白鳥の乙女と『月の娘の狂詩曲』
寝台に座り、ぼうっと天井を見上げます。
「高級旅館、というだけあって広くていいお部屋ですわね……。ベッドもフカフカですね……」
わたくし1人でこの個室を使っても良いということですが、これまでの安宿とは随分違いますわね。この広さならもとの姿に戻れますか。
スピルードル王国の王都、そこにある高級旅館。そのスイートルーム。
ここに泊まれるということですが、人の街とは何かとお金がかかる筈ですわ。旅回りの劇団ってそのあたりどうなのでしょう? いまいちお金というものがよくわかりませんわ。
「……カッセルとユッキルの話を伺ったときには、旅芸人暮らしに憧れもしましたけれども、」
なぜ、わたくしが旅回りの芸人暮らしをすることになってしまったのでしょう? いえ、わたくしが迂闊だったのが原因ではあるのですが。
「これもあのカッセルとユッキルを追いかけてたからですわ」
あのリス姉妹、可愛い見た目に反して狡猾ですわ。
足取りを追ってはみたものの、さすがたった二人でおかしな組織を壊滅させただけあって、私の追跡を撒くのも余裕でしたか。
結局、あの双子はローグシーの街でアイジスお姉さまが捕獲したということですが。
いったいわたくし、何をしていたのでしょう? 雪山で寒い思いしてクマやっつけただけかしら? はあ、
「と、いつまでも過去を悔やんでいられませんわね」
今はこの部屋にはわたくし1人。では今のうちに。
懐に隠した小袋から母神の瞳を取り出しまして。
「ツルギお姉さま、今、よろしいでしょうか?」
『ファルフィ? 無事ですか?』
「あ、はい、無事です?」
『良かった。安堵しました』
凛と響くツルギお姉さまの声。母神の瞳を通して深都の十二姉、飛行組のツルギお姉さまに報告します。
「今のところ、劇団の1人の男を除いては、わたくしの正体はバレてはいない、と、思いますわ」
ちょっと自信がありませんが。クインもアシェもわたくしが人の街に潜入するのは無理じゃない? と言ってましたし。
実際、その通りでしたわ。そしてあっさりと1人の男に正体がバレてしまいましたわ。
ツルギお姉さまは、ふうぅ、と長くため息を吐かれます。
『……その男が、言うことをきかないとファルフィの正体をバラす、と脅しているのですね?』
「はい、そうなのです」
『身の程知らずな。愚か者に身の程というのを教えてやるのも良いのですが』
「それが、できませんのよね?」
『できるだけ血生臭いことは避けるように、というのが十二姉の決定です。ハオスは、『脱出するには可能な限り人に自然に見える形で、目立たぬように』と』
「どういうものが人の街で目立つのか目立たないのか、そこのところがよくわからないのですが?」
『すみませんファルフィ。これはファルフィにも捜索をお願いした私の責任です』
「いえあの、脱走者をすぐに捕獲しなければならなかったことが原因ですので、悪いのは脱走を首謀したララティですわ」
あのイタズラウサギ、どうしてやりましょう? まったくもう。
ツルギお姉さまは疲れたように話します。
『連れ戻してお仕置きしたルティも、いつの間にかちゃっかりと捜索隊に紛れ込んでいなくなって。気がついたときにはローグシーの街に到着していたと報告が来るし』
あ、わたくしも捜索隊に選ばれたときには、これでちょっとゼラとおっぱ、ゴホン、黒蜘蛛の騎士を見に行ってみようかしら? と考えてしまったので、ルティのこと責められませんわね。
それでつい、人のいるところに近づき過ぎたのが失敗でしたわ。
『ファルフィ? どうしました?』
「あ、その、ちょっと疲れてボンヤリしてましたわ」
『問題の男に疲れさせれられるようなことを命じられているのですか? ま、まさか?』
「ツルギお姉さま、今、何を想像しましたの? ゼラに影響されてませんこと? 今のところその男は約束通りに、わたくしがおとなしくしていれば秘密を守ることには協力的ですわ」
今の人の暮らしをよく知らないわたくしに、何かと教えてくれるのも世話をしてくれるのも、あのマネージャーですわ。
「疲れているのは、人に囲まれて慣れない暮らしをしているのと、お芝居の練習のせいですわ」
『私としては、ファルフィがその状況から逃げるためにその男を始末するのもアリと考えます。ファルフィ、どうしても我慢ならないときは実行してもかまいません。死体がみつからなければ、それほど騒ぎにはならないでしょう?』
「ツルギお姉さまはときどき過激ですわ。わたくし、ひどいことはされてませんのよ?」
むしろ、大事にされてるようなところもありますし。
「それにその男は知り合いが多いようなので、突然に行方不明になれば騒ぐ人も多そうですわ」
『厄介ですね。目立つことは控えるようにしなければ』
クインとアシェはよく潜入任務なんてできますわね。目立たないようにって、どうすればいいのかしら?
