あの声
ときは八月下旬。
スイーツのお店「カガリヤ」にて――。
俺は双子のトワと後輩の篝屋テルハと共に、テーブルの席に座っていた。
いろいろ話したあとで、トワが切り出す。
「ところで……わたし、みんなで海に、泳ぎに行きたいなー。二人は、どう?」
そんなトワの提案に、篝屋も俺も……うなずいた。
暖かくなるのが少し遅れたため、今年度の海開きの多くは八月にずれ込んでいた。
「――あ、それでコトブキ」
カガリヤを去り、家に帰った俺に対してトワが淡々と言葉をかける。
「アルミラちゃんと連絡とれる?」
「え……?」
俺は耳を疑った。
アルミラとは、アルミラージュ・ムースクイーンのこと……。
約二年間、世界の明暗を逆転させていた自称ヴァンパイアのことである。
彼女は今年の三月に灰になった。
とはいえ、おととしの夏にトワとアルミラは友達になっていた……。
「……姉さん、覚えてたのか。起きてからずっと、アルミラのことにふれないから……俺はてっきり」
「忘れるわけないよ。でもお兄ちゃんこそ自分からアルミラちゃんについて、なにも言わないから……なんかあったのかなと思ってた。世界が戻ったことと関係ありそうだけど」
「アルミラは……」
――「死んだ」と続けようとして、俺はためらった。
「いや、ちょっと呼んでみるわ」
俺は、あかりをつけた家の居間で、「アルミラージュ・ムースクイーン」と口にした。
すると、数秒後……。
「――余を呼んだな」
後ろから、頭のキーンとする冷たい音がした。
心なしか、幼い子どもの声に聞こえる。
しかし振り返っても、誰もいなかった。
「下を見るのだ、玉山コトブキ」
その声に従って視線を落としたところ……。
ワインレッドの瞳と目が合った。
そこに見覚えのある、青い髪の女の子がいた。
「……本来、今の余が貴様のもとに現れてやる義理はないのだがな。『アルミラージュ・ムースクイーンの名を口にしてくれれば、余はコトブキのもとに、はせつける』……そう言った記憶が忘れられんで、思わず来てしまったよ」
「アルミラ……!」
女の子は、紫がかった黒い衣装を身にまとっていた。
おまけに、人を見下すようにも見える冷たい表情で俺を見上げる。
トワのプレゼントしたペンダントは、もうないが……その姿はアルミラージュ・ムースクイーンに相違ない。
ただし今の彼女は、ミニサイズである。
身長は百二十センチほど。顔も以前より、あどけない。
「アルミラちゃん、ちっちゃくなって、どうしたの?」
そう反応したのは、俺ではなくて、もちろんトワ。
女の子は小さくなったティアードスカートの裾を持ち上げ、カーテシーをおこなう。
「お初にお目にかかるな、玉山トワ。余は――世界の明暗を入れ替え、貴様と友達になったアルミラージュ・ムースクイーンの……子どもだ」
そんな女の子の突然の告白に、トワは返答できずにいる。
冷たく幼い声は、次のように続く。
「トワと過ごした日々の記憶は親から受け継いでいる。よしなに」
「……そっか。初めましてだね」
フローリングのゆかに膝をつき、トワが柔らかく微笑する。
あのアルミラはどうなったのかと聞くこともなく……。
「お名前は」
「親と同じだ。アルミラージュ・ムースクイーン」
目線の高さを同じにしたトワに合わせて、そのアルミラがあごを引く。
「何世とか何代目とかは付けない」
「アルミラちゃん、よかったら」
あくまでトワは、ほほえみを崩さずに優しく言う。
「今度、一緒に出かけない?」
「いいぞ。海がいいな。泳ごうか」
「……うん! 最初からその計画!」
「楽しみだな」
そう口にしてアルミラは、溶けるように居間から消えた。
去り際に、小声が聞こえた。
「トワ……今の余を、さそってくれてありがとう」
元からアルミラージュ・ムースクイーンは、光から光へと瞬時に移動することができる。
