皆既月食(明暗逆転バージョン)
暗い昼、藤棚の下にて――。
いつもより、さらに口もとを引き締め、アルミラが考え込む。
「なるほど、トワが八月中に寝たのが心配と……。もしや、体内カレンダーとやらが、ずれたのか……?」
「今までトワは例外なく、九月の初め……上旬あたりで眠りに就いていた」
「余が世界の明暗を……ひいては四季を入れ替えたせいだろうな」
「寝たのは八月二十九日。誤差とも考えられる」
アルミラの身につけているムーンストーンのペンダントをちらりと見て、俺は続ける。
「……加えて、眠りに落ちる過程自体に、変なところは、なかった。いきなり睡魔が襲ってきて、『ごめん寝る』って伝えてから目をとじるんだよ、トワは」
「とりあえず、現状は様子を見守るしか、あるまいな」
「確かアルミラの予想では、トワの起床時間は……暑くなった冬にシフトするんだったか」
「今年度の冬至の前、十二月に起きる可能性も、ゼロでは……ないだろう」
――ともあれ九月上旬に入って、季節が本格的に狂い始めた。
秋なのに、暖かくなってきた。
今年は、まだ台風が一つも日本に上陸していない。
涼しい夏のあとに、秋と冬をスキップして、再び春が来たみたいだ。
本来は聞こえるはずの、秋の虫の音は響いていない。
植物の開花時期などにも狂いが生じ、収穫できない果物や野菜、農作物も出てきている。
海の潮の流れも変化し、食卓に並ぶ魚にも影響が及んでいる。
……世界は明暗の逆転には、わりとすぐに順応した。
しかし、ずれ始めた四季には比較的戸惑った。
そんななかでの皆既月食は、とくに奇妙で不吉なものに感じられた……。
そして九月八日を迎える。
この日が、アルミラと共に見ることを約束していた、皆既月食の日だ。
満月の夜の午前一時ごろ。
俺とアルミラは例の藤棚の広場で月食を待った。
透明で明るい空に、闇を放つ球体が目立っている。つまり黒い月だが、そのまわりの星たちの闇が、満月の暗黒によってかき消されていた。
南中を終え、西にすべり始めたところ……。
俺たち以外にも月食を見に来ている人が、たくさんいる。藤棚のベンチは使えず、俺もアルミラも立って経過を観察することにした。
まず、部分月食が起こる。
左下から始まり、右上に向かって、徐々に闇の部分が透明な空に溶けていく。
十パーセント食われ……三十パーセント……五十……七十……八十……九十……。
すべてが透明に飲み込まれるまで、約一時間を要した。
従来の皆既月食ならば、この時点で月は黒っぽい赤に染まる。
……が、今夜は違った。
この瞬間、透明に飲まれていた月が、すっと淡い紫に、おおわれた。くっきりと視界に映るわけではない。透明な薄い膜の向こうに、ぼんやりと月が鎮座するかのようだ。
その場に集まった人たちが、一斉に息をのみ、感嘆の……ため息を漏らした。
拍手と歓声も聞こえた。
広場には天体望遠鏡を持ってきている人もいた。
親切な人で……そこにいるみんなに、「ぜひレンズをのぞいてみてください」と声をかけた。俺もアルミラも、拡大された月を見せてもらった。薄い紫の球体が、透明な色を背景にして沈黙している。クレーターの陰は、ぼうっと明るく光をこぼしていた……。
そのあと、再び肉眼で夜空を確認してみる。
親指一つで隠せそうなほどのつつましやかな薄紫の満月が、地上と天上のすべてを支配する。
山の頂上に位置するこの広場も、ここから見下ろせる建物たちも、いつもより光をためている。それでいて、新月の夜とは違い、淡い紫のレースで被覆されたような不思議な落ち着きを隠せていない……。
そんな皆既月食は一時間以上続いたのちに、再度の部分月食に移行した。
淡い紫が消失したかと思うと、左下に元々の闇が戻ってきた。それ以外の部分は透明な空と同化している。そこから少しずつ右上に向かって暗闇が広がり、やはり一時間ほどが経過してから部分月食が……月食そのものが終了する。
あとは、なにごともなかったかのように……黒い満月が、西の空に、たたずむのみ。
みんな、満足そうな顔で家路につく。
俺とアルミラだけが広場に残って、月が沈むのを眺めていた。
地平線に近い月は、黒ではなく青っぽい色となる。
「む……!」
ここでアルミラが両肩の肌をびくりと震わせ、スカートのなかからパラソルを引っ張り出し、それを後ろ寄りに広げた。
振り返ると、東の空から太陽がのぼっていた。紫の闇のにじんだ朝焼けだ……。
「なあ……コトブキ。日本には短歌という素晴らしい文化があるよな。日本語の勉強に際して、余も万葉集などを楽しんだりしているのだが、なかでも、とくに気に入った歌を思い出す」
「ひんがしの、野にかぎろいの、立つ見えて、かえりみすれば、月かたぶきぬ?」
「……なに? そうだ、それ。よくわかるな。カキノモトノヒトマロだったか」
「日の出の反対側を見たら月の入りだった……って意味だな。まあ今の俺たちの場合は、沈む月から目を離して振り返ったら太陽がのぼっていたわけで……おまけに明暗も入れ替わっているしで……まあまあ、状況が違うけど」
「雄大とか、美しいとか、そんな言葉を超えている。……だが」
アルミラはパラソルの棒の部分で右肩をトントンたたいた。
「今は太陽と対面できないのが、さびしいな」
「そんな世界にしたのは自分じゃねえか」
「すべてが十全に満たされる選択なんて、ありえないって話だよ」
ついで彼女が、青い月へと歩を進めていく……。
「……じゃあな、コトブキ。一緒に皆既月食を見てくれて、ありがとう。元々、この日に別れる約束だった。もう貴様も、余の名を呼ぶ必要はない。ただし余は……貴様もトワも大切な友だと心得ている」
「さようなら」
「必要とあらば、いつでも再び呼んでもいいぞ」
――そう言った直後。
アルミラの姿が、パラソルごと光のなかに、かき消えた。
朝焼けのなか、僅かに残った光に――溶けた。