010話 衰えた力
午後。
大広間で昼食を終えた私は、約束通りユリウス伯爵に城を案内してもらうことになった。
「では、行くぞ」
ユリウス伯爵が立ち上がると、私も慌てて席を立つ。
慣れないヒールでよろけそうになったが、なんとか踏みとどまった。
「大丈夫か」
「は、はい。少し靴に慣れていないだけです」
そんな会話をしながら廊下に出ると、すれ違う従者たちが次々と足を止めた。
「あれは……」
「セラ様……?」
若い従者が目を丸くしている。
朝、聖衣姿で城に到着した時とは、明らかに反応が違う。
「お、お美しい……」
年配の執事らしき男性が、思わず呟いた。
その声に、廊下を掃除していたメイドたちも顔を上げる。
「まあ……!」
「本当に、別人みたい……!」
ひそひそと囁き合う声が聞こえてくる。
私は恥ずかしくなって、視線を落とした。
「見惚れるのもほどほどにしろ。仕事に戻れ」
ユリウス伯爵の低い声が響くと、従者たちは慌てて姿勢を正した。
「し、失礼いたしました!」
ばたばたと散っていく従者たち。
私は小声でユリウス伯爵に尋ねる。
「あの……私、そんなに変わったでしょうか」
「ああ」
即答だった。
「朝より、ずっといい」
「そ、そうですか……」
無表情で言われると、褒められているのか冷静に事実を述べているだけなのか、判断に困る。
「まず、ここが兵舎だ」
案内された場所は、想像以上に整然としていた。
武器庫には剣や槍が美しく並べられ、訓練場では若い兵士たちが真剣な面持ちで鍛錬に励んでいる。
「セラ様だ!」
「本物の燃え尽き聖女が……!」
私の姿を認めた兵士たちが、ざわざわと騒ぎ始める。
しかし今度は、その声のトーンが明らかに違った。
「な、なんて綺麗な……」
「あれが本当に、あの聖女様なのか……?」
何人かは訓練用の剣を取り落としそうになっている。
レオンさんもその中にいて、驚いたような顔でこちらを見ていた。
「レオン、口が開いているぞ」
ユリウス伯爵の冷たい指摘に、レオンさんは慌てて口を閉じた。
「い、いや、その……朝とはまるで……」
「わかったから、訓練に戻れ」
「はいっ!」
レオンさんは真っ赤になって敬礼すると、部下たちの元へ駆けていった。
その後ろ姿を見送りながら、私は小さく笑ってしまう。
「みんな、大袈裟ですね」
「大袈裟ではない」
ユリウス伯爵が静かに言う。
「君は、それだけの価値がある」
またそんなことを……。
頬が熱くなるのを感じながら、私は次の場所へと案内された。
「次は図書室だ」
重厚な扉を開けると、天井まで届く巨大な本棚が視界に飛び込んできた。
「わあ……」
思わず声が漏れる。
医療書、歴史書、魔法の研究書。ありとあらゆる書物がここに集められている。
「自由に読んでいい。ここの本は全て、君が使っていい」
「本当に、ですか?」
「結婚すれば、俺のものは君のものだ」
淡々とした口調で告げられた言葉に、心臓が跳ねる。
「特に医療書は充実させている。君が興味を持つかと思ってな」
「……私のために?」
「当然だろう」
何気ない口調で言われたが、その配慮が嬉しかった。
魔法が使えなくなっても、医療に興味があることを理解してくれているのだ。
「次は温室を——」
ユリウス伯爵がそう言いかけた時、廊下の奥から悲鳴が聞こえた。
「きゃあっ!」
ガシャンという、何かが割れる音。
「今の音は?」
「厨房の方だ」
ユリウス伯爵が素早く歩き出す。
私も慌てて後を追った。
厨房に着くと、若いメイドが床にしゃがみこんでいた。
その足元には割れた皿が散乱し、彼女の指からは血が滴っている。
「す、すみません……皿を落としてしまって……」
メイドは泣きそうな顔で謝っている。
周囲の料理人やメイドたちが心配そうに集まってきていた。
「傷を見せてください」
私は咄嗟に駆け寄り、メイドの手を取った。
「せ、セラ様⁉︎」
「大丈夫、すぐに治しますから」
そう言ったものの、内心では不安でいっぱいだった。
本当に、今の私に魔法が使えるだろうか?
