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Rd.17 誰も知らない最終ラップ


ピットロードの信号が青に変わる。

車列が音もなく滑り出し、ミナモはステアリングを握りしめた。

緊張と集中が、熱と冷たさを同時に帯びて体を満たす。

ピット内のキョウスケが無線を開く。


「ミナモ、スタート決まったな。焦るなよ」

「わかってる……でも、心臓が暴れそう」


視界の端で、ハイドウの車列が並走している。

チハヤは滑らかすぎる操作でコーナーを抜け、

アクセルワークも寸分の狂いがない。

ハイドウは無意識にその動きを目で追い、

胸の奥に冷たいざらつきを感じた。


――音が、整いすぎている。


タイヤの摩擦、風切り、排気音。

通常なら混ざり合うはずのそれらが、チハヤの車の周囲では異様なまでに秩序立っていた。

まるで世界が、彼の精度に合わせて“整列”しているように。

中盤、チハヤと交代していたハイドウがピットイン。

交代するチハヤは、座席に吸い込まれるように収まる。

レース前からそこにいたかのように自然な手つきでステアリングを握り、短く答えた。

「了解、ハイドウさん」


その声には、わずかな“遅延”があった。

応答のテンポが、どこか“計算されている”。

ハイドウの脳裏に、あの実験室の残光がよみがえる。

粒子の光が、チハヤの瞳に一瞬、反射した。

他チームの無線越しにも届かない奇妙な音質。

その“間”に、ハイドウはぞっとする。

まるで人ではなく、何かが人を真似て喋っているようだった。

一方、ミナモはキョウスケとの交代タイミングを見計らいながら集中を深める。

後方からアカリとダイキが迫り、マキタは単独で冷静にラップを重ねている。

テラダはイナガキと息の合った操作でタイムを刻み、

互いの小さな呼吸まで無線越しに伝わる。

ハイドウの視線はチハヤに釘付けだった。

ハンドルを操る手、ペダルを踏み込む足、そのどれもが“生きた計算”のようだ。

人間のミスではなく、完璧な演算。


「チハヤ、2コーナー進入は慎重にな」

「了解……大丈夫、ハイドウさん」


返答の声は穏やかだが、温度がない。

操作は人の領域をはるかに超え、冷たく滑っていく。

アカリは心の中で呟いた。

(……まるで人間じゃない……)

レースは中盤を過ぎ、コースは狭いシケインと高速コーナーの連続。

ミナモはタイヤのグリップ、路面の凹凸、風圧――すべてを掌で感じ取っていた。

息を荒げず、心拍を制御する。

キョウスケの指示が届く。


「次のコーナー、ラインを外すな。前も注意しろ」

「了解……慎重に行く」


背後にアカリの影。さらにダイキが追い上げる。

アクセルとブレーキを繊細に操り、ギリギリのラインを維持する。

冷たい汗が掌を滑る。

しかし、チハヤの車だけは別の次元で走っていた。

旋回、立ち上がり、すべてが異常な精度。

タイヤが滑る瞬間すら制御され、誤差は存在しない。

ハイドウはその走りを見て、胸が冷たく締まるのを感じた。

無線越しの声に感情はなく、抑揚のない遅延だけが残る。

彼の中で“人間としてのチハヤ”が音を立てて崩れていった。

孤独な走りを続けるダイキは、己の判断だけでコースを読む。

アカリは精密なチハヤの動きに圧倒されながら、唇を噛み締めていた。


(……設計された動き。どうして、そんなことが……)


テラダと交代したイナガキは正確な連携を保ち、

マキタは冷静に最適ラインを選び続ける。

だが、どのチームも“彼”の精度には届かない。

最終ラップ。

チハヤの車は完璧な軌跡で前を走る。

ハイドウが呼びかける。

「チハヤ、聞こえるか?」

「……了解」

その短い返答が、まるで録音の再生のように響いた。

コーナーを抜けるたび、瞳に光が瞬く。

ハイドウの背筋に、氷の刃のような恐怖が走る。

チハヤの車は、地面を滑るというより――浮いていた。

人間には不可能なラインで、ブレーキもアクセルも完璧。

やがて、誰よりも正確に、無音のままゴールを通過する。

歓声が沸く。

だがハイドウの世界には、音がなかった。

ピットへ戻るチハヤは無表情のままヘルメットを外す。

観客の喧騒が遠のき、残光が瞳に灯る。

ハイドウの脳裏に、あの実験室の光が重なる。

――粒子の残光、計測された指先、遅延する声。

すべてが、あの“実験”の延長線上にある。

ハイドウはステアリングを握り締めた。

冷たい汗が皮を伝う。

ミナモとキョウスケが安堵の表情を交わす中、

ハイドウの視線だけがチハヤを追っていた。

(……俺の知るチハヤじゃない……)

観客の歓声が霞む。

チハヤは淡々と歩き、誰の声にも反応しない。

その足取りすら、プログラムされた軌跡のようだった。

「……どうして、こんなことが――」

声にならない言葉がこぼれる。

周囲のレーサーたちもまた、彼の異常さを悟っていた。

アカリは息を呑み、ダイキは無言で肩を強張らせる。

テラダも、視線を逸らせなかった。

ハイドウの頭の中で、あの光景が再生される。

2コーナー、3コーナー――

空気を読むように走るチハヤ。

風も路面も、まるで彼の一部だった。

声と動きが、わずかにズレている。

だがそのズレすら、計算に見える。

それが人間と機械の境界を曖昧にし、ハイドウの理性を蝕んでいく。


「……あれはもう、チハヤじゃない……」


静かに呟く。

ミナモが肩に手を置くが、温もりは届かない。

ハイドウの瞳に映るのは、無表情のチハヤだけだった。

――チハヤを、取り戻さなければならない。

そう思った瞬間、喉が乾いた。

“取り戻す”とは何を? 肉体か、意識か、それとも――。

その迷いが、胸の奥でかすかに震えた。

チハヤはふと、ヘルメットを持つ手を止める。

視界の端で光が瞬いた。

それは、まるで“誰かに観測されている記憶”を模倣するような、

不自然な残光だった。

――そして、物語の外側から、誰かがその瞬間を見ていた。


そして彼の意識は、白い実験室の奥へと沈んでいく。

冷たい金属の光、繰り返された試行。

削ぎ落とされていく感情と、人間らしさ。

――自分は誰の意思で動いているのか。

問いは答えを持たないまま、残光の中に消えた。



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