第三幕 約束
『王女が、亡命した』──
その情報は王国が規制する間もなく、瞬く間に伝播し、国中が驚愕と混沌の海に包まれた。
やがて王宮にもそれらの情報が知れ渡ると、国王は玉座の上で歯噛みした。
「あの娘──やりおったな」
──国家の上部である、姫の逃亡。
それは王国の信頼、ひいてはその沽券にも関わる重大な案件である。
王宮はあらゆる計略を企て、その目下の問題を解決しようとしていた。
王女の案件、その対応。……新生魔王の存在についても、ではあるが。
玉座の前、延長する赤いカーペットの上。そこに今、たった一人の男が膝を付いている。
「国王陛下、ご報告申し上げます。捜索隊の情報が入りました。推定通り王女殿下は、魔逐ルート沿道を南東に進行していった模様です。同隊員が、引き続き追跡中でございます」
男は簡潔に言った。『国家守属隊』。その隊長だ。
王はふんぞり返りつつ、髭を指で擦っている。
苦虫を噛み潰したような顔で思考し、やがてひれ伏す男へと告げた。
「あやつに今、引導を渡すわけにはいかぬ。やむお得ん。──拘引しろ」
■■■
渓流を覗き込む王女。その顔は壮麗な鼻立ちの美しい色で、水面を微かに反射させ、映していた。
魔逐ルートを進む二人。
──その、山である。
「この山を越えたら、国領をしばらく離れます。あとはルートを伝っていって、次の辺境の村を通過すると、そのまま直進です。──樹海に着きます」
王子は説明する。その手には地図を持っている。王国製の地図だ。
まだ昼間であり、開けた河原の上空には、爽やかに煌めくような太陽が昇っている。
彼は準備をしていた。……無計画に、無謀にも飛び出した王女と違って。
その優しい声で、水分を補給する王女にとくとくと話しかける。指でピ、ピ、と先の方向を示しながら。
「…………」
と、王女は立ち上がった。再び歩みを進め出す。
まだ少し、おぼつかない足取りだ。が、決意の行進でもある。
気がついた王子はいそいそと地図をしまい、それに追従した。
その目は訝しげに、王女へと向けられている。……
■■■
夕方になった。辺りで屈折したオレンジ色の光が、木々の葉の隙間を抜け、さんざめくようにその枝々を揺らす。
──風が吹いている。
女は腰を下ろした。その脚はひそかに震えている。
大きな花こう岩の上だ。座っている、王女。
「姫様。私はこのまま食料の確保に向かいます。今日の進行は、ここまでにしましょう。姫様はそこで休まれていて下さい」
「私も行く……あっ」
追おうとした王女が転けた。バランスを崩し、岩から落下する。脚が弱っていた。
「危ない!」
と、すかさずキャッチする王子。間一髪で受け止めた。
その腕の中で、放心したような女。が、すぐに気がつく。
「ごめんなさい、私……」
「……もういいです。姫様は動かないで下さい。私が一人で行きますから。じっとしてて……」
王子は溜息を吐いた。女をそっと安置させると、踵を返し、すぐに深い木々の間に消えた。
食料の確保。暗くなってからだと危険なことだ。
が、そこまで綿密な計画を立てていなかった王女は、そのテキパキとした王子の算段に恐れ慄いていた。
着の身着のまま、身一つで出てしまった彼女である。出発の準備などしていなかった。
その点、激情家な姫と違って、王子は冷静沈着だった。
的確な判断のもと、持ち物を厳選し、地形図で道筋を予測した。そして、既に王宮を出た王女を追い、走ったのであった。
「…………」
一人残された姫は、退屈になった。
……自分も、何かしたい。
傍にある石を集め、組み立てる。たしか、十年前の男たちはこうやっていた。
──火を起こそうとしている。焚き火だ。
枝を積み上げる。落ちていたやつだ。
それと、木の綿みたいなのもあった気がする。探す。……無い。
しょうがないから、細い小枝で代用した。
と、王女はいつの間にか、深い茂みへ入っている。
王子に「じっとしてろ」と言われたことは、すでに忘れ去られていた。
材料を拾い集め、焚き火の用意をする王女。
あの時、男たちは黒い石のようなものを打ち擦っていた。思い出し、女は真似する。
しかし、火は一向に付かない。
「……はあ」
姫は嘆息した。何もできない。
何もかも、守られている彼女。自分の情けなさに、少し切歯して俯いた。
──と、音。
顔を上げる。……ああ、魔族だ。
「また……来たのね」
王女は皮肉な笑みを浮かばせた。十年前。あの時と同じ。
敵は一匹だった。その禍々しい、全身に棘を生やした野良犬のような姿で、こちらを狙っている。
姫は構える。美しい姿だった。が、弱々しくもある。
火が付かなかった、焚き火の薪──太い枝の一本を、その手に握りながら。
前を見る。犬が襲い掛かってくる。
構えた棒は、しかし動かない。恐怖で腕が硬直してしまっている。
姫はそれを感じている。ただ、祈るように。──
■■■
一閃。
──王子の剣が、貫いた。
犬はその頭蓋内を見事に串刺しにされたまま、その血とともにズルズルと下り、地面へと落ちた。
その剣──犬が抜けた剣は、真っ赤に濡れている。
切っ先が滑らかに綺麗で、勝利した真紅の灯火が、つるりと一条滴った。
王子。
振り向く。
深い茂みの中だ。彼はどうやって駆けつけてきたのだろう。
姫が、元の河原にいないのに、気づいて。……
