほど忙しくなった。
朝は早く、夜は遅い。
かつて聖女として祈りと治癒に明け暮れていた日々とは、まるで別の生活だった。
「では、この条文の意味は?」
ユリウス伯爵の執務室。
長机の上には、地図と書簡、分厚い法文書が並んでいる。
「ええと……この場合、軍事同盟ではなく、通行権と補給の約束、ですよね」
「正しい。だが、その裏を読め」
彼は私の書いたメモに視線を落とし、指で軽く叩いた。
「この国は“善意”を装っているが、狙いは別にある」
「……港、ですか」
「そうだ」
即答できた自分に、少しだけ驚く。
(私、ちゃんと考えてる……)
ユリウス伯爵は小さく目を細めた。
「吸収が早いな」
「いえ、まだまだです」
「謙遜するな。君は元々、全体を見る力がある」
そう言われると、どう返していいかわからず、思わず視線を落とした。
彼は、決して私を特別扱いしない。
けれど、決して軽んじもしない。
その距離感が、心地よかった。
昼過ぎ、短い休憩時間。
執務室の窓から城下町を見下ろすと、人々が行き交っているのが見える。
(あの人たちの生活が、ここで決まっている……)
かつての私は、魔法を使うことでしか国に関われなかった。
でも今は違う。
知らなかった世界を、少しずつ理解している。
「……セラ」
背後から声がして、振り返る。
「疲れている顔だ」
「そんなこと……」
「君は、無理をすると黙る」
図星だった。
「少し休め」
「でも」
「これは命令ではない。忠告だ」
彼は、私に温かい飲み物を差し出した。
「……ありがとうございます」
「君が倒れては、元も子もない」
その言い方に、思わず笑ってしまう。
「本当に、心配性ですね」
「自覚はある」
即答だった。
数日後。
私は初めて、公式の会議に“陪席者”として出席することになった。
名目は、辺境伯の婚約者。
だが、実質は“観察役”だ。
(大丈夫……)
深呼吸をして、会議室に入る。
貴族たちの視線が、一斉に集まった。
好奇、警戒、値踏み。
様々な感情が、空気に混じる。
私は、ユリウス伯爵の半歩後ろに立った。
「では、議題に入ろう」
会議が始まる。
隣国との交易、治安、税の再編。
言葉の端々に、思惑が滲む。
(……あ)
一人の貴族が、さりげなく情報を歪めた。
数字の出し方が、不自然だ。
(わざと、だ)
けれど、私は口を出さない。
今は、見るだけ。
ユリウス伯爵は、気づいているだろうか。
そう思った瞬間――
「その資料だが」
彼が、淡々と口を開いた。
「数字の算出根拠を、もう一度説明してもらおう」
「な……」
貴族が言葉に詰まる。
私は、心の中で息を吐いた。
(やっぱり……)
会議は、予定より早く終わった。
廊下を歩きながら、私は小さく呟く。
「……すごいですね」
「何がだ」
「あの違和感に、すぐ気づいて」
「君も、気づいていた」
さらりと言われ、思わず足を止める。
「わかる」
「……いつから」
「君が、少し眉を寄せた時」
胸が、どくりと鳴った。
「会議中に、私の顔なんて……」
「見るに決まっている」
当然のように言われ、言葉を失う。
「君は、俺の隣に立つ人間だ」
「……」
「理解しているかどうか、それは重要だ」
真っ直ぐな視線。
その中に、期待があった。
夜、自室に戻った私は、ベッドに腰を下ろして深く息を吐いた。
(緊張した……)
でも、不思議と嫌ではない。
むしろ――
(楽しい、かも)
誰かの役に立つために、力を磨くこと。
それが、こんなにも前向きな感情を生むなんて。
翌日。
城に、小さな問題が起きた。
城下町で、食料の配給を巡る揉め事が発生したという。
「セラ、来られるか」
ユリウス伯爵の問いに、私は迷わず頷いた。
「はい」
現場は、思った以上に混乱していた。
「順番が違う!」
「うちはまだ受け取ってない!」
怒号が飛び交う。
私は、無意識に一歩前へ出た。
「皆さん、落ち着いてください」
静かな声だったが、不思議と周囲が静まる。
「配給量は足りています。
問題は、伝達と順番です」
人々の視線が、私に集まる。
「ここにいる役人の方々も、悪意があって遅らせたわけではありません」
「でも……!」
「不安になるのは、当然です」
私は、相手の目を見る。
「だからこそ、正しく説明します」
時間をかけて、一つずつ説明し、整理する。
混乱は、次第に収まっていった。
帰り道。
「……見事だった」
ユリウス伯爵が言った。
「聖女の言葉ではなかった」
「え?」
「人として、対等に向き合っていた」
その評価に、胸が熱くなる。
「……少しは、隣に立てていますか」
「ああ」
彼は、はっきりと答えた。
「もう、立っている」
その言葉が、何よりの報酬だった。
私は、まだ未熟だ。
迷うし、怖くなることもある。
けれど。
選び、学び、踏み出す。
その積み重ねが、私を私にしていく。
ユリウス伯爵の隣で。
——私は、ようやく生きていると、そう実感していた。