これについてはトワも知っている……。
アルミラが去ったあと、トワがとびきりの笑顔を作って声をはずませる。
「コトブキ。ちっちゃなアルミラちゃんも、かわいいね。一緒に出かけることになって、わたし……うれしいよ。そうだ、海に行くメンバーが増えたってテルハちゃんに知らせなきゃ!」
そしてトワが、自分の部屋に入り、ドアをしめた。
――それから間もなくして、向こう側からトワのすすり泣きが聞こえてきた。
「お兄ちゃん……わたしがペンダントをあげたアルミラちゃんは、いなくなっちゃったんだね……世界の明暗が戻って……わたしが……目を覚ますことができたのも、そういうことなんだね……」
「……ああ。俺も初めて会ったけど、小さいあの子を残してな」
廊下側からドアに背を預け、俺は答えた。
「灰になる前に言ってたよ。『トワに……よろしくな』って」
「そのときどんな顔してた……」
「静かに、笑ってた」
「そう……」
すすり泣きの音が、小さくなっていく。
「アルミラちゃんの生きたあかしが、あの子なんだね……」
「そうとも言えるな」
「しかもコトブキとアルミラちゃんの愛の結晶でもあるんだね……」
「……断じてそれは違うからな。俺とアルミラとのあいだにあったのは『愛』なんてものじゃねーし……。それに姉さんには言ってなかったけど、アルミラージュ・ムースクイーンという『種』は自家受精をおこなう生物なんだ。普通のヴァンパイアなら血を吸って眷属を増やしそうなもんだが、アルミラにはそれができないからな。しかも暗闇で灰になるわけだから、同族のなかにも居場所がなかったんだろう……。かといって不老不死にも、なれなかった。かつ、人間とも異なる存在だった。とすれば、ひとりでいのちをつないでいくしかない。アルミラが女性の姿をしているのも、そのためじゃないかな……。そしてアルミラの子どもは、生後五年相当の状態で生まれる。ある程度成長した状態で生まないと、共倒れになる可能性があるからだろう。それで結果的に体に負担がかかって、そのあと一年もたたずに死んでしまうんだと思う。……アルミラのような種は、ほかにいない。だから世界は彼女に厳しい。そういうわけでアルミラは今までの世界を作り替えたくなったんじゃないかと……いや、彼女自身が世界を作り替えなきゃいけなかったと……俺は勝手に思ってる。……だけどアルミラージュ・ムースクイーンは、けっしてかわいそうな存在じゃない。彼女は、それを俺たちに伝えにきたのかもしれない……」
「それが、アルミラちゃん……アルミラージュ・ムースクイーン」
長々と続いた憶測だらけの俺の言葉を、トワは短くまとめてくれた。
「コトブキ。わたしたち、かけがえのない友達を持ったんだね」
「友達なんて優に超えてる」
「……うん」
ドア越しに、トワのしっとりとした声が届く。
「アルミラちゃんがどんなアルミラちゃんであったとしても、わたしたちは会えてよかったんだ」
数日後、俺とトワと篝屋は、最寄りの駅に集合した。
篝屋が来る前に、俺はアルミラージュ・ムースクイーンの名を呼んだ。
すると小さなアルミラが、明るい日なたに即出現した。
電車に乗って目的地に向かう。
篝屋とアルミラは初対面だったので、移動の途中に自己紹介を交わしていた。
――そして目的の海水浴場は、混んでいた。
俺は着替えて、砂浜に出る。
長袖でロングパンツのラッシュガードという格好である。
「貴様……おととしのプールのときも、その水着だったな。いや理由は聞かんよ」
アルミラがそう言いつつ、俺の隣に座る。
……当のアルミラの水着も、俺が前に見たものと同じだった。
上が紺で、下が白のセパレート。
ただし、スイムキャップは付けていない。
彼女の青い髪が、そのまま水着にこぼれている。
