012話 王都からの使者
ユリウス伯爵の城で過ごす日々にも、ようやく慣れてきた。
——そんな実感が胸に芽生えたのは、ちょうど夕飯の席でのことだった。
長く重厚なテーブルの中央には、白銀色の燭台が置かれ、蝋燭の柔らかな灯りがゆらゆらと揺れている。
窓の外はすっかり夜の帳が下り、城壁の外の森に潜む獣たちの気配すら、この温かな大広間には届かない。
「味はどうだ、セラ」
ユリウス伯爵の低く穏やかな声が、静かに響いた。
氷の騎士と呼ばれる彼だが、こうして二人きりで食事をするときは、驚くほど優しい。
表情こそ変わらないが、食器の置き方や、ふいに向けられる視線に言葉以上の気遣いが滲んでいて、胸がくすぐったくなるほどだ。
「とてもおいしいです。このお城でいただく食事は、本当に」
「それは料理長が聞けば喜ぶだろうな」
わずかに目元がほころんだように見えた。稀有な一瞬だ。
(ああ……こうして笑ってくださるの、もっと見たいな)
ふとそんなことを思ってしまい、慌てて視線を皿に戻す。
以前の私は、大聖堂で小さな部屋を与えられ、必要最低限の食事と、果てしない雑務を課せられていた。あの頃に比べれば、この城での生活は夢のようだ。
温かい寝床があり、体力に見合った仕事しか任されず、食事はゆっくり味わうことができる。
(ユリウス様に拾われなければ、私は……きっともう倒れていた)
そう思うと、感謝が胸にあふれてくる。
「明日は、城下町の巡回に同行してもらう。具合は問題ないか?」
「はい。むしろ、ずっと体が軽いです。ここに来てから、魔力の巡りがすごく安定していて」
「それは良かった」
少しだけ、ユリウス伯爵の声が柔らかくなる。
その小さな変化が嬉しくて、胸が温かくなった――その瞬間。
(……ん?)
ふいに、体の奥の魔力がざわりと震えた。
スプーンを持つ指が微かに止まる。
胸の奥で、ちり、と火花のような感覚が弾ける。
(今の……まさか)
私は慌てて周囲の魔力の流れに意識を澄ませた。
ユリウス伯爵は、私の変化にすぐ気づいたらしい。
「どうした?」
「……結界が。王都の外郭結界が、揺らいでいます」
言い終えると同時に、背筋に冷たいものが走った。
揺らぎ、ではない。
これは——断裂。
何かが外側からぶつかり、無理矢理にこじ開けようとしている。
まだ完全には破れていない。でも……このままでは長く持たない。
「なるほど、だからか」
「何か心当たりがあるのですか?」
「ルミナリア王国から、早馬が来ているとの報告が上がっている」
「えっ」
「一度捨てた聖女に縋りつこうという魂胆だろうな」
その言葉を聞いた瞬間、胸の中でざわつくのを感じた。
リディア王女の意地悪な笑みと、ブルーノ大司祭の薄気味悪い瞳が思い浮かぶ。
私にとってあそこでの暮らしは、何一つ良いことがなかった。
いっそ滅んでしまえばいいという気持ちと、一般市民には何の罪もないのだという理性が同時に湧き上がってくる。
「……ユリウス様」
呼びかけると、彼は静かに視線を向けてくれる。その眼差しは相変わらず氷のように澄んでいるのに、見つめられると不思議と落ち着く。
「王都からの使者は、きっと私に結界の修復を頼みに来たはずです」
「だろうな」
ユリウス伯爵は淡々と言ったが、私にはその裏にある確かな怒りがわかった。
私のことになると、彼はいつも静かに怒る。それが嬉しいような、申し訳ないような、不思議な気持ちを呼び起こす。
「……会ったほうがいい、ですよね」
「お前が嫌なら追い返す。王都の結界がどうなろうと、ルミナリアは自業自得だ。王家の責任を、お前が負う義務などない」
その言葉に、一瞬だけ息が詰まった。
ああ、この人は本当に……。
(私を守ろうとしてくださっている)
