第四十四話……地球の匂い
恒星の淡い光が、薄く曇った空を通して地表を撫でていた。
惑星エデムの荒野に、ツーシームはひとり降り立っていた。
重力は軽く、風は弱い。
靴底に伝わる感触は、岩でも砂でもない、どこか湿り気を含んだ柔らかさだった。
彼女がこの星を選んだ理由は単純だ。
惑星破壊砲の一件以来、ユリウスと同じ空気を吸い続ける気にはなれなかった。
――許せないわけじゃない。
だが、すぐに水に流せるほど大人でもない。
その感情を抱えたまま、彼女はここへ来た。
惑星エデムは人口も少なく、開発も進んでいない辺境世界だ。
だが、この星には他の惑星にはない価値があった。
掘り出されるのは鉱石ではない。
黒く、湿り気を帯びた表土――「土」そのものだ。
土は兆単位の種類の地球の微生物たちが、長い年月をかけて織り成した結果であり、地球以外の宇宙には殆どないものであった。
太古、地球から持ち出された土壌は、幾度もの核戦争と環境崩壊を経て汚染され、微生物と有機物を保持した「使える土」は銀河全域で極めて希少となっていた。
多くの惑星では人工培地で作物を育てていたが、味も栄養も、本物の土には及ばない。
それゆえ、帝国の貴族や富裕層たちは今も、土で出来た食料を珍重している。
だが近年、地球文明が「土の貯蓄場」として秘匿していた施設が、この辺境惑星エデムで発見されたのだ。
ツーシームはしゃがみ込み、素手で地面を掴んだ。
指の間からこぼれる黒土は、微かな匂いとともに生命の気配を宿している。
微生物、有機物、失われた地球の循環――
それらを内包するこの土は、農業惑星にとって貴金属以上の価値を持っていた。
遠く、地平線の向こうでは巨大なドーム状の土壌集積地が並び、圧縮土壌コンテナを満載した輸送船が、低軌道へとゆっくり上昇していく。
発進のたびに大地がわずかに震え、埃が舞い上がった。
地球文明の残骸を継ぐ帝国において、土は文化的に肉親であり続けたのだ。
それは静かで、しかし時に戦争の引き金ともなる戦略資源だった。
ツーシームは立ち上がり、恒星を仰いだ。
「……不思議なもんだね。こんな黒いものが人々の心を突き動かすなんて」
◇◇◇◇◇
「……この土、いい匂いがするねぇ。湿り気もある。腐ってない」
ツーシームは革張りの椅子に腰掛けたまま、指先で小さな試料箱を開け、黒土を軽くつまみ上げた。
館の中は妙に静かで、磨かれた石床に足音が吸い込まれていく。
香は焚かれているが、それでも土の匂いは誤魔化せなかった。
「さすがはフォックス社長。鼻が利きますな」
土商人は、年季の入った笑みを浮かべながら卓上の投影パネルを操作した。
柔らかな光が宙に数字を浮かび上がらせる。
「では……こちらも精一杯、勉強させていただきまして。お値段は――これくらいで」
次の瞬間、ツーシームは思わず声を上げた。
「えっ!? ……一トンで、金貨二千五百枚だって?」
投影された数字は微動だにしない。
むしろ、それが当然だと言わんばかりに鎮座している。
「はい。かなり、かなりお勉強させていただいておりますとも」
商人は指を組み、余裕たっぷりに椅子へ背を預けた。
足元を見られている――そう感じないわけではない。
だが、反論は簡単ではなかった。
未開発惑星で生態系を立ち上げるには、土が要る。
水耕栽培だけで全てが回るほど、自然は都合よくできていない。
海産物ひとつ育てるにも、河川が運ぶ土砂と微生物が不可欠だ。
「土がない世界」は、長くは持たない。
ツーシームは黒土を指の間でこね、静かに息を吐いた。
「……なるほどね。金より高いわけだ」
土商人は満足そうに頷いた。
地球文明の遺産を握る者だけが許される、静かな優越だった。
「……しょうがない。いくらか頂くとしようか」
ツーシームは小さく肩をすくめ、決断を口にした。
豪奢な館の天井では緩やかな換気音が響く。
土商人は一瞬だけ安堵の色を浮かべ、すぐに慇懃な笑みに戻った。
「ありがとうございます。確かに承りました」
彼は卓上に展開された契約パネルを引き寄せ、ツーシームのサインを丁寧に確認する。
数字と条件が静かに確定され、契約成立の電子音が短く鳴った。
海賊船「モリガン」の船倉は、兵装や戦利品を積むには十分だが、繊細な土を運ぶには不向きだ。
衝撃や乾燥は禁物で、微生物の生存率が落ちれば価値は半減する。
そのため、土壌保護仕様の専門輸送船を別途手配する――それも、商談の条件のひとつだった。
「輸送は低振動、温湿度管理付きで。もちろん直送で、抜かりはありませんとも……」
事務的なやり取りが終わり、ツーシームは深く息を吐いた。
「こりゃあ……あとでゾル婆に怒られるなぁ」
そう言って振り返ると、護衛役として控えていたレッドベアは、壁にもたれたまま完全に船を漕いでいた。
腕を組み、口をわずかに開け、規則正しい寝息。
長引いた商談がよほど退屈だったらしい。
ツーシームは思わず苦笑する。
「まったく……高い土を買うってのも、楽じゃないねぇ」
館の外では、圧縮土壌コンテナを積んだ輸送列車の列が静かに動き出していた。
黒く湿った一握りが、時に金貨よりも重い意味を持つ――そんな宇宙の現実を背に、商談は幕を閉じたのだった。




