Rd.16 視線の向こう側
あの実験室で起こった出来事から、チハヤの様子は微かに変わった。
変化と呼ぶにはあまりに静かで、けれど確実に“何か”が異なっている。
それは、声の高さでも、言葉の選び方でもない。
――彼の中に流れる時間そのものが、
どこか他のものにすり替わったような、そんな違和感だった。
ほんの一拍、呼吸が遅れる。
視線を合わせたとき、そこに映っているものがわずかにずれている気がする。
目の奥で、別の何かが“観測している”ような冷たさ。
ハイドウはそれを言葉にできなかった。ただ、本能だけがざらりと逆立つ。
再びレースウィークが始まると、
チハヤは何事もなかったかのように現場へ戻った。
スーツのファスナーを引き上げる手つきも、
チェックリストを読む声も、すべてが規定通り――いや、
“完璧すぎた”。
ピットを出る背中には一点の迷いもない。
モニター越しに見える姿勢、コクピットに収まる所作、
その一つひとつが、まるで“理想的なチハヤ”をなぞっているかのようだった。
ファンに求められれば、いつも通り笑顔でサインを書き、軽く手を振る。
だが、ハイドウは気づいていた。
ピットライトの下で、チハヤの瞳に時折きらめく微かな残光を。
それは蛍光灯の反射ではなかった。
あの実験室で使用された、あの粒子――ステラコアの干渉波と
同じスペクトルだった。
それに気づいてから、ハイドウは無意識に彼を目で追うようになった。
休憩中のコーヒー、無線テスト、整備士との軽口。
どれも自然に見えるのに、どこか“筋書き通り”の会話だった。
彼の声には、わずかな遅延があった。
まるで言葉を選ぶ“演算”の過程が一瞬、彼の中を通過しているように。
報告書に並ぶ数字の列を見つめながら、ハイドウは無意識にペンを落とした。
乾いた音が、深夜のピットに小さく響く。
耳の奥で、あの日の実験室の音が蘇る。
白い光、波紋のような電子音。
そして、チハヤが最後に見上げた“視線の先”――
それが誰のものだったのか、ハイドウは未だ知らない。
翌朝、ピット入りしたチハヤは、昨日と同じ微笑を浮かべていた。
整備士たちに軽く会釈し、工具の音の中をすり抜けるように歩く。
その歩幅も、呼吸のリズムも、まるで完璧な模倣。
けれど、足音だけが――ほんの僅かに、地面から浮いていた。
ハイドウは、その微かな浮遊音を聞いた瞬間、
胸の奥に冷たい針を刺されたような感覚を覚えた。
彼の中の“何か”が、もう人の領域を超え始めている――
そんな予感だけが、曖昧な朝靄のようにピットを包んでいた。
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「ルシアもアンバサダー姿、すっかり板についたね」
決勝レース前のイベント控え室。
レーシングスーツのミナモはミナモは
チームアンバサダー服――ブーツにミニスカートという
地上レース仕様の衣装に身を包んだルシアと合流した。
「ちょっとミナモ、今の私は“ヒカリ”って言ってくれなきゃ!」
ルシアは小声で注意するが、その声色にはどこか楽しげな響きが混じっている。
地上でのルシアは、ミナモの従妹“ナンジョウ・ヒカリ”として過ごしている。
アップスタイルにまとめた髪が光を受け、柔らかく揺れる。
開幕戦でサプライズ登場して以来、思いのほか人気が高く、
そのままチームの公式アンバサダーの一人として登録されることになった。
ミナモは苦笑する。
インタビューの受け答えでは時々ヒヤリとする場面もあるが、
その“ズレ”が逆に好感を呼び、
今ではファンの間で“天然ヒカリ”として愛されていた。
ルシア本人も、この衣装が案外気に入っているらしく、
昨日は家の鏡の前で何度もくるくると回り、
ミニスカートの裾を摘んでポーズを取る姿は、
まるで地球の少女そのものだった。
――こんな女の子が、星を滅ぼす力を持つ存在だなんて。
ミナモはふと、胸の奥で冷たい影が揺れるのを感じた。
その影は、いつもより少しだけ長く、
イベント会場の照明の下でも、彼女の足元に離れず寄り添っていた。
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その日の午後。
決勝を控えたパドックはざわめきに包まれていた。
スタッフたちが慌ただしく動き、モニターには各車のデータが並ぶ。
その中で、ハイドウは整備エリアの奥、計器の光をぼんやり見つめていた。
