石垣原の影 ―第二章 秘匿銃の閃光
谷底の空気は冷たく、硫黄の匂いが濃い。温泉の湯気が木々を覆い、濃い霧となって視界を奪っていた。この濃霧と、谷の複雑な地形こそが、大友忍軍の最大の防衛線であった。
伝兵衛は、谷底の岩場に張り付くように身を潜めていた。彼は全身の感覚を研ぎ澄ませ、霧の向こうに潜む敵の動きを待つ。
(五人。足音のリズムは揃っている。清正の元で訓練された、かなり練度の高い者たちだ。)
敵の忍びは、霧と硫黄の匂いに惑わされることなく、正確に谷を登ってきていた。彼らは単なる斥候ではない。谷の構造と、奥に隠された富の場所を、すでに何らかの手段で把握している精鋭部隊であると、伝兵衛は直感していた。
伝兵衛の背負う**“秘匿銃”**は、南蛮の銃工から得た知識と、地元の鍛冶師の知恵が融合した異形の武器だった。一般的な日本の火縄銃よりも射程が長く、火薬の配合も改良されているため、より速く、より正確な射撃が可能だ。しかし、一発撃てば装填に時間がかかるという火縄銃の宿命は変わらない。
彼は火蓋を開け、火縄に火を灯した。微かな火薬の匂いと、火縄が燃える線香のような匂いが、谷の空気に溶け込む。
「誘い込みは、もうすぐだ。」
伝兵衛がそう呟いた瞬間、谷の上方、茜が向かった落石棚の方向から、微かな「カツン」という石の擦れる音が響いた。
それは、罠が作動した合図ではない。敵の忍びが、仕掛けを察知し、注意を払った音だ。
伝兵衛の冷徹な思考が瞬時に状況を分析する。
(仕掛けを見抜いた。あるいは、茜の気配を捉えたか。だが、彼らは油断している。)
敵は、石垣原の戦いで大友軍が疲弊しきっていることを知っている。彼らにとって、大友忍軍は、もはや過去の遺産であり、取るに足らない残党のはずだ。この谷を守る者に、これほどの練度の忍びがいるとは、夢にも思っていないだろう。
その驕りこそが、伝兵衛の最大の武器だった。
濃霧がわずかに晴れた一瞬、谷を登る五人の黒装束の影が、伝兵衛の視界の端に捉えられた。彼らは警戒しながらも、最も早く谷を突破するため、あえて難度の高い崖の側面を選んでいた。
伝兵衛は息を止め、狙いを定める。彼の瞳は、もはやレンズのように標的を捉えて離さない。
そして、彼が動くよりも早く、崖の上に潜んでいた茜が動いた。
ヒュッ――
空気の裂ける音が響き、一本の手裏剣が、先行する忍びの右肩を正確に射抜いた。
「ぐっ……!」
手裏剣を受けた忍びがバランスを崩し、思わず崖の掴みを緩める。その瞬間、茜が仕掛けた細い藤の蔓が、彼の足首に絡みついた。
悲鳴を上げる間もなく、その忍びは崖から滑り落ち、谷底の岩場へと激しく叩きつけられた。
「罠だ!上だ!」残りの四人が警戒態勢に入り、茜の潜む崖の上方へと意識を集中させる。
今だ。
伝兵衛の唇が動く。
彼は一気に立ち上がると、目標を、敵の中で最も体格のよい頭目と思しき人物に定めた。
火縄銃の銃口から、灼熱の火炎が噴き出す。
ドォンッ!
破裂音が谷全体に響き渡り、火薬の臭いが硫黄の臭いと混ざり合う。
鉛の弾丸は、霧を切り裂き、頭目の左胸を正確に貫いた。
「な……馬鹿な、火縄銃だと!?」
他の忍びたちが驚愕の声を上げる。彼らは、忍びの戦場で、しかもこの距離で、火縄銃を使われることなど想定していなかった。火縄銃は武士の武器であり、忍びは刀と手裏剣、そして闇の中に潜むものだ。
頭目は体勢を崩し、崖から落下していく。伝兵衛は素早く銃を背に回し、腰の短刀を抜いた。
残る三人の忍びは、驚愕から即座に立ち直った。彼らは訓練されている。
「二人を仕留めろ!一人は崖の上、もう一人は谷底だ!」
二人が崖上に向かい、残る一人が谷底の伝兵衛に向かって、岩を飛び移るように突進してきた。その動きは、まるで影が滑るように速い。
伝兵衛は、迫り来る忍びに対し、あえて動かなかった。彼は短刀を構え、深く息を吸う。
忍びは刀を真上から振り下ろす。その動きの速さから、伝兵衛の頭蓋が砕かれる未来が容易に想像できる。
しかし、伝兵衛は、忍びの刀が自分の頭上に来る寸前まで待った。
一瞬、伝兵衛の目が光る。彼は、左手を地面に突き、驚くべき速さで体を右に滑らせ、刀の軌道を寸分避けた。そして、体勢を崩すことなく、短刀を逆手に持ち替え、忍びの脇腹を深く突き上げた。
「くっ……!」
忍びは血を吐き出し、倒れ込む。伝兵衛は、倒れた忍びの首元から、一枚の布切れを抜き取った。加藤清正の家紋が入った、紛れもない**「影」**の証明だった。
その時、谷の上方から、激しい金物のぶつかり合う音が響いた。茜が、残る二人の忍びと交戦している。
伝兵衛は、再び背中の**“秘匿銃”を掴んだ。この谷の命運は、彼の二発目**の装填にかかっている。
彼の頭の中には、かつて宗麟が言った言葉が蘇っていた。
> 「伝兵衛よ。豊後を護るのは武士の剣ではない。お前たちの、影の力と、この南蛮の火だ。」
>
火薬を入れ、弾を込め、押し固める。その一連の動作は、血肉に染み込んだ儀式のように滑らかだった。
谷底から放たれる二度目の閃光が、いま、夜闇を切り裂こうとしていた。




