ワンデイ・サービス
起きたからといって、トワはすぐに退院できるわけではない。
種々の検査はもちろんだが、体が弱っているので、リハビリをおこなう必要もある。
(そのあたりは、病院の人の仕事だ。……今、俺のやるべきことは)
空気をいっぱいに吸って、つぶやく。
「アルミラージュ・ムースクイーン」
「参じたぞ」
日がのぼり、暗くなった公園。その大時計の柱の影つまり明るく切り取られた場所に、アルミラがどこからともなく出現する。紫がかったパラソルを差している。
「貴様の妹御あるいは姉御は、覚醒したと見ていいな」
「……どうして言いきる」
「コトブキ、顔の綻びを隠せていないよ」
慌てて表情をほぐす俺に、アルミラは相変わらずの見下すような視線を突き刺す。
「さて約束どおり、二日後、世界を元に戻す。以降は七夕を除き、また余の好みに逆転するが。……あと最近、日付を午前零時ではなく午前十二時に変更することになったらしいな。ま、前者は明るく、後者は真っ暗になったから当然だろうて」
彼女はあごを上げ、公園に設置された時計の時刻を確かめる。
「ふむ、今は月も沈んで午前五時ちょいか」
「ちなみに姉が起きたのは、『きょう』の午後十一時少し前だ」
「では今から二回目の正午が来て日付が切り替わった瞬間に二十四時間だけ世界を戻そう」
「……アルミラ。それを始めるタイミングは日の出のときにしてもらえねーか」
ワインレッドの瞳だけで「なぜ」と問うてくる彼女に、俺は理由を説明する。
「先月、世界を急に暗くしたり明るくしたりしただろ。あれのせいで、死にかけた人間がいたことは、そっちもすでに知ってるんじゃないか。いきなり明暗を変えられたら、人の目は対応に時間がかかる。たとえば車の運転や病院での手術の最中にそれが起こったらと思うと……」
「ふむむ……確かに余も考えが足らなんだ。対して日の出の時間に通常の明暗を戻す場合は、明るさが継続するかたちとなり、混乱は最小限で済む……か」
「前のやつでは奇跡的に死傷者が出なかったみてーだが、今度はわからんぜ。それで誰か亡くなれば、確実に」
「余は刈られるだろうな……わかった、タイミングは貴様の指示に従おう。明暗も、いきなり全部を一新するのではなく、少しずつ変えたほうがよさそうだな」
そして二日後の午前四時半ごろ。
すでに月が没した空に、太陽がひょっこり顔を出す。闇を発する球体ではない。
同時に、透明な空に浮かんでいた黒っぽい星たちが、かき消える。
うっすらとした赤い朝焼けが、木々や建物に光を当てる。
俺は太陽が南中するくらいの時間帯に、妹の病室のなかに入った。
トワはベッドに腕と膝をつけ、プランクの姿勢で固まっていた。
今は看護師さんもおらず、ひとり。
「あ、コトブキ。あと二週間くらいで、わたし退院できるっぽい」
体勢を変え、片膝を立てた状態でベッドの上に座るトワ。枕に載せていたタブレット端末を手に取り、画面を操作する。見ているのは高校生用のデジタル教科書である。地球の写真が映っている。内容は地学のようだ。
「お兄ちゃん、きょうは太陽、元どおりだね。空も透明じゃなくて青いし……まぶたの裏だって、また黒くなっちゃった」
「このまま……今までの異常が全部、戻ればいいんだけどな」
病室を見渡すと、ベッドや壁などに、暗い影が生じている。俺やトワの衣服のところどころにも、淡い黒が浮かぶ。
光が無数の線となって窓から差し込む。アルミラの作り替えた世界では静かにたまっていくような明るさを感じていたが、本来の光線は、こんなに動的なものだった。
「姉さん、今夜も訪ねていい? 久しぶりに、きれいな星が見られそうだから……」
午後八時過ぎ、南の空と相対する。あの懐かしい、暗い夜空と。
許可をとって病院の屋上にのぼった。
手すりにつかまったトワは、まず月に注目した。右半分の上弦の月から少し左に張り出したかたちの、白く輝く月だった。
「コトブキ、実は月って、低いところだと黄色っぽいけど高くなるほど白くなるんだよ」
「へー、しらなかったなー。トワは、ものしりだなー」
「棒読みやめてよ、もー。知ってたな、このー」
二人で、緩く笑って会話する。
月の次は、まわりの暗闇に広がる星に目を移す。
雲もあり、あまりはっきり見えないが、たぶん一年前よりは、多くの星が映っている。
地上の建物から漏れる光は多い。
ただ……久しぶりに元の夜空が帰ってきたからだろうか。余計なあかりが少ない気もする。
(みんな、懐かしんで、必要以上に電気をつけるのを自重しているのかも……)
紫がかった黒い天球から、ぽつりぽつりと星の光がふる。
ぼやけたみたいにまたたく白色。……青……金色……星座の有無はわからない。
「見て! 見てみて、コトブキ……お兄ちゃん! アンタレスアンタレス!」
トワが、右手の人差し指をやや左に向け、ひときわ赤い星を示す。
俺は何回もまばたきをくりかえして、その一等星に視線をとどめる。
「明るいな……」
「で、ちょっと顔も上げてみて」
テンションを上げすぎていることに気づいたのか、トワはさきほどまでの無邪気な妹モードを捨て、落ち着いた姉モードに移行する。ハスキーボイスを喉から出す。
「あのオレンジ色の星がアークトゥルスね」
「えーっと……青っぽいのがスピカで、その上らへんにあるやつがアークトゥルスだっけか。俺にはオレンジというよりは白に見えるけど……」
「……ところでコトブキ、知ってる? アークトゥルスとスピカは『めおとぼし』って言うんだよ。夫婦の星って書いて『めおとぼし』……」
「え? それは『おりひめ』と『ひこぼし』じゃないの」
「ベガとアルタイル……今も東の空に浮かんでるね。そのひと組も『めおとぼし』で合ってるよ。アークトゥルスとスピカを『めおとぼし』とみとめない人もいるかもしれないけれど……なんにせよ夜空のカップルは、一つ以上あってもいいと思わない?」
「まあ、おりひめとひこぼしが恋愛するなら、ほかの星だってそんくらいやりそうなもんだ」
「だけど、スピカとアークトゥルスは」
ここで一瞬だけ風が吹いた。
天上を見つめるトワの髪が、かすみのようにたなびいた。
「あいだに天の川がないから、いつでも会いに行けるんだよね……」