016話 王位継承権
目が覚めたとき、見慣れない天井が視界に入った。
装飾の少ない、質素な部屋。
大聖堂の来客用の寝室だろう。
窓の外はもう夕暮れで、オレンジ色の光が白い壁を染めている。
「……どれくらい寝てたんだろう」
体を起こそうとすると、扉がノックされた。
「セラ、起きたか」
ユリウス伯爵の声だ。
「は、はい……!」
慌てて返事をすると、扉がゆっくり開いた。
伯爵は盆を持ち、温かいスープとパンを運んできてくれた。
「自分で運んでくださったんですか……?」
「当然だ。君の世話を、この国の人間に任せるつもりはない」
その言葉に、胸がきゅっと締めつけられる。
彼は小さなテーブルに食事を置き、私の隣に椅子を引いて座った。
「どれくらい眠っていたか、わかるか?」
「……午後から夕方まで、でしょうか」
「三時間だ。もっと眠らせてもよかったが、食事を取らせたくてな」
ユリウス伯爵はスープの入った器を手に取り、スプーンですくう。
そして——そのまま私の口元へと運んできた。
「え……ちょ、ちょっと待ってください!」
「何を驚いている。弱っている者に食事を運ぶのは当然だろう」
「で、でも……自分で食べられますから……!」
「信用していない。君は無理をする」
有無を言わさず、スプーンを口に押し当てられる。
仕方なく口を開けると、温かいスープが舌に広がった。
野菜の甘みと、ほんのり効いた塩味。
体に染み渡るような優しい味だった。
「……おいしい、です」
「そうか」
ユリウス伯爵はわずかに表情を緩め、再びスープをすくう。
こんなふうに誰かに食事を運んでもらうなんて、子どもの頃以来だ。
いや、記憶を遡っても、こんなに丁寧に世話をされた覚えがない。
「あの……ユリウス伯爵」
「なんだ」
「私、本当に……あなたの妻になれるのでしょうか」
ふと、そんな不安が口をついて出た。
伯爵の手が止まる。
「何を今更」
「だって……私なんて、地味で、魔力も不安定で……」
「セラ」
低く、しかし優しい声で名前を呼ばれる。
「君は自分を過小評価しすぎだ」
彼は器を置き、私の目をまっすぐ見つめた。
「確かに、俺が最初に君を選んだ理由は政治的なものが大きかった」
その言葉に、胸がちくりと痛む。
「だが、今は違う」
「……え?」
「君がいると、城が温かくなる。従者たちも笑うようになった。何より——」
伯爵は一瞬だけ視線を逸らし、そして再び私を見た。
「俺自身が、生きていることを実感できる」
「ユリウス、伯爵……」
「セラがいない城など、考えられない。だから——」
彼の手が、私の頬に触れた。
冷たいと思っていた指先は、驚くほど温かかった。
「もう二度と、自分を卑下するな。君は俺にとって必要な人間だ」
涙が溢れそうになる。
必死にこらえたが、一筋だけ頬を伝った。
「……ありがとう、ございます」
「泣くな。泣かれると、俺は何をしていいかわからなくなる」
困ったような声に、思わず笑ってしまう。
「すみません……嬉しくて」
「なら、いい」
彼は再びスープを取り、私の口に運んだ。
食事を終えた頃、再び扉がノックされた。
「ユリウス様、リディア王女がお呼びです」
兵士の声。
伯爵は小さく舌打ちした。
「……今行く。セラ、ここで休んでいろ」
「いえ、私も行きます」
「無理をするな」
「大丈夫です。もう体は動きますから」
立ち上がると、少しふらついた。
すぐに伯爵の腕が私を支える。
「……ほら、無理だ」
「これくらい平気です。それに——」
私は彼を見上げた。
「一人で行かせられません。あの人たち、何を言い出すかわかりませんから」
伯爵はしばらく私を見つめていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……わかった。ただし、少しでも辛くなったらすぐに言え」
「はい」
王城の謁見の間。
リディア王女とブルーノ大司祭が、玉座の前に並んでいた。
私たちが入室すると、王女は複雑な表情で私を見た。
「セラ……体調は、大丈夫なの?」
その声は、かつてのような高圧的なものではなかった。
むしろ——どこか怯えているようにすら聞こえる。
「ええ。ご心配なく」
「そう……」
王女は視線を落とし、しばらく沈黙した。
やがて、重々しく口を開く。
「……あなたに、お願いがあるの」
「お願い、ですか?」
「ええ。どうか——王都に残って、聖女として働いてほしいの」
その言葉に、場が静まり返った。
ユリウス伯爵の眉がわずかに動く。
「……何を言っている」
「わかってるわ。虫のいい話だって。でも——」
王女は唇を噛んだ。
「セラがいなければ、この国の医療は崩壊する。それは……わかってるでしょう?」
「知ったことか」
伯爵が冷たく切り捨てる。
「お前たちが散々セラを蔑ろにしてきた結果だ。自業自得だろう」
「それは……!」
王女が言い淀む。
そこへ、ブルーノ大司祭が口を挟んだ。
「セラ殿……どうか、お願いします。国民のために——」
「黙れ」
ユリウス伯爵の声が、大司祭の言葉を断ち切った。
「お前にセラへ願う権利などない。それとも——」
伯爵の目が、鋭く光る。
「リディア王女との不適切な関係を、この場で暴露されたいか?」
「なっ……!」
大司祭の顔が青ざめる。
王女も息を呑んだ。
「ど、どこでそれを……!」
「セラから聞いた。湖の浄化の際、お前たちが何をしていたかもな」
場が凍りつく。
王女は唇を震わせ、何かを言おうとしたが——言葉にならなかった。
「あなたたち……最低ね」
突然、扉が開いた。
入ってきたのは、煌びやかなドレスを身にまとった老婦人。
王妃だ。
「母上……!」
「黙りなさい、リディア」
王妃の声は冷たく、鋭かった。
「全て聞かせてもらいました。まさか、娘がそこまで愚かだったとは……」
彼女は私の前に立ち、深々と頭を下げた。
「セラ様。娘が、そして我が国が犯した過ちを、お許しください」
「お、お母様! 何を……!」
「リディア、あなたの王位継承権を剥奪します」
「え……?」
王女の顔から血の気が引いた。
「そして、ブルーノ大司祭。あなたも聖職を剥奪し、国外追放とします」
「そ、そんな……!」
大司祭が絶句する。
王妃は顔を上げ、私を見つめた。
「セラ様、どうか——もう一度だけ、この国を救ってはくださいませんか」
その瞳には、懇願と後悔が滲んでいた。
私は、ゆっくりと首を横に振った。
「……申し訳ありません。私はもう、ルミナリアの聖女ではありません」
王妃は目を閉じ、静かに頷いた。
「……そうですか。それも、当然ですね」
彼女は再び頭を下げた。
「せめて、今回の結界修復の礼だけはさせてください。報酬は後日、シュネーブルクへお送りします」
「……ありがとうございます」
私はユリウス伯爵を見上げた。
彼は静かに頷く。
「では、我々はこれで失礼する」
謁見の間を出ると、廊下に夕日が差し込んでいた。
もう二度と、この城には来ないだろう。
そう思うと、不思議と胸がすっきりした。
「セラ」
「はい」
「よく言った」
ユリウス伯爵が、珍しく笑みを浮かべた。
「さあ、帰ろう。我が家に」
「はい——帰りましょう」
私たちは並んで、城を後にした。
シュネーブルクへ。
私の、本当の居場所へ。