でも、目の前で苦しんでいる人を見捨てるわけにはいかない。
(お願い、動いて……!)
私は目を閉じて、深く呼吸をする。
そして、かつて何百回も唱えてきた治癒の呪文を、静かに紡ぎ始めた。
「光よ、傷を癒したまえ……」
最初は何も起こらなかった。
けれど、諦めずに祈り続ける。
すると——
手のひらに、ほんの僅かな温かさが宿った。
「……っ!」
淡い、本当に淡い光が指先から溢れ出す。
かつてのような眩い輝きではない。けれど、確かに魔力が集まっている。
「治れ……お願い……」
必死に念じる。
光がメイドの傷口を包み込んでいく。
そして——
「あ……」
メイドが驚いたような声を上げた。
指の傷が、ゆっくりと塞がっていく。
「治った……治りました! セラ様、ありがとうございます!」
完全に元通りとはいかなかったが、出血は止まり、傷口も小さくなっている。
私は安堵のため息をついた。
「よかった……」
立ち上がろうとして、ふらりとよろめく。
弱くなったとはいえ、魔力を使うと疲労するのは変わらないらしい。
「セラ」
支えてくれたのは、ユリウス伯爵だった。
いつの間にか、すぐ隣に立っていた。
「無理をしたな」
「いえ……これくらい、平気です」
「平気な顔をしていない」
そう言って、彼は私の体を軽々と抱き上げた。
「え、ちょっと⁉︎」
「大人しくしていろ。部屋まで運ぶ」
お姫様抱っこである。
周囲の従者たちが、どよめいている。
「ゆ、ユリウス様が……」
「直々に……」
私は恥ずかしさで顔が真っ赤になった。
「お、降ろしてください! 自分で歩けますから!」
「却下だ」
有無を言わさぬ口調。
私は観念して、大人しく抱えられることにした。
「……あの」
「なんだ」
「あの程度の傷を直すのに、こんなに消耗してしまいました。以前はもっと強力な魔法を使えたのに……。これじゃ聖女失格です」
ユリウス伯爵は私を見下ろした。
その瞳に、僅かな変化があった。
「俺は、君が聖女失格だとは思わない」
予想外の言葉に、目を見開く。
「え……?」
「君は、自分の限界を超えて魔法を使った。それは、称賛に値する」
ユリウス伯爵の声には、確かな敬意が込められていた。
「魔力の強弱など、問題ではない。大切なのは、誰かを救おうとする意志だ」
胸が熱くなる。
この人は、本当に私の本質を見てくれている。
「君は、立派な聖女だ」
「そんな……もう、魔法もまともに使えないのに……」
「それでも、君は人を救った。それで十分だろう」
部屋の前に着くと、ユリウス伯爵は私をゆっくりと下ろした。
「今日はもう休め。無理は禁物だ」
「はい……」
扉を開けようとした時、彼の声が背中に届いた。
「セラ」
「はい?」
「……よくやった」
振り返ると、ユリウス伯爵は僅かに、本当に僅かに口角を上げていた。
それは笑顔と呼ぶにはあまりにも小さな変化だったけれど、私の心に深く刻まれた。
「ありがとうございます」
部屋に入ると、温かい紅茶が用意されていた。
メイドさんたちの気遣いだろう。
窓の外では、初雪が降り始めていた。
(不思議な人)
ユリウス伯爵のことを思い返す。
冷たいようで、優しい。
無表情なのに、時折見せる表情の変化が愛おしい。
そして——私を、本当の意味で認めてくれている。
「……ここでなら、幸せになれるかもしれない」
小さく呟いた言葉が、静かな部屋に溶けていった。
新しい人生の、確かな始まりを感じながら。




