― 潜伏する影 ―第十一章 黒田長政への毒
密輸ルートの開拓により、大友忍軍の地下金庫は、再び流動的な**「力」となった。五島を経由した金銀は、京の闇商人を通して両替され、九州各地の生きた情報と、乱世を動かすための「工作資金」**に姿を変えて、乙原の谷へ還流した。
伝兵衛の次の狙いは、豊後の新領主、黒田長政その人であった。
長政は父・如水の威光を背景に豊前と豊後を治めているが、その統治基盤はまだ浅い。伝兵衛は、武力による直接的な衝突ではなく、長政の統治の根幹を内側から蝕む、静かな毒を注入することを決めた。
人心の毒
地下司令所。伝兵衛は、京から届いた最新の情報書を松明にかざしていた。
「長政は、石垣原の戦いで疲弊した豊後を立て直すため、年貢を厳しく取り立てている。特に、旧大友家の領地であった村々への重税は、民の不満を限界まで高めている。」
茜が隣で分析を続けた。「民の不満は、我々が流した**『大友の亡霊』の噂と結びつきやすい。しかし、単なる不満だけでは蜂起しません。必要なのは、『希望』と『導火線』**です。」
伝兵衛の顔に、冷徹な笑みが浮かんだ。「その導火線を、我々が引く。」
彼の計画は、長政の統治を象徴する二人の人間を同時に標的にすることであった。
一人は、長政の命を受け、旧大友領で苛烈な年貢徴収を指揮する代官、間瀬庄兵衛。
もう一人は、かつて大友氏に仕え、今は仕方なく長政に従っているが、郷里への忠誠心が強い下級武士、藤堂。
黄金の囁き
茜は、湯治場の情報網を駆使し、藤堂と密かに接触した。場所は、人里離れた湯治場の裏手にある、小さな仏堂。
藤堂は、武士としての誇りと、貧窮する村人たちへの同情の板挟みに遭い、深く苦悩していた。
茜は、藤堂の前に、海賊衆から得た金貨五枚を静かに置いた。
「これは、大友宗麟の遺産です。私たちは、豊後の民が、不当な重圧に苦しむのを見ていられません。」
藤堂は驚愕した。「貴様らは、やはり……あの乙原の谷の、影の勢力か。」
「私たちは、豊後の地を護る者。長政の重税は、この地を疲弊させ、いずれ加藤清正や細川忠興の餌食となる。この金で、貴殿の郷里の村の、今年の年貢の一部を肩代わりしてほしい。」
茜は、さらに衝撃的な**「噂」**を囁いた。
「そして、その年貢を代官・間瀬庄兵衛に届ける際、こう広めるのです。『この金は、京の裕福な商人が、細川忠興の命で、長政の統治を乱すために送ったものだ』と。」
藤堂の顔が青ざめた。それは、長政と細川の間の三角の牽制を、内政レベルで激化させる、恐ろしい毒であった。
「間瀬庄兵衛は、強欲で警戒心が強い。彼なら必ず、その金を細川の陰謀と見なし、長政公に報告するでしょう。」
導火線の点火
そして、第二の毒が実行された。
代官・間瀬庄兵衛は、その強欲さゆえに、徴収した年貢の一部を私腹を肥やすために横領していた。
伝兵衛は、二人の忍びを使い、間瀬庄兵衛が隠し持つ横領帳簿の写しを入手させた。そして、その帳簿に、**「間瀬は、黒田家の金銀を、細川家への工作資金として流用している」**という偽の書き込みを、筆跡を似せて巧妙に加筆した。
数日後、藤堂は、言われた通りに金貨を代官所へ届け、細川の陰謀説を代官・間瀬庄兵衛に吹き込んだ。間瀬は、細川の介入を恐れ、即座に長政に報告した。
その報告が長政に届くのと、ほぼ同じ頃。
大友忍軍の残りの忍びが、夜陰に乗じて、横領帳簿の偽造版を、長政の側近の一人に、**「間瀬の裏切りを示す証拠」**として匿名で送り届けた。
統治の亀裂
黒田長政は、二つの情報に激しく動揺した。
一つは、**「細川が豊後の民に金を渡し、一揆を扇動している」という報告。
もう一つは、「重臣である代官が、細川と通じ、横領と裏切りを行っている」**という証拠。
「細川め!国境で兵を動かすだけでなく、私の足元から崩しにかかっているのか!」
長政の怒りは、細川忠興に向けられた。彼は、内通の疑いがある代官・間瀬庄兵衛を即座に拘束するとともに、国境の緊張が高まっているにもかかわらず、内政の混乱を鎮めるため、国境警備の兵の一部を、急遽、内陸の村々の警備へと引き抜かざるを得なくなった。
伝兵衛の**「毒」は、長政の統治の根幹**に、見事な亀裂を入れた。長政は、外敵への備えと内政の安定という、二律背背反の窮地に立たされたのだ。
地下司令所で、伝兵衛は静かに呟いた。
「黒田長政よ。これで、貴殿は我々大友の影ではなく、隣の細川忠興の影を、より深く恐れることになる。そして、貴殿が兵力を内部に割けば割くほど、この豊後の地は、我々大友忍軍にとって、より安全な潜伏の場となる。」
大友忍軍の孤独な戦いは、いまや、豊後一国の内政と、九州大名間の外交を操る、**「影の政治」**へと進化を遂げていた。
次回、黒田長政が内政の混乱に陥った今、伝兵衛と茜は、次の標的である加藤清正の動きを封じるため、どのような策謀を仕掛けるのでしょうか?