それが嬉しくて、温かくて、けれど心のどこかが少し痛む。
「……ですが」
私は手元のカップに視線を落とし、小さく首を振った。
「行かないわけにはいかないと思うんです。あの国に、罪のない人たちがたくさんいる。リディア王女や大司祭がどれだけ身勝手でも、市井の人は……きっと必死で生きているだけで」
口にしてみて、あらためて胸が重くなった。
「……本当は会いたくありません。今さらあの人たちが何を言いに来たとしても、許せるとは思えません」
絞り出すように告げると、ユリウス伯爵はゆっくりと席を立った。そして私の真横まで来て、静かに身をかがめる。
氷の騎士と呼ばれる男が、こんなふうに人を覗き込む仕草を見せること自体が珍しい。
彼の影が私を包み込み、胸がどきりと跳ねる。
「セラ」
優しい声だった。
鋼のように揺らがない声が、今は驚くほど柔らかい。
「無理をするな」
「……え?」
「お前はやらなければならないことがあると、つい自分を後回しにする。王都にいたころ、そうやって限界まで働かされていたのだろう」
言い当てられて、思わず目を見開いた。
ユリウス伯爵はテーブルに片手をつきながら、もう片方の手をそっと私の額へ伸ばし、指先で髪をかきあげるように触れた。
あまりに自然で、あまりに優しい仕草に、胸が熱くなる。
「ここでは、もうそんな真似をさせるつもりはない。……嫌なら、会う必要はない。結界が破れそうなら、我が領軍を動かす。助力を求めるなら、正式な外交として話をすればいい」
「で、でも……!」
私は思わず身を乗り出した。
「もし、私が会わないことで国民が危険な目に遭ったら……」
「その責任は王家にある。王女にも、大司祭にもな」
ユリウス伯爵は淡々としていた。
「何年も聖女に頼ってきて、扱い方ひとつ分からない愚か者たちだ。お前の善意につけ込み、恩を踏みつけた。その結果があの結界の弱体化だ」
冷静な言葉。けれどそこには揺るぎない正義があった。
(ああ……この人は本当に、私のことを守ろうとしてくれている)
そう思うと、胸の奥がじんと熱くなった。
私は小さく息を吸い込んで、覚悟を決めるように口を開いた。
「……会います」
「セラ」
「嫌です。でも、会います。私の意思で。逃げたくないんです。王都の人たちを見捨てたと思いたくありません」
ユリウス伯爵はしばらく私を見つめていた。
その瞳は深く静かで、まるで心の奥を見透かすようだった。
やがて、彼はゆっくりと息を吐く。
「……そうか」
短い言葉。けれどそこには、私の決意を尊重してくれる温かさがあった。
「ただし一つだけ条件がある」
「じょうけん……?」
「会談の場には、俺も立ち会う。お前を一人でルミナリアの使者に会わせるつもりはない」
その強い声に、一瞬だけ胸が高鳴った。
「……はい」
「そして、少しでも嫌なことがあれば、すぐに席を立て。これは命令だ」
私は思わず笑みを浮かべてしまう。
「命令なのですね?」
「お前は、命令でもしないと自分を後回しにするだろうからな」
淡々としているのに、どこか優しい声音だった。
その声が、私の心をじんわりと満たしていく。
(ああ……やっぱり私は、この人のもとに来られてよかった)
そう思いながら、私は小さく頷いた。
「……ユリウス伯爵、ありがとうございます」
「礼はいらん。これから会う相手は、かつてお前をないがしろにした連中だ。気を抜くなよ」
「はい」
静かに返事をした瞬間。
背後の窓の向こうで、魔力がまた微かに軋んだ。
王都の結界は、もう完全に限界を迎えつつある。
(急がなきゃ)
そう思ったとき、ユリウス伯爵が私の肩にそっと手を置いた。
「大丈夫だ。俺がいる」
その一言だけで、胸の奥にあった不安が、すうっと和らいでいくのを感じた。