髪の下に黒い影ができているが、その程度の闇ならアルミラでも平気である。
(いくら暗闇で灰になるといっても……ある程度の耐性がないと、とっくに死滅しているだろうしな)
俺とアルミラは、パラソル付きの丸いビーチマットに腰を下ろし、残り二人の連れを見ていた。
髪をまとめたトワが、ラッシュガードを着たまま背泳ぎをする。
浮き輪に乗った篝屋テルハが、海面を漂っている。着ているのは、一般的に学校で着用するタイプの水着である。
なお二人の荷物は、俺のそばに置かれている。
「あっちいな……」
青い空に浮かぶ白色の太陽と、海から照り返す光を受けながら、俺はタオルで汗をぬぐう。
頭上にはビーチパラソルがあるものの、それの作る影だけでは、あまり暑さは軽減されない。
対して隣のアルミラは――マットの上に寝転がった。
その場所にはパラソルの影が届いていないので、直射日光が全身に当たる。
「快いな……」
まるで焼き肉みたいに、定期的に表と裏を入れ替えながら日光を浴びる。
「やはり太陽の放つ光は上物だ」
「好きだとしても……そんなに日に当たって、だいじょうぶなのかよ」
「余は日焼けせん。今は全身で日光を吸い、血肉としたい」
「あっそう。心配は要らないみてーだな」
ペットボトルをかたむけ、俺は水を飲む。
「……そういやアルミラ。変なこと聞くけど――あのアルミラは、本当に死んだのか」
「確実に死んだが。貴様が最期を見届けたのであろう。余は出産前のアルミラージュ・ムースクイーンの記憶を受け継いだ別個体・別人格のコピーにすぎん」
「まあ、言葉ではわかるんだが……全部が終わったあとで思い返すと、どうもアルミラが俺の記憶に明確にひっかかってないような気もするんだ」
「原因は、わかるか」
「現れるときも消えるときも、いつもあっさりしていたからじゃねーかな。まるで最初からそこにいて、最後までそこにいなかったかのような雰囲気がある。このせいで今の俺には、アルミラが死んだって実感が言うほどない」
「日本語の『台風一過』に近いのではないか。言い得て妙な表現だろうて」
「まあ、そんな感じかもな。それでも、あのアルミラを忘れないのは……明暗が逆転した世界が脳の奥底に焼き付いたからだろう。そういう光景をきっかけにして、アルミラの冷たい顔や声、ワインレッドの瞳……紫がかった黒い服装……青い髪といったものが頭から引っ張り出されるんだ」
俺はペットボトルに蓋をし、うつ伏せのアルミラを目に入れる。
太陽光の作る、自分の影を凝視するアルミラに気づき、俺は聞く。
「今は、光と闇を入れ替えたいと思ってたりすんの?」
「……思い出だけでいい」
アルミラが横に転がり、あお向けになる。
「電気代は面倒だが……友達が困ると確定したし、やはり光る星がきれいなのも悪くない。それに、今の余は、この余だ。あの余の望みを、自分の願いのように語るわけには、いかんよ」
そして、すーっと立ち上がる。
「コトブキ……それじゃあ泳ごうか。トワと一緒に海で泳ぐこと――都合がいいようだが、この望みだけは、あの余とこの余で共通だ。というわけで貴様も同伴してくれ」
「いや俺、荷物見てなきゃ」
「……だいじょうぶですよ、玉山せんぱい。アルミラさん」
声のしたほうに視線を向けると、いつの間にか篝屋がいた。
俺のそばのビーチマットに座り、浮き輪を片手にかかえている。
「荷物はわたしに任せてください。泥棒にも軟派にも屈しませんので、ご安心を」
「ありがとう、篝屋」
「すまんな、テルハ」
「しばらくたったら、交替ですよ……」
ふんわりとした声を耳に入れつつ、俺は篝屋にそっと笑いかけ、腰を上げる。
向こうの海面で、トワが大きく手を振っている。
「コトブキー、アルミラちゃーん! こっちで泳ごうっ! 太陽も塩水も気持ちいいよー!」




