玉山トワの自然な目覚め
夏の期間には諸説がある。とはいえ七月と八月を夏に含めるのに文句をつける日本人はいないだろう。
トワが一年のうちで起きていられるのは、夏季の約三か月。
七月の初めから八月の終わりまでは、彼女の元気な姿を確実に見られる。
六月中には目覚める。ほぼ上旬に起き、九月の初めあたりにまた長い眠りに就く。
生まれつきである。一般には知られていない珍しい体質だが、確かにそんな人は実在する。なお、トワ本人は、「これを病気と呼ばないで」と言う……。
事実として、点滴などのケアをおこたらなければ、死亡や合併症のリスクはない。
俺は六月に入ってから、毎日、病室を訪ねた。たぶん五歳くらいのときだったと思うが、当時、トワから「おきたとき、いちばんにみるの、おにいちゃんの……コトブキのかおがいい」と伝えられた。だから当人が嫌そうにしない限りは、ずっとそうすることにした。
今年、トワは六月の初頭、上弦の月が浮かぶ日に目覚めた。
時刻は午後十時五十二分。太陽はすでに沈み、空が明るい。月は西にかたむいている。
「おはよう、コトブキ……お兄ちゃん」
トワのまぶたがゆっくりひらいたあと、薄い唇がぴくりと震える。
「やっぱり、自分の顔を鏡で見ているようで、安心する……」
「よく眠れた? トワ……姉さん」
「うん。夢もたくさん見たような気がする。全部、忘れちゃったけど」
ここで、まばたきを挟み、はっとする。
「でも……あれ? 変だね……」
彼女は目を十数秒間とじたのち、不安そうな表情を浮かべる。
「ごめん、お兄ちゃん。信じてくれる? わたしのまぶたの裏側が、明るいの」
「それはトワだけじゃなくて、世界じゅうの人みんなに発生している症状なんだよ」
アルミラはすべての明暗を逆転させた。まぶたによって作られる影も例外ではない。まばたきのあいだに一瞬だけ生じる景色は、まるで軽いフラッシュのよう。今年の四月から……まぶたの裏側というスクリーンには、黒ではなく白い光が映されている。
とはいえ眠れなくなる心配はない。光は柔らかく、優しい。
みとめたくないが……みんなは昼、暗くなって電気をつけて部屋のあかりを消したあと、今までどおりにまぶたのシャッターを下ろすのだ。睡魔は自然とそこに宿り、人々を安眠にいざなう。
「姉さん、世界は少し変わったよ。外を見るとわかる」
「え……わたしが寝ているあいだに、なんか天変地異でも起こったとか?」
ベッドに横になった状態で上半身を立たせようとするトワ。
妹は、約九か月間、運動をしていない。まだ言葉は流ちょうでないし、体も、かなりやせている。
しかし直後……思い出したように、ベッドに取り付けてあるスイッチを入れる。すると背中を押しつけている部分が持ち上がり、トワの上半身を起こした。続いてナースコールで看護師を呼ぶ。さらに深呼吸したのちに、緑のナイトキャップを外す。
長い髪が、ベッドに落ちる。眠っているあいだも伸び続け、今や、たぶん一・五メートルくらいある。普通は切り落とすべきなのかもしれないが、トワは、それを嫌がっている。
(だって髪だけが、自分がそのあいだも生きていたっていうあかしになるから……)
小学三年生のとき、そんなことを泣きながら言っていた。
トワは目をしばたたき、病室の窓越しに空を見る。
「コトブキ、なにあの空に浮いてる、黒っぽいの……。しかも、いっぱい……」
「信じられねーだろうが、ありゃ星だぜ。ひとまわり大きいやつが、月な。空自体は明るく、空色の定義が変わっちまうんじゃないかってくらい、透明。これが今の夜空なんだ」
それから俺は、座っていたパイプ椅子をベッドに引き寄せ、今年の四月から世界の明るさと暗さが入れ替わってしまったことを話した。
いったん空から目を離し、トワは病室やベッドのなかを確認する。最後に、俺の顔をじっと見つめる。
「陰影が、ない。まるで、そういう映像作品を鑑賞している気分だよ……。独特の世界観の映画に入り込んだみたいな……」
「今、俺たちがいる、この明るい病室も……電気をつけているんじゃなくて、電気を消している状態なんだよ」
「そうなの? ……お兄ちゃん、ちょっとだけ試してもいい?」
ベッドには、部屋の照明のオンオフを調整できるスイッチも取り付けられている。現在、そのスイッチのランプは「オフ」を示す。トワがそれを押すと、「オン」に切り替わり、同時に室内が真っ暗になった。
頭上に手をかざすトワ……。すると、下に向けた手の平から光がふる。
「これ、どういうこと」
自身の長髪の作る明るい影にも驚きつつ、トワは照明のスイッチを「オフ」に戻す。
「地球は……いや宇宙は、だいじょうぶなの?」
「そこは問題ないというのが専門家の一致した意見だな。みんなの生活リズムも安定してきたし。もちろんまだ受け入れられない人は多いが、今回の変化を歓迎しようって立場もある。一番に喜んでいるのは、どこかわかるか」
「あかりに電気代をバリバリ使っていたところ!」
「さすが、トワ。光熱費を大幅に削減できることになって、とくに二十四時間あいている店は大喜びだ。もちろん……逆に困っているところもある。たとえば自動車業界」
「……夜、いや暗くなった昼? につけるライトかな」
「そう。もはやライトは闇を照射する道具に変化した。こうなれば夜間走行もとい昼間走行は困難になる。政府は対策として、車道のところどころに屋根を設置する計画を進めている」
「あ、そっか。今まで影ができてたところが明るくなるわけだから」
「人の目に頼らない自動運転技術の普及が進めば暗所での心配もなくなるだろうけど、しばらくは運転手の視界の確保も重要だろうしな」
「だねー。……にしても、これはこれで、きれいかもね」
トワは胸に左右のこぶしを当てて、再び空に視線を移す。
「わたし、もう一つ不思議なんだけど、このあたりって、こんなに星、見えてたっけ」
「ああ、それは……」
「待った、お兄ちゃん。やっぱ自分で考える。脳のリハビリ」
ぎゅっとこぶしに力を込めて、トワがウンウンうなる。
「……えっと、元々、夜空の星が見えないのは地上に多くの光があるから。で、今回、夜が明るくなった。しかも光のスイッチは闇のそれになった。もう夜間にスイッチを押す意味は、ほぼない。だから星の闇が、かき消されることなくわたしたちの目に届く……こうでしょっ」
「そうそう、トワは頭がいいな」
俺は自然に右手を伸ばし、妹の頭をなでていた。直後、はっとなる。
「あ、ごめん。クセで。もうそんな年じゃないか、姉さんは」
「いいって」
ひっこめようとした手を、トワが左手で押さえる。
「嫌じゃないよ、むしろ……わたしに対してはセクハラじゃないから。安心するし、うれしい。コトブキ……お兄ちゃん」
このあと、トワがナースコールで呼んだ看護師が部屋に入ってきた。少し、やってくるのが遅い気がする。本当はもっと早くに来ていたのだろうが、おそらく俺とトワが会話していたから空気を読んで、病室の前でしばらく待っていたのだと思う。