血刃を引っ提げたまま、女と目が合う。虚ろな、獣のような眼。
と、姫の怯えが目に入ったか、すぐにいつもの優しい顔付きになった。
しかし、その表情は少し怒っている。
……否、嘲笑するかのような、苦い、皮肉めいた笑みだった。
男の口端が、女を見下すように、歪んだ。
■■■
夜。
火は燃えていた。──焚き火だ。
魚を焼いている。王子が先程、獲ってきた魚だ。
それらは木の枝に一直線に刺さって、その身体を貫かれていた。
「…………」
王女は座りながら、静観し続ける。
その瞳孔に、パチパチと弾けつつ空中に舞う、灰と火の粉の残像が、映される。
と、王子はその焼き魚を一本取った。取っ手の棒を女へと差し出す。無言だ。
姫は、しかし受け取らない。子供みたいにうずくまったまま、視線を逸らしている。
「……姫様」
にわかに、立ち上がる王子。
その表情は──何も、無い。
「姫様。いい加減にしてください」
「────」
「もう、充分でしょう? 散々わかった筈です。……あなたには、無理だ。さあ、王国へ帰りましょう」
「──!」
王子は手を差し伸べた。と、バッと払う王女。
顔を背けている。意地でも、視線を合わせないつもりだ。
「……姫様!」
とうとう王子は声を荒らげた。
振り払った女の繊手を掴み取り、反対の手で、グイと強引に顔を向けさせる。
──瞬間、燃えるような眼。
「……ッ」
王子は硬直した。
闇。燃える、焚き火の光。
反射した炎の煌めきが、もう一つの明のように、女の瞳に映った。
その隙に再度振り払い、包囲を抜ける王女。
瞬時に、王子から離れる。──そして。
その上衣を、やにわに脱ぎ捨てた。
「!?」
王子は絶句する。……何故? いきなり?
が、それよりもまず目の前の光景に、その思考を全て奪われた。
傷痕──胸の傷。
痛々しいまでに、残った。
今もなお、柘榴みたいに裂けたその痕跡を残しつつある。
女が、自分で付けた傷。
決意の、傷。──
「帰りません。……私は征きます」
この前と、同じ言葉を繰り返す女。
その右手は、例の深い傷に押し当てられている。
まるで、その傷痕ごと、自らの存在を主張するかのように。
「…………」
王子は無気力だった。放心したように、彼女の目を見つめている。
静寂の時間が流れた。
どのくらい過ぎた頃だろうか。──女の裸はその意志の固さとして、なだらかに夜の風を受けている。
やっと、王子は立ち上がった。自分の上着を脱いで、姫の肩に掛ける。
「姫様。約束してください」
見上げる、王女。
王子は口を開いた。続けて言う。
「私はあなたの意志を尊重します。誓います。その代わり、あなたも誓ってください。協力してルートを進むと。決して、私を裏切らないと。私が、御身の安全の為に出した命令には、絶対に背かないと。……」
焚き火は燃える。
その時、パチッと、弾けるような火の音を出した。
と、ハッとする王女。少し迷うように唇を噛み、視線を浮遊させる。
すると、再び王子の目を見る。
はっきりとした炎が、血みたいに赤くなって、彼女の瞳に灯される。
──それを認め、静かに頷く王子。
彼は微笑んだ。火に照らされた、オレンジ色の優しい微笑みだ。
姫から離れ、石に着席する。──食事の再開だ。
姫も座る。
今度は素直に、王子から差し出された、少し焦げてしまった魚を受け取って、食べ始めた。
■■■
姫は寝ている。
王子はその傍で、今はもう消えた焚き火の前の石──さっき、晩御飯の時に着席していた石だ──に、腕を組みつつ座っている。
その首は、こっくりこっくりと船を漕いでいる。
と、茂みが揺れる音。
王子はバッと起きた。バネが跳ね上がるような動きだった。
すぐに警戒し、辺りを見回す。──と、
ガツン!
──彼は地に倒れ落ちた。突然の出来事。
何者かに、岩のような硬い質量のある物体で、後頭部を殴られた。
王子は動かなくなる。
地に伏した彼の、血液。
それが河原のゴツゴツした石の隙間へ、夜の月明かりに照らされつつ、赤黒く流れ込んだ。
やがて流血は、川へ入り込んでいく。……
「……行け」
その時、低い男の声がした。
──国家守属隊、捜索隊隊員の声だ。
その一人、彼の指示により、五、六人ほどの男たちが草叢から這い出る。
それの動きはまるで、夜の蛇のように。
が、その命令の声も、草の音も、もはや王子には聴こえない。
闇の彼らは、草が囁くように動作すると、近くに寝ている王女へと歩みを進めた。
停止する。一人が手で合図し、もう一人とともに女の身体を担ぐ。
と、他の隊員が駕籠を持ってきて、その中へと押し込む。
「……あっ」
王女は目覚めた。叫ぶ。
が、唐突すぎて、状況に頭が追いついていない。
しかし、男たちの手は休まることはなかった。
むしろ気づかれて、その手は強引に、彼女の身体を押し込めようとする。
女は抵抗する。──が、あえなく閉じ込められる。
何か言葉を叫んだ。それも、誰に届くこともない。
王子は河原の上に、他の石と同じみたいに転がって、だくだくと頭部からその血を垂らしている。
王女は抵抗虚しく囚われ、彼女を乗せた駕籠はやがて山を来た道へと下った。
女は乗せられる瞬間、倒れた王子を視界の端で捉えていた。
その悲痛な叫び声が、闇の山間へと木霊する。……
無論、王子にその声は届かない。