第10話 声を出す前に黙らせる
音もなく忍び寄り、気配を消し、影に溶ける。
戦場では、“黙らせてから喋れ”が基本だ。
森は深い眠りの中にあるかのようだった。
木々は梢すら揺らさず、風の気配もない。夜鳥の声も止み、虫すら沈黙する。
そんな夜に、俺は音もなく歩く。地を踏む感触すら、指先の感覚で感じ取るような静けさだ。
矮鬼どもの巣――それはかつての古代耳長人の遺構を利用したものだった。
崩れかけた門には、上部の半円が崩落し、苔が這い、シダが繁茂している。けれど、その両側の柱には、まだはっきりと見て取れる彫刻が残されていた。
螺旋状に刻まれた蔦や花々の模様は、今なおその細工の細やかさを誇り、耳長人の卓越した技巧と美意識を物語っている。柱の上部には、乙女神の浮き彫りがあった。顔の輪郭は風雨に削られていたが、その指先や衣のひだには、かつての優美さが宿っていた。
石畳は半ば土に埋もれ、割れてはいるが、そこにも星の形や幾何学模様が幾重にも彫られていた痕跡が残る。かつての神殿広場だろうか、中心に立つ石像――頭部はすでに失われていたが、その胴体には流れるような衣文の彫刻が残っており、芸術品としての品格を感じさせた。
建材の継ぎ目には苔が染み込み、年月の重みを感じさせる。それでも、剥がれかけた壁面の一部からは、金属粉が混じった装飾漆喰が光を反射していた。
古びてはいる。けれど、朽ち果てたわけではない。
この地にかつて在った栄華と、耳長人の矜持が、崩壊の合間から顔を覗かせていた。
廊下の壁面にも、戦士や精霊、星々をあしらった浮彫が途切れ途切れに残されている。いずれも淡い彩色が施されており、夜目にもかすかな青や金の残滓が読み取れる。
これらを破壊し尽くさず、なお巣として利用しているあたり、矮鬼どもがどこまで理解しているかは疑わしいが、少なくとも“壊すのが惜しい”という程度の本能はあるのかもしれない。
だが、いまは別の意味で“臭う”。
火の気。血の匂い。腐肉ではなく、獣の汗と、粗悪な金属の油の臭い。
目立たぬように仰ぎ見ると、門前には数体の見張りがいた。
――だが、油断しきっている。
一匹は腰を下ろし、槍に顎を乗せて舟を漕いでいた。もう一匹は柱に凭れ、鼻を鳴らして眠りかけている。
そりゃそうだ。夜陰に乗じて自分たちが“狩る側”だと思っていれば、わざわざ“狩られる”準備なんぞしない。
さっき送り出した大軍が、敵を喰って帰ってくると思い込んでる。
その脳天気さが、命取りだ。
俺は鞘からナイフを抜いた。光を反射しない、鈍く焼きの入った刃。
右手の指でくるくると回しながら、深く息を吐く。
投げる。
音もなく飛んだ刃が、見張りの喉を突き刺す。
崩れ落ちる音もないまま、一匹が倒れた。
もう一匹が振り返る前に、俺はすでに踏み込んでいた。
膝下に一閃。腱を断ち切られた矮鬼が崩れる。
その口に手を突っ込み、奥へと押し込むようにもう一枚のナイフを突き立てる。
声を上げる暇もない。
矮鬼がもがく間に、すでに俺は門の影に消えていた。
――静かだ。
遺跡の内部へ潜入する。古い神殿の残骸だ。中心部に降りる階段。そこが巣の本体だろう。
広場にはまだ火の残り香があり、矮鬼どもが集っていた痕跡があった。
残りの見張りは、神殿の入口――洞窟状のアーチの前に4体。
そのうちの1匹は地面にしゃがみ込んで何かをかじっている。2匹は石に座って談笑するような素振り。1匹は完全に眠っていた。
――話にならん。
この緩みきった警戒網を見て、俺は小さく笑った。
自信過剰の軍隊ほど、始末しやすいもんはない。
4本のナイフを投げる。
すべて音を殺した一撃で、4匹の命が夜に吸い込まれていく。
門を抜け、俺は神殿の中へと足を踏み入れた。
空気が変わった。
石の匂い。冷たい湿気。そして、かすかな香油の残り香――かつての祭祀で使われたものか。
高い天井と柱列。崩れかけてはいるが、その全体構造は維持されている。柱には女神と星々が描かれ、その足元を取り巻くように流麗な古代文字が刻まれている。
――誰も読めやしない。だが、意味など知らずとも“敬意を払いたくなる”空気がある。
矮鬼どもがこの地下で何をしていようと、神殿はなお、神殿としての品格を保っていた。
だが、これで終わりじゃない。
最奥だ。巣の心臓部へ向かう。
ガルの斥候としての真骨頂です。
派手な戦闘の裏側で、静かに確実に命を刈る戦い方。
こういう場面は書いていても楽しいですね。