月影
三月二十二日、月曜日になった。
世界の明暗を入れ替えた元凶のアルミラージュ・ムースクイーンは、きょう死ぬ。
俺は砂浜に立っていた。
闇を発する太陽の、紫色の夕焼けを見た。
日の入りよりも少し前に青っぽい満月が顔を出し、じきに黒くなった。
太陽は消え、空気が明るさに支配される。
はっきりとした黒い月が、透明な宙に軌跡をえがいていく。
俺は薄手のウインドブレーカーをひっかけ、海辺に来ていた。
目をとじ、まぶたの裏側の……ぼうっと光った世界をのぞく。
アルミラの名前を口にして彼女を呼んだあと……。
ズズーン……と耳に入り込む波の音を、二時間以上も楽しんでいた。
彼女は、俺のかたどる明るい影のなかに出現した。
相変わらず、黒い衣装を身にまとう。
厚底のニーハイブーツで砂浜に立つ。
穏やかながらも、冷たい声を出す。
「ふむ、余の死地として海辺を選ぶとはな……なかなかの趣味と言えよう」
「おととしの五月にも、砂浜に足跡をつけたよな」
「本当に懐かしい……これが郷愁なのだな……」
空に浮かぶ、暗い満月。
闇を発して、またたく星たち……。
キラキラと光る透明の海が、天上の闇を照り返す。
「現在の余には……ちょいと、こたえる」
アルミラは、俺を盾にしている。
暗闇の直射をさけるためのバリケードだ。
砂浜に立ち尽くす俺が闇を防ぎ、明るい影をアルミラに伸ばしている。
彼女が正面から、俺に軽く寄りかかる。
「服のシワ……体の重なったところ……闇の反対側にある場所……それぞれが、ほんのり明るい。どこか、救われた気がするよな……」
「日傘を月に向かって差せよ」
「もう出せんようになった」
「俺がどけば、終わるな」
「そうなりそうなら、しがみつく。できる限り、ぎりぎりまで生きてやるさ。……ところでコトブキ、確認しておく」
アルミラは自分の胸もとのレインボームーンストーンのペンダントに右手をかざし、なかを明るい影で満たした。見る角度によって、それは色を変えた。
また、左手にコンパクトミラーを出現させて、ひらく。ムーンストーンの輝く光を、凹面鏡と平面鏡で増幅させる。
「死出の旅に貴様たちのプレゼントを道連れにしてよいか」
「勝手にすれば、いいんじゃね。もらったものをどうしようが、もらったヤツの自由だ」
「そうだな……聞くまでもなかった」
「なあ、アルミラ」
俺はウインドブレーカーのポケットに両手を突っ込んで、彼女を見下ろす。
「もしかしてトワのために死のうとしていないよな」
「いいや。余が死ぬのは結果的なものだ。確かにトワは大切な友だが……余は友のために自分の望みのすべてを投げ出せるほど情に厚い存在ではない」
二枚貝のようなコンパクトミラーを片手でとじ、アルミラは砂の上に膝をつく。
両膝で移動し、俺の後ろに回り込む。
そこは波打ち際。その線と平行になるように体を横たえる。
「余にとって、光とは血だ」
「……今は闇も、たくさん当たる」
振り返らず、俺は自分の影に目を落とす。
「ぎりぎりまで生きてやるんじゃなかったのか」
「延命しようという意味じゃないよ。おのれの望みをつらぬくということだよ」
「望み……?」
「確かに余は暗闇が大嫌いだ……。しかし『それ』が大好きな者たちも、やはりいる。そういう心だけは明確に理解しているつもりだ。闇も一つの光明たりえると……最期に月影を浴びて、わかりたい。なぜなら余は、あの世に……暗いものを暗いままで、持っていきたくないから」
「あの世を、信じているんだな」
体を後方に回転させて、俺は砂の上に腰を下ろした。
あお向けの体勢で空を見つめるアルミラが……月影におぼれかけている。
そして、氷のような表情を崩す。
「そりゃそうだろ。余は死んだあとも、明るい世界で生きていたい」
彼女の顔は、派手に綻んだわけではない。
静かに、つつましく、笑顔に向かってほどけていく……。
「じゃあな、コトブキ。トワに……よろしくな」
「アルミラこそ、迷ったりすんなよ。明るいところに行くために」
「死んでも暗いのは、ごめんだよ」
…………。
……。
その言葉と共に、アルミラは事切れた。
ワインレッドの瞳から光が抜ける。
俺はそっと指をふれさせ、彼女のまぶたを下ろした……。
まず、闇を反射できなくなったムーンストーンとコンパクトミラーが灰になった。ついで、首輪を含む黒い衣装が消え失せる。
潮が満ちる。波が彼女の体を洗う。
徐々に空が暗くなる。海の色が、透明から青に戻り始める。
深い海を思わせる青い髪が、海水のなかに溶けていく。
アルミラの全身が灰に変化し、砂浜の表面に迷い込む。
一回、俺はまたたいた。
まぶたの裏の景色に、闇が映されていた。
指と指のあいだや服のシワからも光が失われ、黒い影が復活している。
真っ暗な夜が、帰ってきた。
黒い空一面に、青や白、赤の光が明滅する。
青白いスピカと、オレンジのようなアークトゥルスも見えた。
双子座のポルックスとカストルも、明るく輝いている。
白っぽい満月と無数の星を――青黒い海面が映す。
優しく明るい月影が、地上を淡い光でつつむ。
アルミラが死んでも俺は、とくに悲しいと思わなかった。
それでも、満天の星の光を目に入れたとき、急に目頭に熱を覚えた。
どうも……拍子抜けのような気もする。
元凶のアルミラが死んだだけで……トラブルもなく、こんなにあっさり都合よく世界の明暗が戻るなんて。
しかしアルミラージュ・ムースクイーンが、闇を憎んでいたのなら――。
その暗闇のなかで光り続ける星たちの……キラキラ輝く光景さえも、愛していたんじゃないかと思う。
だから彼女はこの世界に、元の夜空を返してくれたのではないだろうか。
(もちろん今まで明暗が入れ替わっていたのは彼女の仕業だ。返してくれたからって、感謝はしないさ。……ただ、世界を戻したのは結局アルミラ自身だった。いつまでも俺は……そんないのちに圧倒されているんだよ……)
それからもずっと、俺は砂浜に腰を下ろしていた。
気づくと……赤く白んだ朝焼けを伴わせ、まぶしい太陽が光を放っていた。
青い海が太陽光を照り返し、視界を焼く。
「きょうは一段と明るい朝だな……」
ゆっくり、立ち上がる。
朝焼け後の青い空を見る。きびすを返す。
自分の黒い影を踏み、俺は海辺をあとにした。




