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Rd.19 テンポラルスプリント


空気が、わずかに重く感じた。

聴こえないはずの“呼吸音”が、壁の向こうから返ってくる気がした。

ルシアは最初、それを気のせいだと思った。

だが視界の端で揺らめいた光が、いつもより遅れて消える。


聖痕が反応している――しかも、彼女ひとりではない。

同じ波長の“何か”が、近くで脈打っている。

まるで心臓の鼓動が、他人の拍動と重なり始めるような――奇妙な同調感。


「……誰?」


小さく漏れた声に、部屋の空気がさらに歪んだ。

空間そのものが、呼吸しているみたいに脈動している。


「……これ、聖痕の歪み?」


心拍が重なっていく。

音が増えていく。

意識の輪郭がかすれていく。

自分の声がどれなのか分からない。

誰かの記憶が流れ込んできて、思考の境目がほどけていく。


――これは共鳴じゃない。侵食だ。


響きがあまりにも大きく、ルシアはその場に崩れ落ちる。

眩暈。鼓動の洪水。止まらない。


「もしかして……時間が……」


――視界が、ひとつの光で満たされた。


それは音もなく砕け、次の瞬間、全ての色が戻る。

床の冷たさ。部屋の匂い。息の音。

どれも確かに“現実”なのに、どこか異物のように感じた。


ルシアは浅い呼吸を繰り返しながら、視線を彷徨わせる。

机の上のグラスは元の位置に戻っている。

けれど、その中の水面だけが――微かに逆流していた。


「……戻った?」


呟いた声が、少し遅れて耳に届く。

時間の層がまだ完全には噛み合っていない。

心臓の鼓動が静まり、聖痕の輝きも薄れていく。

だが、その余韻だけが消えなかった。

胸の奥に残る、誰かの鼓動。

他人の記憶の残響。


――今、ほんの一瞬だけ、彼女は“別の時間”に触れていた。


ルシアはゆっくりと目を閉じた。

まぶたの裏で、知らない涙が頬を伝っていた。




***




光の残響が消えたはずなのに、視界の奥に、まだ“何か”が残っていた。

焦げた金属の匂い。爆ぜる火花。

装甲の継ぎ目から赤い液体が漏れ出している。


――戦場。


黒色の機体が、煙を引きながら墜ちていく。

その中で、誰かが咳き込み、必死に操縦桿を握っていた。


「……キタガワさん……っ」


聞こえた声。それは若い男の、震える声。

ルシアは知らないはずなのに、その名を、知っていた。


――テラダ。


砕け散る装甲の向こうに、彼女自身が立っていた。

風に髪をなびかせ、静かに右手を掲げている。

指先から漏れる光が、ゆっくりと空を渡る。


一瞬だけ、世界の色が反転した。


「――生きなさい」


その声と同時に、テラダの胸に赤い紋が浮かび上がる。

焦げつくような痛み。

だが、その痛みが命を繋いだ。


周囲の爆発が遠ざかり、音が消えていく。

光が再び砕けて――ルシアは自分の部屋に戻っていた。


息が浅い。手が震える。

いま見たのは、記憶か、幻か。

だが、確かに感じた。あの瞬間、自分は時間を越えて干渉していた。


「……これは、テラダさんに聖痕を残した過去――?」


ルシアは唇を噛む。

それは救いだったのか、それとも呪いだったのか。

胸の奥の聖痕が、まだ微かに疼いていた。



***



真っ暗な宇宙空間で、警告音が耳を裂いた。

計器は真っ赤に点滅し、油圧が限界を振り切っている。

操縦桿はもはや重りのように動かない。


「くそっ、制御が……っ」


機体が大きく傾き、視界がぐらりと揺れる。

眼前に広がるのは、燃え尽きた多くの機体の残骸。

仲間の通信はもう途絶えている。

ここにいるのは、自分ひとり――。


「……まだ、キタガワさんの為にも死ぬわけには……」


震える手でスイッチを叩く。応えはない。

機体が悲鳴を上げるように軋む。

焦げた金属の臭いと、血の味。


意識が霞み始めた、その時だった。


時間が、一瞬止まった。

音が消え、光が滲む。


代わりに、目の前に“誰か”が立っていた。

白い服の女。

髪が、風もないのに揺れている。

彼女は静かに右手を伸ばした。

その指先が、炎の中でも淡く光って見えた。


――幻覚か?


