理由が壊れる
七月七日の誕生日のあと、俺はトワの言葉を思い出していた。
(明るい空に、こうこうと輝く暗闇たちも素敵だよね……)
(……にしても、これはこれで、きれいかもね)
トワは、七夕の日を始め、今までどおりの夜空を見たいはず……。
そう思っていたから、俺は元の世界を取り戻そうと考えていた。
しかし……妹は、明暗の逆転した世界を受け入れ、そこに楽しみを見いだしている。
(姉さんが嫌がっていないなら、俺が世界を戻そうとわめき続ける理由は、もうない。トワが受け入れた世界であれば、その世界もまたトワを見捨てたりしないだろう……)
すべての明暗を戻すための――アルミラとの「交渉」に関しても、もはや、やる必要性を見いだせない。
……とはいえ、「気が向いたらそばに呼ぶ」という約束だけは果たし続けた。七夕を元どおりにしなくてもよくなった以上、そんな約束を律儀に守る意味も消えたのだが……。
トワはアルミラを好いているし、こちらのメリットが失われたからといって、いきなり無視しだすのは、あまりにも身勝手すぎるような気がしたから……呼ぶのをやめなかった。
――七月下旬の三日月の夜。
俺たち三人はレジャープールを訪れた。
今年の日本の夏は海水の温度が上がりきらず、現時点で海開きをしている地域は、ほとんどない。そのため屋内プールがいつも以上に……にぎわっている。
とはいえ夏としては外の気温が低いので、プールに足を運ぶ人が極端に多いわけでもない。
「お兄ちゃん、水着のサイズはだいじょうぶだった?」
さっさと着替えてプールサイドのベンチで待っていた俺に、妹が声をかけてくる。
水着といっても、長袖でロングパンツの黒いラッシュガード……露出は少ない。トワも、同じものを着用している。男女の区別なく着られるタイプである。
「大きさに問題はないんだが、なんでトワと、おそろいなんだよ……」
「いやー、高校で使う水着として、お母さんが二着、買ってくれてたんだよねー。破れたりした場合に備えてって……。でも結局、宝の持ち腐れになりそうだから、コトブキに着てもらおうと思ったの」
「ハズいって……。まあ、自腹も切らず水着を用意しなかった俺が悪いか。……言い訳すると、俺が水着を買っても、あんまり使う機会もなく金を無駄にするだけなんだよな……」
「そういえばコトブキって中二のころからプールや海にさそっても、ことわるようになったよね。なんで?」
右隣に座りながら、尋ねるトワ。
頭部にゴーグルをつけ、黄色のスイムキャップをかぶった格好。どうやったのかは知らないが、一・五メートルもある髪の毛すべてをそのなかに収納している。
俺は、自分の頭に右手を置き、ややうつむく。
「そういうの……聞くなよ」
「じゃあ察する」
「ときに鈍感が美徳になることもあると思うぞ」
「愉快な会話だな……」
ここで、氷のように冷たい声が挟まれる。
声の持ち主は、自称ヴァンパイア、アルミラージュ・ムースクイーン。水着に着替え終わった彼女がトワから少し後れて、プールサイドにやって来たのだ。
アルミラの水着は上下に分かれている。ただし、おなかの肌は出していない。
上は紺のタンクトップで、背中をほとんど見せないタイプ。下は白いミニのチュールスカート。スイムキャップはダークブルーだが、つばのない一般的なものではなく、ファンタジー作品で魔女がかぶっていそうなものをひとまわり小さくした形状である。
「か……かわいいに限りがない!」
やっぱり姉さん食いつくか……。
「これも自作なんだよね! 絶妙に透けてるスカートからして破壊力高いのに、トップスとボトムスで色が違っていて、どっちの需要も満たすとか……セパレートであるからこその到達点! 極め付きは、水泳帽。従来の地味なイメージを一新する大胆なデザイン……!」
「あまり褒めるな、余とて調子に乗る」
ほんの少しだけ顔を赤らめ、アルミラは俺の左隣に腰を下ろした、
「……トワとコトブキの水着も、かわいいぞ」
(全身をほとんどおおっているラッシュガードに、かわいいも、なにも、あるのか?)
「ありがとねっ。……で、コトブキは、アルミラちゃんに、ひと言ないの?」
「ノーコメントでいいか? 今は男が女に『かわいい』と言っただけで通報されかねない恐ろしい時代だからな……」
「……アルミラちゃん、今の聞いた?」
「しかと耳にした」
「さっきの、アルミラちゃんのこと、『かわいい』って自白したようなものだよね! ……お、おかしー。おなか痛いんだけど……コトブキ、ぼ、墓穴掘ってるって……!」
「そこまでツボんなっての。ま、姉さんが楽しいなら、いいけどな……」
思わず表情が緩んでいく。
俺の喉からも、小刻みに笑いの息が漏れる。
その刹那において。
「くく……」
なんと表現すべきか、「く」と「ふ」の中間くらいの音を出しつつ、アルミラが口もとを押さえていた。笑っているのだろうか。
(とても小さなものだけど、三か月近く一緒にいて、笑顔を見たのは初めてだ……)
冷徹なはずの、ワインレッドの目が細められている。
しかし彼女は、すぐに相好を整え、普段のクールな雰囲気を取り戻すのだった。
あとは……とくにない。
いわゆる「流れるプール」で、ひたすら流された記憶しか思い出せない。
後日、想起すると……ヴァンパイアは流水に弱いという説もあるから、アルミラが平然とプールに流されていたというのは、やっぱり変な感じもする。
(いよいよもって、アルミラのヴァンパイアは「吸血鬼」というより「怪物」と訳したほうがいいかもしれないな……でも怪物って呼ぶほどに凶暴なわけでもないし、あるいは訳すこともできないんだろうか)