第二十七話……帰還と決意
暗い官舎の片隅。
湿った石壁にはぼんやりと照明が滲み、鼻をつく鉱山臭と粗末な食事の臭いが混じり合っていた。
ユリウスは、硬いパンを前にうつむきながらぽつりと言った。
「……第五総管区の政治は腐っているな」
すると、ツーシームはグレゴールに視線を投げ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「第六総管区と、どこが違うんだい?」
その言葉に、老臣グレゴールは言葉を失った。
ユリウスは驚きに目を丸くする。
「え? え? 第六総管区もこうなの?」
しばらく沈黙した後、グレゴールは観念したように頷いた。
「ええ……正直申しますと、帝国全土で重税を払えぬ者が拘束されております。その安い労働力で得た財は、中央官僚や地方役人たちの懐に……」
「そんな……」
ユリウスの顔から血の気が引いていく。
そこへツーシームが、臭い脱脂粉乳をぐいっと飲み干しながら軽く言い放った。
「なんのことはないさ。嫌なら坊ちゃんが何とかすればいい」
「……ぼ、僕が?」
「そうだよ。そんな連中を一掃したいなら――坊ちゃんが次の皇帝にでもなればいいのさ」
ツーシームは、カビの生えた黒いパンを指でくるくる回しながら、軽やかに笑った。
ユリウスは返す言葉もなく黙り込む。
するとツーシームはパンを放り投げ、立ち上がった。
「まぁ、考えるのはあとでいいさ。――今はこうする」
次の瞬間。
ばしゃっ!
彼女は冷え切った麦粥を、見張りの看守の顔へ派手にぶちまけた。
「!? な、なにをする――」
看守が叫ぶ間もなく、ツーシームの拳が顔面にめり込む。
ガンッ!
看守は泡を吹いて崩れ落ちた。
「さて、逃げますか」
「え、え!? どこに!??」
混乱するユリウスをよそに、ツーシームは迷いなく廊下を駆け出した。
ユリウスとグレゴールは追わざるを得ない。
たどり着いた先にあったのは、小型の脱出用宇宙艇――錆びて古びているが、まだ生きている。
「乗るのか? 乗らないのか? 坊ちゃん、早く!」
その剣幕に押され、ユリウスもグレゴールも飛び乗る。
ツーシームは操縦席に滑り込み、乱暴にスイッチを叩き込んだ。
ゴオオオ――ッ!
艇は闇の宇宙へと射出された。
「ツーシーム殿、この宇宙艇は長距離ワープなどできませんぞ!」
老臣の言葉どおり、即座に警報が鳴り響く。
追手の反応――四隻の小型武装艇だ。
ビーム・バルカンが空間を切り裂き、赤い光条が何本も小艇をかすめた。
「うわっ――!? なんだこの動き……!」
ユリウスは思わず声を上げる。
小型艇はまるで運動理論を無視したかのように、左右へ滑るように急旋回し、ビームを紙一重で回避していく。
重力が見えるツーシームの操縦は、人間の常識の外にある。
「しっかりつかまってな!」
状況は逼迫していた。
追う側も追われる側も、急いで飛び出したせいで燃料が心許ない。
やがて、小惑星帯の陰で小艇は動きを止めざるを得なくなる。
「そこで終わりかぁ!?」
四隻の武装艇が、小惑星の裏側へと回り込む――追い詰められた鼠を仕留めるつもりで。
だが。
「……げっ!?」
四隻のパイロットたちが息を呑んだ。
そこには暗黒の宇宙に吸い込まれるような黒艦影。
艦首に禍々しいエネルギーが満ち、主砲が唸りを上げる――。
巡洋艦級の規模を誇る海賊船モリガン。
火線が奔った。
瞬間、四隻の武装艇は、光の粒となって宇宙に散った。
静寂だけが残る。
その漆黒の巨艦は、まるで主人を迎えるように、小型艇へ向けて丁寧に船腹を寄せていた――。
◇◇◇◇◇
移送艇のエアロックが開くと同時に、巨体の副長レッドベアが姿を現し、分厚い胸を折って深々と頭を下げた。
「船長、遅れて申し訳ありません」
「何言ってんだいトム。時間ぴったりじゃないか」
ツーシームは笑みを浮かべ、副長の肩をぽんと叩く。そのまま艦橋へと続く細い通路を軽い足取りで進み、ユリウスも後に続いた。
「……以前から脱出計画があったの?」
少年の問いに、ツーシームは口元を片側だけ上げてみせる。
「そうさ。これのおかげでね」
彼女がぱかりと口を開くと、奥歯に埋め込まれた超小型通信機が金属光を返した。
「うわ……いいなぁこれ。いくらするの?」
「昔に特注したやつでね。確か二百八十万帝国ルーブルだったかな?」
「たっ、高い!!」
ユリウスが肩を震わせて目を丸くすると、ツーシームは肩をすくめ、いたずらっぽく微笑む。
「まぁ、そのおかげで坊っちゃんは助かったわけだし。領地持ちの子爵様のお命よりは……安い買い物じゃないかな?」
軽口を叩きながら進む一行。
通路の先、艦橋の扉が静かに開き、新たな旅路の気配が漂い始めていた。
◇◇◇◇◇
「エーテル機関へエネルギー注入――九十八・九パーセント!」
「炉内圧力、正常値を維持!」
「ワープアウト座標、計算誤差許容範囲内!」
次々と響くクルーたちの報告が艦橋を満たし、最後の声が上がる。
「長距離ワープ、準備完了しました!」
その瞬間、艦長席に座るツーシームの口元が、獲物を見つけた狐のようにゆるりと吊り上がった。
「――さぁて。お家に帰りますかねぇ」
号令と同時に、海賊船モリガンの船体が微かに震え、星図の向こうへ滑り込むように光へと溶けた。
複数回の長距離ワープを繰り返しながら、艦はついに惑星ヴァルカンへとたどり着いたのであった。
屋敷へ戻ったユリウスは、埃を払う間もなく政務についた。
その表情はどこか晴れ晴れとしていて、しかしその奥には別の光が潜んでいる。
「ねぇグレゴール。僕って……皇帝になれるかな?」
老臣の背筋がびくりと震えた。
「な、なりませんぞ! 海賊風情に吹き込まれた戯言を真に受けては……!」
「冗談だよ」
ユリウスは、肩をすくめるように笑ってみせた。
だがその笑みの奥に浮かぶ影――
それが冗談で済まぬ帝国内の不正への怒りであることを、グレゴールは痛いほど理解していた。
胸中に重い不安がじわりと広がるのであった。




