Rd.18 制御下のステアリング
ピットロードの信号が青に変わる。
車列は音もなく滑り出す。ステアリングを握る手の感触。
ペダルに伝わる微細な反力。
エンジンの振動が体に伝わるわずかな振動のひとつひとつ。
チハヤはそれを全て意識下に置きながら、同時に無意識に身を任せていた。
――あの音だ。
低く、規則正しい機械の駆動音。
白い粒子の揺らぎが視界に重なり、金属の匂いが鼻腔をかすめる。
脳裏にはレースの景色ではなく、無機質な白い実験室の風景が浮かぶ。
冷たい床。無数の計測器。絡み合ったケーブル。背中に張り付くセンサーの感覚。
それらはすべて、感覚としてだけではなく、
思考の一部としてチハヤの中に存在していた。
加速。ブレーキ。ハンドルを切る角度。
タイヤが路面を掴む感触の微細な変化。
彼の体はすでに、数値として覚えた“完璧な反応”を再生していた。
しかしその完璧さは、同時に異様な静寂を生む。
風切り音も、排気音も、タイヤの摩擦音も、すべてが整理され、
秩序立った音の連なりに変わる。ノイズは存在しない。
世界全体が、彼の計算に従って呼吸しているかのようだ。
視界の端、ハイドウの車列が並走する。無意識にその動きを追う。
スムーズな操作。寸分の狂いもないライン取り。
ブレーキ、アクセル、ステアリングの微細な動作すべてが、理論通りに動いている。
彼の目は追うだけで、体は自然にそれに呼応する。
だが、心の奥底では、ざらつく違和感が生まれる。
――俺は、誰のために走っているのだろう。
中盤、ハイドウがピットインする。
チハヤは自然に座席に腰を下ろし、ステアリングを握る。
手の感触、指先の圧力。
すべては覚えた通りに、過不足なく、瞬時に演算される。
「了解、ハイドウさん」
わずかに遅れて響く声。その遅延の中に、実験室の光景が差し込む。
白い部屋。センサー。繰り返される計測。光に映る自分の動き。
あの残像が、まるで重力のように胸の奥に落ちる。
「チハヤ、2コーナー進入は慎重にな」
「了解……大丈夫、ハイドウさん」
声は平穏だ。
しかし平穏というより、感情が抑制された“予定調和”の声だ。
心拍は一定、呼吸も演算の一部のように整えられる。
コーナーを抜ける度に、ブレーキの角度とタイヤのグリップが正確に一致する。
予測ではない。再生される完璧な動き。
――俺は、本当に走っているのか。
――それとも、誰かに演算された動きを、なぞらされているだけなのか。
ライン取り、速度、ブレーキの踏力、アクセルのリリース。
すべてが演算の結果として、体を通して再現される。
人間らしい判断や迷い、呼吸の変化は、計測され、抑制される。
意識の奥で、誰かの指令が、無言で操作を支配しているような感覚が、チハヤを圧迫する。
――これは俺の体だ。
――でも、俺の意思ではない。
コーナーを抜けるたび、実験室の映像が断片的に重なる。
背中のセンサー、光の粒子、何度も繰り返された反応実験――
それは脳の奥底に刻まれ、呼吸と同期する。意識を集中させればさせるほど、
現実のレースの感覚は遠のき、冷たく整ったデータだけが残る。
手の中のステアリングが、まるで他人の神経の延長のように感じられる瞬間がある。
アクセルの踏力、ブレーキの制御、ステアリングの角度。
それらすべてが、計算された偶然のように正確だ。
しかし偶然ではない。意図された完璧さ。
アカリが背後で追走する影、ダイキの孤独な走行、
テラダとイナガキの息の合ったリズム、ミナモとキョウスケの連携。
すべては存在しているのに、チハヤの周囲だけが異なる次元にいるように感じられる。
世界の時間が、彼だけに合わせて微調整されているかのようだ。
――風の音すら整列している。
――世界が、静かすぎる。
最終ラップ。
ブレーキの圧、加速の立ち上がり、ハンドル操作の一つひとつ――
どれも完璧に再生される。しかしその正確さの裏で、
チハヤの心の奥では微かな震えが生まれる。
――俺は、誰のものでもない。
――俺は、ここにいる。
微かにステアリングが揺れる。計算の狂い。僅かに混ざるノイズ。
その瞬間だけ、チハヤの中に“人間の誤差”が戻る。
自分が自分として存在していることを、ほんの一瞬、感じることができる。
だが次の瞬間にはまた完璧な動きに戻る
残光が瞳に滲み、宙に浮くようにゴールラインを駆け抜ける。
歓声、閃光。だがチハヤには届かない。
車を降りても、無表情のままピットへ歩を進める。
周囲の喧騒は遠く、白い光と粒子、記録だけが現実として存在する。
心の奥で、誰かの声が繰り返し再生される。
――制御、成功。
チハヤは何も言わず、空を見上げる。瞳の奥で微かな残光が揺れる。
冷たい光に触れながら、胸の奥で問いかける。
――これは本当に、俺なのか。
――誰の意思で動かされているのか。
――俺の意思とは、何なのか。
微かな残光が視界に映り込み、心臓の鼓動と共鳴する。
その瞬間、チハヤは自分の体を“自分のもの”として感じる。
演算ではなく、感覚として、わずかな誤差の中で、揺れる感情が戻ってくる。
冷たさと熱。秩序と混沌。完璧と不完全。
――まだ、終わっていない。
彼の瞳に揺れる残光は、白い実験室と現実のコースを交錯させる。
計算の網の目をくぐり抜け、まだ見ぬ軌跡へと、意識は向かう。
完璧であることを強いられる世界の中で、
チハヤは微かに“自分らしさ”を取り戻そうとしていた。




