石垣原の影 ―第三章 滝の影、火の影
谷底で伝兵衛が一人を仕留め、秘匿銃の装填作業に入ったその瞬間、上方の崖では激しい攻防が繰り広げられていた。
茜は、残る二人の清正の忍びを、落石棚の隘路に誘い込んでいた。ここは硫黄の蒸気が特に濃く、視界が一瞬で遮られる場所だ。
二人の忍びは、谷底で火縄銃の爆音を聞き、激しく動揺していたが、使命を果たすため、連携して茜を追い詰める。
「女一人、すぐに仕留める!」
一人の忍びが叫び、刀を横薙ぎに払う。茜は、その一撃を紙一重でかわすと、すぐさま岩肌に身を預けた。
茜の戦い方は、伝兵衛の**「火」とは対極にある「水」**の戦い方だ。彼女の動きは水のように滑らかで、予測不能。岩肌を蹴る力は最小限に抑えられ、足音は湯気に消されてしまう。
彼女は、崖の上部に設置されていた滑車に細い糸をかけ、それを伝って一気に高所に移動した。
「消えた!どこだ!」
二人の忍びが混乱し、湯気の向こうを警戒する。その時、彼女は彼らの真上、せり出した岩の影から、爆薬玉を二人の足元へ静かに投げ落とした。
爆薬玉は、伝兵衛が守る谷奥の火薬精製所で、硫黄と硝石を特殊な配合で練り上げた、大友忍軍の秘匿兵器である。
ドッ!
火花と同時に爆薬玉が破裂し、辺りに凄まじい閃光と轟音、そして濃い白煙を撒き散らした。
二人の忍びは、視界を完全に奪われ、耳鳴りに苦しみながら、体勢を崩した。
「くそっ、目が見えない!」
その好機を茜は見逃さない。
彼女は、岩の陰から矢のように飛び出し、一人の忍びの背中に逆手に持った短刀を突き立てた。
「がぁっ!」
背後を取られた忍びはそのまま絶命し、崖から落下していく。
残る一人の忍びは、本能的に後退した。その足元は、落石棚の崩れやすい岩盤の上だ。
茜は追撃せず、その忍びを静かに見つめる。
「貴様ら、この谷の秘密を奪いに来たのか。宗麟様の築かれた影の国を崩すことは許さない。」
「黙れ、大友の時代は終わった!豊後の富は、清正公がいただく!」
最後の忍びは、怒鳴るように叫び、刀を構え直した。しかし、彼の集中力は、先ほどの爆発と、仲間の死によって著しく削がれている。
茜は、あえて動かず、その場で風を切る音を出した。
「ふん……!」
忍びは反射的に身構える。しかし、それは茜が投じたものではない。
ドォンッ!!
谷底から、再び大地を揺るがすような轟音が響き渡った。
伝兵衛の**“秘匿銃”**による、二発目の銃弾である。
その銃弾は、茜と対峙する忍びの、背後の崖のわずか数寸横を掠め、狙い通り、長年の雨風で崩れかかっていた岩盤に直撃した。
ゴゴゴゴゴ……!
伝兵衛の放った一撃は、岩盤の弱点を正確に破壊し、落石棚全体を崩壊させた。
大量の岩石が、地鳴りのような音を立てて落下し始める。
茜は、事前に調べていた安全な避難経路、細い岩の隙間へと、まるで液体のように滑り込んでいった。
最後の忍びは、その状況に絶望の表情を浮かべた。逃げ場はない。
「くそっ……!」
彼は刀を投げ捨て、落下する岩石群に、なすすべもなく飲み込まれていった。
しばらくして、谷には再び静寂が戻った。残ったのは、濃い硫黄の匂いと、新鮮な血の匂い、そして崩れた岩盤の土埃だけだ。
茜が、瓦礫を避けながら谷底へと降りてくる。伝兵衛は、秘匿銃を背負い直し、倒れた三人の忍びの遺骸を確認していた。
「……五人、すべて仕留めた。伝兵衛、二発目の狙いは正確だった。」
茜は、伝兵衛に近づき、警戒を解かない眼差しで、谷の奥を見つめた。
「まだだ。本隊が来るかもしれない。」
伝兵衛は静かに首を振った。
「来ない。清正は、石垣原の戦況が押されていることを知れば、この影の戦いに、これ以上の兵力を割くことはない。彼らの狙いは、あくまで奇襲と資源の掌握だ。奇襲が失敗した今、彼らは別府湾側へ撤退するだろう。」
彼は、地面に倒れている忍びから抜き取った加藤家の布切れを握りつぶした。
「彼らは、大友の火薬が、これほどの練度の忍びに守られているとは、夢にも思わなかっただろう。宗麟様が長年隠し続けた大友忍軍の力。これが、影の国の盾だ。」
茜は、石垣原の方向、赤黒い煙の上がる空を見上げた。表の戦いは、今も続いている。武士たちは、大友義統と共に、表向きの戦いに敗れるだろう。
しかし、影の戦いで、大友忍軍は勝利した。
「私たちの戦いは、まだ終わらない。石垣原で、大友義統様が敗れた後、この谷こそが、豊後の真の生命線になる。」
伝兵衛は、谷の奥、湯気が立ち昇る採掘所と精製所の方角に視線を向け、静かに頷いた。
「ああ。私たち大友忍軍は、負けた主君のために、影の遺産を守り抜く。それが、宗麟様への誓いだ。」
夜の帳が完全に谷を包み込み、石垣原の炎の光さえも届かなくなった。
大友宗麟の遺志を継ぐ大友忍軍の、長く、孤独な**“影の戦い”**は、これからが本番となる。




