第二幕 出発
十年間、王女は閉じこもっていた。
一行の壊滅──新生魔王の存在については、ただちに王国中に広まった。
あの夜、唯一生き残った少女を、王宮の者は皆手厚く慰めた。が、彼女の内面の傷は、癒えることはない。
少女は自らの室内に、ひっそりと、生きているんだか、死んでいるんだかわからないような形で、うずくまっていたり、睡っていたりしていた。
彼女の父親──国王はそれを見て、ひどく心を暗くさせていたが、何年も日の光を浴びようとしない自分の娘に、ほとほと、諦観の念を帯びた目を向けるようになった。
彼と、その王国はその十年の間、どうしていたか?
二百年来の新たな魔王の誕生を知った王国は、軍を派遣、各地で再び勃発した魔族の暴動に対応。
魔逐ルートの整備及び人民の安全対策、国家の防衛線強化、パンデミックを抑えるための各情報管理、弾圧、統制。──
……無論、王女の存在は大っぴらにされず、世間から隠された。彼女が新生魔王に穢されたという事実は、彼女自身と、国王と、それらの側近、忠臣──命を捧ぐ者しか知らない。
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「姫様……姫様!」
──加えて、もうひとり。
「姫様、どうか栄養を摂られてください。もう、二日も、何も口にお入れになられず……私は、ひどく心配です」
彼は、隣国の王子である。
幼い頃、両国の国王から定められた、王女の許嫁、その青年。
彼は、彼だけは堅実なほどに、この十年間、一日たりとも欠かさず王女の部屋に通っていた男なのである。
もちろん、彼は自分の婚約者がもう処女でないことも知っている。
その表情は──切実だ。
「十年前、貴女様の御身に起きたことは、この私めにも、痛恨、なぜあの時自分がその場にいなかったか、なぜ貴女のお側で、護ってやれなかったか──嘆かわしく、悔しい思いです。しかし、こんなにも塞ぎ込んで──十年間も閉じこもっておられては、国の人々も、たいへん、案じております……姫様!」
王子は叫んだ。悲痛な声。
「どうか、どうか、お姿を──現してください」
祈るように手を組む。王女の部屋の前、膝をつき、頭を垂れている。
その様相は、重い扉を隔てて、しかし王女には見えない。
「…………」
突然、扉の向こうで音がした。何か、重量のある物体が落ちたような音だ。
起き上がる気配がする──人が、そこにいる。
王女だ。彼女がこちらへゆっくりと歩み寄っているらしい。
扉が開かれる。
ギイイ……と腐ったような、錆びついたような音が流れ、その空間から暗い光芒が差し込んだ。
「…………姫様……」
果たして──王女はいた。
その顔は鈍色をして、氷よりも冷たい、ぞくぞくする目付きである。
全身、目を背けたくなるほどやつれ、象牙のような無機質な四肢は無惨なまでに、美しく、まっしろ。
恐ろしくくぼんだ眼窩、その流麗な眼で、忠実なる王子を見下ろす。
「…………」
少女は、女になっていた。──
身体は、生きるような凄惨さの果てに、震えるような妖艶さが醸し出されている。
突如、女はふらふらとよろめきながら歩き出した。時折、ドサッと崩れ落ちるように転ぶ。
王子はそれを支えたが、すぐに腕を払われた。その意地でも己の脚で歩もうとする王女の、今にも呪いそうな、執念深い瞳孔の炎に囚われる。
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王女はそのまま取り憑かれたように移動し、階段を下り──玉座の間に出た。
王子はおろおろと狼狽しつつ、後方から彼女を見守った。
「……おお! お前!」
国王は十年ぶりの娘の姿を認めると、そう嗟嘆した。
少々困惑の色が見える。立ち上がり、痙攣する指で、七、八メートルばかり離れた再会の愛娘を抱くように……。
「お父様」
女は言った。
ともすれば聞こえぬような、とても小さく弱い音声であったから、空気はしんと水を打ったように静まり返る。──傾聴の二人。
「私は征きます。魔逐ルートに」
「──なに!」
驚愕の声が上がった。これは王の声でもあり、王子の声でもあった。
王は呻くように叫んだ。苦痛と、啞然と、愚弄の混じった音色で。
「お前は、何を言っている? 何を考えている? ……さては──」
気が触れたか、と続くのを、しかし堪えた。
王の視界に映る、躊躇いのない眼差し。女の、引き裂くような、虚弱な肌。しかしそれを哀れとも思わせないほどの、自立した凄味が、この娘にはあった。
「──わかっているな? お前は、仮にも一国の王女だ……ああ! どんなに愚かなことか。お前が一番思い知ったことじゃないか……!」
「────」
「やめろ。お前が征くというのなら、私がとめる。その身、その足、切り落としてでも、引き留めるぞ!」
「────」
一閃、反射光が王女の手元に煌めいた。
刃だ。
王女は、懐に隠し持っていたのか、その手に一本のナイフを握りしめている。
王は目を瞑った。反射的に王子は義父を守る行動をとった。
「────!」
王を襲うかと思いきや、王女はそのまま刃を逆手に持ち、自らの乳房に向けて、ずぶりと刺した。
それがはたから見るとまるで自害しているようでもあり、王は瞬間、戦慄した。
「動くな!」
王女は叫んだ。部屋に反響する、気品のある、冷たく厳しい声。
「私は往きます。どうか、どうか、止めないでください。私はあの男に穢された。私は、もう、王女でもなんでもないんです。ただのみじめな、復讐に駆られたひとりの女──私は、征きます」
女の乳房から、絹のような血がさらさらと流れ落ちる。
それが握る刃の柄から、一滴、一滴したたるたびに、男二人の顔が青白く染まっていく。
王女は踵を返し、立ち去った。
王は呆然と見送る。
──彼に、何が出来たであろう?
決意の炎を──復讐の徒と化した女を、どうすれば引き留められるだろう?
■■■
「お待ちください、姫様!」
逃げるようにして国領を去った王女を、追う影が一つある。
王子だ。
「……私は征く」
依然として繰り返す女に、磁石みたいに男は追従する。
「姫様。ならば私も征く。私の道も、貴女とともに」
「…………」
女は振り向かない。
沈みゆく紫紺の陽を、その日、たった二つの影が渡り歩いた。