Rd.12 コールド・パス・ウォーニング
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ワシトミに呼ばれたハイドウは、艦内の薄暗い通路に足を踏み入れた。
照明は最低限しか点いておらず、壁に反射する冷たい光が
ここがただの廊下ではないことを告げている。
次の瞬間、ワシトミの大きな手が、がっしりとハイドウの腕を掴んだ。
その力は、逃げ場を与えない鉄の枷のように重い。
「なぁ…ハイドウ。お前、何考えてる?」
低く響く声に、押し殺した苛立ちと、抑えきれない焦燥が滲んでいた。
「ワシトミさんには関係ないでしょ?――っ!」
腕を振りほどこうとした瞬間、掴む力はさらに強まり、骨に響く痛みが走る。
「俺には関係ある。いや、関係なきゃいけんのや」
ワシトミの目が鋭く光る。
「お前が色々、まだ裏で何かしてるのは知ってる…マキタに何かしたのもお前やろ?」
ハイドウの胸が一瞬だけ詰まる。
図星を突かれた反応を見逃さず、
ワシトミは「もう、やめとけ」と、声を潜めて続けた。
「ここは外部完全非公開の機密の場所や。お前の行動は、この艦隊の規律を破ることになる」
その言葉は、単なる説教ではなかった。
むしろ“警告”だった。
「……」
ハイドウは無言のまま、唇を噛みしめる。
ワシトミは一拍置き、さらに深く踏み込む。
「……あの時、イナガキが情報操作しとらんかったら、お前はあいつらにレース中で殺されてもおかしくなかったんやぞ!」
声が低く唸るように響く。
思い出すだけで背筋に冷気が走るあの一件――。
「テラダの暴走は、お前が同じチームメイトだった頃から何度かあった。その件に関して、マキタと裏で情報交換をしていたのを、治安部隊に嗅ぎつけられたんやろ」
ハイドウの胸に、過去の光景がよぎる。
制御を失ったテラダのマシン。
あわや大惨事になりかけたあの瞬間。
そして、マキタの必死の目。
「……」
「危うくパイロット――チームシートを降ろされる所を、イナガキの情報操作で何とか疑いは消えた。だが、お前がまた動き出せば、次は助けられんぞ」
ワシトミの言葉は重く、冷酷な現実を叩きつける。
「治安部隊に睨まれたら最後や。規律を守らなかったパイロットドライバーは――」
そこでワシトミは息を呑み、声をさらに低く絞った。
「――レース中にマシンに細工をされ、『見せしめ』としてクラッシュさせられる。あるいは、最悪口封じとして処分される」
艦内に漂う沈黙は、まるで凍り付く空気のようだった。
ハイドウは沈黙を保ったまま、ただ強く歯を食いしばる。
その奥で燃える決意を、隠そうともせず。
「お前は一体、何を掴もうとしているんや」
ワシトミは問い詰めるように言葉を重ねる。
「ダイキの兄と同じや。無茶しすぎなんや。あいつも“真実”に近づこうとして、危うい橋を渡った。……結果、どうなったかはお前も知っとるやろ」
重苦しい名前が出された瞬間、ハイドウの胸に鋭い痛みが走った。
だが、その痛みすら、彼にとっては後戻りを許さぬ証のようだった。
「……離してください」
ようやくハイドウは声を絞り出す。
顔を上げ、まっすぐにワシトミを見据えた。
その瞳には、揺るぎない執念が宿っていた。
「俺は、大丈夫ですから。ただ……真実を知る必要があるんです」
決意の言葉が、かすかに震えて艦内に響いた。
ワシトミは拳を震わせた。
「今は動くな。明日の出撃を終えるまでは、大人しくしておけ。もし何かあれば、その情報は……お前が死ぬためのトリガーにしかならん」
「離してください」
再び同じ言葉を返すハイドウ。
その声には迷いがない。
――もはや、止めることはできない。
ワシトミは、そう悟らざるを得なかった。
ワシトミは最後まで腕を掴んだまま、何度も言葉を探すように沈黙した。
やがて、重たく息を吐き出すと、ようやくその手を離す。
「……お前は頑固やな。ほんま、ダイキの兄とおんなじや」
それだけ残し、ワシトミは背を向けて歩き去っていった。
足音が遠ざかり、通路に再び静寂が戻る。
照明の青白い光だけが、冷たくハイドウを照らしていた。
残されたハイドウは、その場に立ち尽くす。
振りほどかれた腕には、まだ鈍い痛みが残っていた。
まるで「今すぐ止まれ」と刻まれた烙印のように。
――わかってる。
ワシトミの言葉が、嘘でも脅しでもないことは理解していた。
治安部隊に狙われるという意味。
