トワ
アルミラージュ・ムースクイーンは死んだ。
世界を作り替えた元凶である、自称ヴァンパイアの彼女が灰になった。
アルミラの死に伴い――今年の三月、すべての明暗の逆転は終わった。
世界は元どおりになった。
電気をつけると部屋が暗くなり、太陽が沈めば外が明るくなる――といった異常は、すでにない。
あらゆるものの明るさと暗さが入れ替わったこの不思議な二年弱は、原因不明の現象として、永遠に……少なくとも俺・玉山コトブキが生きているあいだは、語り継がれていくことになる。
ただし昼夜が従来のものに戻っても、しばらく四季は狂ったままだった。
たとえば桜が咲いたのは、六月に入ってから。
――ちょうどその時期に、トワが目を覚ました。
俺とトワは、双子のきょうだい。
元からトワは夏にしか起きられない体質だが、世界の明暗が入れ替わった結果……永遠に目覚めず眠り続ける未来もありえた。
しかし元凶のアルミラがいなくなったことで、トワの時間は戻ってきた。
トワは病室のベッドに横たわったまま……薄い唇を震わせて、かすれた声をつないでいく。
「……まぶたの裏が、また暗くなったんだね。コトブキ……お兄ちゃん」
「トワ……姉さん」
ベッドのそばのパイプ椅子に、俺は座っていた。
自分に似た顔と、自分とは違う声にふれた瞬間、俺の目のなかから熱い液体がこぼれ落ちた。
「寝起きの気分は……?」
「ばっちり。……ところで今は何年の何月」
「それは――」
――質問に俺が答えると、トワは「わたし、一年以上眠ってたんだ……寝坊しちゃって、ごめんね」とつぶやいた。
ついで弱々しく右手を上げ、ベッドに取り付けてあるスイッチを入れるトワ……。
するとベッドの一部が背もたれのようにかたむき、トワの上半身を起こす。
いったんトワは、病室の窓に目をやった。
午前十時。外は明るい。白い太陽がのぼっている。黒い星は、どこにもない。
とはいえ今は視力が弱まっているらしく、元に戻った昼の空を見ても……トワは、まぶたをパチパチさせただけだった。
自分の手の平に視線を移す。
左右の手の平を軽く合わせ、なかに暗い影を作る。
そしてトワが、俺に寄りかかる。
左右の腕を俺の背中に回し、あごを右肩に置く。
「夢は……やっぱり見てないなあ」
姉のナイトキャップがすべり落ちる。きれいな髪が、あたりに広がる。
「でもコトブキが、ずっとわたしのそばに来てくれたことだけは、わかるよ……」
この言葉を聞いて……俺は全身をひくつかせ、泣くしかなかった。
声を上げるのだけは我慢したが、抑えようとするたびに、しゃっくりのようなものが出る。
「もうっ、しょうがない弟なんだから。普段は斜に構えているようでいて、お兄ちゃん……妹のこと好きすぎでしょ……。お姉ちゃん、心配になるよ……」
「こんなん……今だけだっての……」
「じゃあわたしも……今のうちに」
妹がどんな表情でいるかは、わからなかった。言葉の感じからして、笑顔でかすかに泣いているのだと思う。
俺はまぶたをとじて、そっと自分の両腕をトワの背中に回し返した。
長い髪を引っ張らないように、注意しながら……。
その体は、やせていて、温かかった。
次の日以降もトワは起きたままで、さっそくリハビリに取り組んでいた。
父も母も病室で笑顔を見せた。
家のなかでは、うれし涙をにじませた。
(このままトワが目覚めなければ、両親は南半球の病院を頼ろうとも思っていたらしい。確かにアルミラの世界において、南半球は従来の北半球のような四季を持っていた。世界の明暗が戻らずとも……そちらに移れば、トワが再び起きる見込みはあったかもしれない。なお、俺はその方法を考えついていなかった)
ともあれ医者の人によると、トワの体調は回復しつつあるとのこと。
トワは勉強も頑張っていた。
ひまさえあればベッドの上でタブレット端末を操作し、デジタルの教科書や参考書をチェックしている。
たまに休憩がてら、そばにいる俺に話しかける。
「すでに、お兄ちゃんは大学生だっけ。合格、おめでとう。これは……お姉ちゃんとしてのコケンを守るためにも、すぐに追いつかないとねっ!」
「まあ高校と同じで通信制の大学だけど……トワは、どこ受けるつもりなんだ」
「天文学のとこ」
「姉さん、星とか好きだもんなー」
「あと泳ぐことと、コトブキも」
「最後のは隠しとけよ……」
そんな、きょうだい同士の普通(?)の会話が続く。
しかしトワは去年一日だけ起きたときと同様、アルミラのことについて、まったくふれようとしなかった。七月七日の誕生日を迎えても、八月八日の伝統的七夕が過ぎても。
彼女の話題を出さなかったのは、俺も同じなのだが……。
七月、トワはリハビリが終わって退院したあと――。
去年行けなかった高校に通いつつ、受験勉強を進めた。
そして八月上旬には、特別枠で実施された大学入試に臨んだ。
結果は、お盆明けに発表された。
……さすがトワである。見事に合格していた。
俺の部屋に入ってきて、笑顔で合格を報告する。
トワが頭を差し出してきたので、俺は軽く……それをなでた。
「おめでとう、姉さん。お疲れ」
「ありがとー。しかし受かったけれど……わたしの受験と時期が重なったせいで、今年は七夕に行けなかったね。そういえば、去年もぐっすり寝ていたせいで……」