そう思う間もなく、光が胸を貫いた。


「――生きなさい」


声が響く。柔らかいのに、命令のような響きだった。


途端に全身が熱を帯び、心臓が激しく脈を打ち始める。

焦げつくような熱。

けれど、その痛みが確かに生を引き戻していた。


周囲の景色が再び動き出す。

計器が回復し、機体の姿勢がわずかに安定する。


どうして――?


胸を押さえると、そこに赤く光る紋があった。

焦げ跡のようでいて、どこか呼吸している。


「……これは……」


外では、まだ戦闘が続いていた。

けれどテラダにはもう、砲火の音が遠くに聞こえるだけだった。


光の中に見えた女の姿。

あれが誰なのかもわからない。

だが、なぜか確信していた。


――あれは、“過去”ではない。

――“これから”出会う誰かだ。


そう思った瞬間、機体は再び加速を取り戻した。

テラダはスロットルを押し込み、灼けた宙へと、もう一度跳んだ。



***




光が砕けた。

その破片が静かに散り、現実が形を取り戻していく。


冷たい床の感触。

壁の陰に落ちる灯り。


――戻った。


ルシアは呼吸を忘れたまま立ち尽くしていた。

視界の奥に、まだ残光が揺らめいている。

その光の中に、若い男の顔が浮かんで消えた。


「……テラダさん」


口にした瞬間、胸が締めつけられる。

あれは幻ではない。

彼の初陣――自分が聖痕を与えた“その瞬間”だった。


聖痕を通じて、彼の命を引き戻した。

それは同時に、彼の時間に介入したということ。


ルシアは机に手をつき、肩で息をする。

指先が微かに震えている。


「どうして……私は……」


あの時の自分は確かに、意識して干渉したわけではなかった。

だが、結果として彼の運命を“選び取ってしまった”。


――生きなさい。


あの声は、過去の自分のもの。

けれど、今の自分にはもう言えない言葉だった。


「あれが救いだなんて……言えない……」


テラダの胸に刻まれた紋。

その痛みを、彼は今も抱えている。

それが自分の手によるものだと思うと、

胸の奥の聖痕が微かに疼いた。


彼に会うたびに感じていた違和感。

言葉にできなかった距離の近さ。

それは――時間の奥で、すでに繋がっていたから。


ルシアは両手で顔を覆った。

涙ではない。

けれど、頬を伝うものが確かにあった。


「……テラダさん。あなたの“生”を奪ったのは、

 私…」


その言葉は誰にも届かない。


聖痕の輝きはすでに消えていたが、

代わりに、胸の奥でひとつの拍動がまだ続いていた。


それは、彼の鼓動。そして、罪の証。


空気がひときわ重くなった。

ルシアの身体が、唐突に軋むように硬直する。

胸の奥で、聖痕が熱を帯びた。


――誰かが呼んでいる。


頭の中に、低い波動のような“声”が流れ込んでくる。

それは言葉ではない。

もっと原始的な、意志の波。


「……誰?」


次の瞬間、視界の端が黒く歪んだ。

空間が呼吸を始める。

壁も、床も、音も――ゆっくりと“彼方”へ引かれていく。


呼びかけは強まっていた。

聖痕が共鳴し、脈打つたびに、彼女の意識は外側へと引き剝がされていく。


――応えるな。


そう思うほどに、波は深く染み込んでくる。




***




同じ頃、観測室。


アカリは制御卓に張りついたまま、モニタの波形を凝視していた。

ひとつの異常信号が、まるで生き物のように脈動している。


「……このパターン……どこかで……」


解析プログラムが波を分解し、複数の層を重ね合わせる。

ノイズの奥から浮かび上がった、独特の波形。

滑らかながら、周期の一部がわずかに乱れている。


アカリは息を呑んだ。

記憶の底にこびりついていた、ひとつの映像が蘇る。


焦げついた機体。

父の叫び。

そして、戦場の空間に現れた光の痕。


――あの時、観測ログに残っていた波形と、同じ。


アカリの指が止まる。


「……ありえない。だって、これは――」


戦場の悪夢の象徴。

父を奪った存在。

その波が、今、この基地の内部から発信されている。


アカリは唇を噛み、画面を閉じた。

だが、モニタの裏側では、波形がなおも動いていた。


聖痕の呼び声は、誰にも止められないまま、

さらに深い層で共鳴を続けていた。


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