規律を破った者がどういう末路を辿るか。
それは十分すぎるほど知っている。
過去に失われた仲間の姿が脳裏をよぎる。
叫び、炎に包まれるマシン。
レース中の突発的なクラッシュに見せかけた、あからさまな処分。
「……大丈夫、なわけないよな」
誰にも聞かせるつもりのない言葉が、口から漏れた。
恐怖はある。
命を失うかもしれない未来のイメージは、はっきりと脳裏を焼いている。
それでも――ハイドウの心を縛るものは、恐怖ではなかった。
「……知りたいんだ」
強く握った拳が震えていた。
ダイキの兄が何を追い、何を掴もうとしていたのか。
その果てに何を見て、何を失ったのか。
ワシトミの言葉を振り払うように、ハイドウは背を向けて歩き出した。
通路の先に見えるのは、自室へと続く無機質な扉。
だがその扉の向こうで眠れるのは、安らぎではなく、
明日を生き残るためのわずかな休息にすぎない。
ワシトミの足音が遠ざかり、通路には再び静寂が戻る。
掴まれていた腕の痛みをさすりながら、ハイドウは壁に背を預け、息を吐いた。
「……ダイキの兄、か」
ワシトミが口にしたその名が、心に重く響く。
――無茶をしすぎたパイロット。
だが、ハイドウにとっては「真実に踏み込んだ男」でもあった。
当時、ダイキの兄は治安部隊や艦隊の規律をものともせず、
レースの裏に潜む闇を追いかけた。
危険は承知の上で、仲間やマシンの記録を独自に調べ続けた。
何度も処分寸前まで追い込まれ、
レース中のクラッシュに見せかけて命を奪われそうになった。
だが、最終的に彼は生き延びた。
――ダイキの父が裏で手を回し、
別の艦隊、別カテゴリーのレースへと“逃がした”からだ。
「……あの時、あの人が居なかったら……」
助かったのは事実。
だが同時に、それは“追放”にも近い形だった。
生き残る代わりに、同じ場所では走れなくなった。
いま、ダイキの兄は遠い別の舞台で走っている。
それは命を繋いだ結果であり、同時にすべてを捨てた選択でもあった。
ハイドウは目を閉じる。
――あいつの背中。
泥にまみれ、罵声を浴びても、それでも走り続ける姿。
そこには恐怖よりも強い「真実を掴む意志」があった。
「俺は……逃げない」
小さな声で呟く。
ワシトミの言葉は正しい。
規律を破れば、待つのは処分か、表向きの事故死だ。
だが、ダイキの兄が命を繋いででもなお追い続けた“真実”を、自分も見たい。
それが愚かだと笑われても構わない。
――明日を越えた先にこそ、その答えがある。
ハイドウは静かに立ち上がり、通路の先へと歩き出した。
その背中には、恐怖を押し殺した固い決意が宿っていた。
ワシトミの足音が消え、通路は再び冷たい静寂に包まれる。
ハイドウは腕をさすりながら、ふと遠い記憶に囚われた。
――ダイキの兄。
ワシトミが口にした名は、ハイドウにとっても忘れられない同期の名だった。
同じ時期に訓練を受け、同じ夢を語り合い、同じシートを競い合った。
不器用で直線的、だが底知れぬ執念を持つ男。
教官や上層部から「問題児」とされながらも、
ハイドウにとっては唯一無二の戦友だった。
「無茶すんなよ」
そう声を掛けたことが何度もあった。
だが彼はいつも笑ってこう返した。
――「知りたいんだよ、俺は」
危険な調査。
禁じられた記録へのアクセス。
そして治安部隊に目を付けられたあの日。
結局、彼は艦隊に居場所を失った。
だが、ダイキの父が裏で手を回し、
別の艦隊、別のカテゴリーへと移されたことで、命だけは繋がった。
それから数年後――。
ある遠征先で、ハイドウは偶然スクリーンに映る彼の姿を目にした。
別カテゴリーのレースで、堂々と走るその背中。
観客の歓声に包まれながら、彼は相変わらず無茶をし、
限界のさらに先を狙うような走りを見せていた。
懐かしさと同時に、強烈な焦燥が胸を焼いた。
――あいつはまだ“真実”を追い続けている。
自分は……何をしている?
以来、ハイドウの心に空いた穴は、埋まることがなかった。
そして今、再びその穴を埋めるかのように、
同じ道を歩き出そうとしている。
「……俺は、逃げない」
呟きは、自分自身への誓いだった。
ワシトミがどれだけ止めても、恐怖がどれだけ迫っても――。
真実を追い求めた同期の背中がある限り、自分は進まざるを得ない。
ハイドウは立ち上がり、無機質な通路の先へと歩き出した。
冷たい光に照らされた背中には、孤独な意志と決して折れぬ炎が宿っていた。