気づけば――視界の端に、ひとりの影が立っている。
「……珍しいな。あんたがこんなとこ来るなんて。」
レイだった。
ヘルメットを片手に下げたまま、無言でこちらを見ている。
その瞳は、以前より少しだけ深い色をしていた。
まるで水面の下に、別の誰かが潜んでいるかのように。
「ねぇ、ハイドウさん」
短く名を呼ぶ声。
静かなのに、どこかに“別の声”が重なっているように聞こえた。
「もし――“誰かの中身”が、形をしたまま入れ替わってたら、
ハイドウさんなら気づけると思う?」
ハイドウは眉をひそめる。
問いの意味がわからなかった。
だがレイの視線は、どこか遠く、冷たいものを見ていた。
「……なんの話だ?」
「いや、ちょっとした想像。」
そう言って、レイは薄く笑う。
けれどその笑みの端には、チハヤと同じ、機械的な精度があった。
沈黙。
空気の中で、電子機器の微かなノイズが混じる。
それが、レイの声と一瞬重なったように思えた。
「……あいつ(チハヤ)、最近どう?」
「変わらない。けど……何かが違う。」
「そう。――なら、もうすぐ分かるよ。」
その一言が、なぜか深く刺さった。
まるで“誰か別の存在”が、レイの口を借りて囁いたように。
「ねぇ、ハイドウさん。レースってさ、結局“誰が操ってるか”分からないものなんだよ。」
そう残して、彼はピットを離れていった。
残されたハイドウの掌には、冷たい汗が滲んでいた。
――“誰が操ってるか”。
その言葉が、しばらくの間、頭の奥で反響していた。
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ピットの外、日差しが差し込むパドック。
イベントを終えたミナモとヒカリ(ルシア)は、
控えスペースで軽く息を整えていた。
観客の歓声が遠くで波のように響き、太陽の光が床に影を作る。
「ふぅ……やっぱ地上のイベントって緊張するね」
ミナモが笑うと、ヒカリは小さくうなずいた。
「でも、今日は上手くいったよ。ちゃんと笑えてた」
「えへへ、ありがと」
二人の笑い声に、しばしの平穏が戻った――そのとき。
「いい雰囲気ですね。」
背後から、低い声がした。
振り向くと、そこにレイが立っていた。
日差しの逆光の中で、顔の半分が影に沈んでいる。
「……レイくん?」
「お疲れさま。アンバサダーってのも、大変だね。」
言葉は穏やかだった。だが、その目には笑いがなかった。
ミナモの背筋に、わずかな冷気が走る。
「そういえば――ヒカリちゃん、だったっけ?」
レイの視線が、ルシアにゆっくりと向けられた。
「うまく“人のふり”、できてるみたいだね。」
その一言に、ルシアの瞳が一瞬揺れた。
「……なに、それ」
「いや、別に。褒めてるんだよ。」
レイは微笑んだ。けれどその笑みは、温度を持たないようだった。
「みんな、誰かのために“演じて”る。
本当の自分を隠して、与えられた名前で生きてる。
――でも、もしそれが全部、”誰かの記録の再生”だったら?」
「レイ、何を言ってるの?」
ミナモが眉を寄せる。
その声には戸惑いが混じっていた。
「いや、ちょっとした哲学だよ。
……“チハヤ”にも、もうすぐ分かる。
彼が見てる世界は、ほんの一部だから。」
その名が出た瞬間、ルシアの表情が固まった。
空気が凍りつく。
ミナモは思わず一歩前に出る。
「チハヤくんに、何をしたの?」
レイは答えなかった。
代わりに、ゆっくりと二人に視線を向けた。
その瞳の奥で、何かが瞬き――まるで別の人格が覗き込んだようだった。
「彼は“もう一人の俺”だよ。
……そして、俺たちは“あの人”の夢の中で動いてる。」
「“あの人”?」
誰とは言わなかった。
けれど、その一言の響きには明らかに別の意識が滲んでいた。
数秒の沈黙。
外ではスタッフの笑い声が響いているのに、
この一角だけが異世界のように静かだった。
レイはふと、ミナモに近づいた。
その距離、わずか数十センチ。
「ナンジョウさん。もし、誰かを“守りたい”なら、決勝中――”後ろを見るな”」
「え?」
「見た瞬間、全部、壊れる。」
そう囁くと、レイは何事もなかったかのように背を向け、光の中に消えた。
彼の足音は、途中でふっと途切れた。
まるで空気に溶けたように。
ミナモとルシアはしばらく言葉を失ったまま立ち尽くしていた。
どちらも、さっき聞いた言葉の意味を理解できない。
けれど――
胸の奥のどこかで、確かに“何か”が目を覚まし始めていた。