部屋のベッドに寝転がって、にやにやする口もとをトワが押さえる。
「あ、コトブキー。邪魔なわたしがいないあいだに、彼女と二人きりで七夕を楽しめばよかったんじゃないのー? 一緒に星を見るなんて、王道中の王道! ムードめっちゃいい感じだし、来年はそうすれば……?」
「次は必ずトワと行く」
「あちゃー、このシスコン」
トワが口もとを押さえるのをやめ、真面目な顔で起き上がる。
「……かく言うわたしもブラコンだけど!」
「つか、彼女いねーし」
わざと滑舌を曖昧にして、俺は言う。
「きょうだいを大事にして、なにが悪いんだ」
「……まわりの気持ちは知らないけれど、少なくともわたしは、うれしいよ」
いそがしい時期も過ぎたので、俺はトワを連れて外出した。
スイーツのお店「カガリヤ」に入り、注文する。
トワは「アイシー・メテオ・シャワー」を、俺は「黒い白玉団子」を頼んだ。
それらの考案者は、店主の娘の篝屋テルハ。
客に出すために父親の改良が加えられているが、俺が前に食べたものと、あまり変わらない。
「――おいしいっ! ゼリーは、ぷるぷるだし……なかのフルーツの甘さも口内に広がるよ……。ぶどうからジュースが落ちる工夫もすごいし、なにより冷たくて、夏にピッタリだね! このお店、紹介してくれて……コトブキ、ありがとね」
「お気に召しましたか、お客さま」
白いセーラー服を着た女の子が、コップ一杯のただの水を持ってテーブルのそばに立っていた。
相変わらず恐ろしいくらいに……所作も表情も、かわいらしい。
「この水は自分用です。初めまして、お姉さん」
「……こちらこそ初めまして」
「わたしは篝屋テルハと言います」
注文したものを口に運ぶ俺たち……と同じテーブルの席に着き、篝屋がゆるふわの声を出す。
元々、俺は篝屋のことを「友達だ」とウソをついてトワに紹介するつもりだったが、なぜか今は、そんな気にならない。
俺たちの関係性の説明は、篝屋に任せる。
「玉山せんぱ……コトブキせんぱいとは、高校の後輩として、しばしば会う仲です。恋人でも友達でもありませんが、コトブキせんぱいのことをわたしは慕っています。お姉さんとも親睦を深めたいです……」
「いいよっ!」
……また、そんな軽々しく。さすが、わが姉にして妹だ。
「すでにコトブキから聞いているだろうけど、あらためて。わたしは玉山トワ。コトブキの双子のきょうだい。産まれた順序をあえて両親に尋ねてないから、姉か妹かは不明なの」
「でもこちらからすれば年上なので、お姉さんと呼びたいです」
「よろしくね、テルハちゃん」
「……はい。でもわたし、そんなに心がきれいではありません」
ただの水を飲み込んだあと、静かに篝屋が言葉を継ぐ。
「嫌いになったら、いつでも切ってください」
「うん、そのときは……そうする。結びなおす可能性もあるけど」
「……お姉さんも、明るいだけじゃなさそうですね。わたしの闇を消さないなんて」
このとき篝屋の声音が、明るく、はずんだ。
どうやらトワのことも気に入ってくれたらしい。
しばし、女子二人を中心にして雑談が続く。
話をふられたときだけ答える俺とは違い、もう友達にしか見えない。
「……実はわたしがコトブキせんぱいに目をつけたのは、スクーリングの授業でせんぱいがわたしとの握手をこばんだからです。隣の席の人とレポートを作成する内容だったんですけど、授業の最初で先生が『互いに握手するように』と言ったんですね。先生にも悪意はなく、仲よくしてほしいから、そんな指示をしたんだと思います。でもせんぱいは、手を差し出すわたしに対して、『ごめん……』と返しました。せんぱいの手は、ひっこんだままでした」
「あー、それは、うちの兄が失礼を……ぷくく……」
トワが笑いをこらえている。
「ただ妹としてかばうと……コトブキはテルハちゃんが嫌だったんじゃなくて、『流れだけで握手したらセクハラにでもなるんじゃないか』と考えただけじゃないかな……」
「あ、やっぱりそうでしたか……ふふ……」
篝屋も、釣られて笑っている。
「そこからわたしは、せんぱいの罪悪感の重さを感じ取ったんです。ただ自分が普通に存在しているだけで……どこか罪を覚えるような……そんな根源的な感覚でしょうか。『やっとわたしの前にも、こんな悪人さまが現れてくれたんだ』……って、そのとき喜びました。表面だけで悪ぶったり心の底から正義をかざしたりする王子さまなんて……わたしを殺すだけだから……。自分の悪を……闇を……ハリボテの善を……光を……自然に、優しくなりすぎず……吸ってくれる人が、わたしにとっての玉山コトブキせんぱいなんです。せんぱいは、共犯者にすらなってくれない、とても心地いい存在ですよ……」
「……そうそう、それがコトブキ。うちの弟、最高でしょう! 双子バカと言われても、お姉ちゃんとして、よろしく頼むよっ!」
「……友情でも恋愛でもない気持ちでも、いいんでしょうか」
ここで篝屋が俺のほうを見たので、「いいんじゃね?」と返しておく。
「うれしいです、せんぱい。……適当に返事してくれて」
影に暗さが戻った世界で――。
まばゆい笑顔が、篝屋に咲く……。