『問題はファルフィが女優として目立ってしまったことですね』
「申し訳ありません、ツルギお姉さま」
今後どうするか、改めてツルギお姉さまと相談し、
「ファルフィー!!」
「ひゃい!?」
いきなりですわ! 扉が開いて問題のそのマネージャーがいきなり部屋に来ましたわー! なんですの!? なんですの!? 慌てて母神の瞳を胸の間にしまいまして、
「ノックくらいしてくださいまし! なんですの!?」
「喜べファルフィ! 王都歌劇場でうちの劇団がやることが決まったぞ!!」
見られなかったかしら? にしても相変わらずわたくしの話を聞きませんわね、このマネージャー。いつも傍若無人で、なのに悪気は無さそうで、憎めないというか。妙に気が回るかと想えば、好き勝手にやりたいようにやってるだけというか。
よくわからない人ですわね。黙ってキリッとしていれば見た目は悪く無いですのに。この人、昔は舞台に立ってたとは劇団の方から伺いましたが。
ウキウキとした顔で話してます。
「後援者もついて予算もなんとかなりそうだ。むしろ衣装や小道具にも前よりいいものが使えるぐらいだ」
ズンズンと近づいてわたくしの手をぐっと握ります。近い、近いですわ、ちょっと、
「ファルフィが来てからうちの劇団にもいい風が吹いてきた。田舎回りの旅回りの劇団が、いよいよ王都の歌劇場に出演だ。話を聞いた座長が気絶しかけてたぞ」
「あ、あ、あの、わたくしは、」
「そうか、ファルフィも嬉しいか! だが俺たちはまだまだこれからだ。王都の高尚で古くさい演劇を俺たちで染め替えてやろう!」
「あのですね! わたくしは失踪した女優の代理で! 引き受けたのは一回だけの筈でしてよ!」
「何を今さら。うちの看板女優はファルフィだ」
「聞いてませんわ!? 失踪した女優はどうなりましたの?」
「他所の劇団の女優になっていた。引き抜かれたわけだ」
「え? あの、戻ってきませんの? その方?」
「ふん! ちょっといい見た目と半端な才能にあぐらをかいてた奴なんぞ知らん! 今さら戻りたいと言ってもこっちからお断りだ! ウチにはファルフィがいる!」
「わたくしを勝手にウチの子にしないでくださいまし!」
「とにかく! 王都の歌劇場でやる演目の練習は明日から始まるからな! 他の劇団のトラブルで空いたところに捩じ込んだから本番まであまり時間は無い!」
「わたくしの話も聞いてください!」
いつもこんな調子で丸めこまれる訳にはいきませんわ。キッチリ言うべきことは言わないと。
「わたくしにもわたくしの事情がありましてよ。わたくしはもう、」
「ほう? 半人半鳥とバラしてもいいのか?」
くぅ? いきなりテンション変わって低い声で脅すなんて。マネージャーは声を潜めて更に近づいて、顔を寄せてわたくしの耳元に囁くように。
「人では無いことを知られたくないんだろう? ファルフィ?」
うぅ、深都の存在を、我ら闇の母神の娘のことも、人には隠蔽しなければ。それなのにマネージャーはニヤリと笑って、なんですの? そのいろいろと解ってる、というような悟った顔は?
「それにファルフィも知ったのだろう?」
「何をですか?」
「舞台に立つ喜びを、だ。身に付けた芸を披露する楽しみを、称賛と喝采を受ける悦楽を、人の心を揺さぶる快楽を。いいものだろう? 舞台は1度立ったらやめられない。カーテンコールのファルフィは実に気持ち良さそうな顔をしていたぞ?」
「その言い方、変態ぽいですわよ!」
気持ち良さそうな顔なんてしてませんわ! はしたない!
「とにかくわたくしはいつまでも女優なんて!」
「歌劇場の出演は決定だ! この好機、逃せるものか! 王都歌劇場で成功することは、芸人として歴史に名を残すも同然! 劇団員全員の渇望が今、手の届くところにある!!」
「あの! わたくしの話も!」
「歌劇場には目の肥えた客が来る。だがファルフィならそいつらに目にもの見せてやれる! 王都歌劇場はいいぞ、この王国一番の設備が整っているからな!」
「だから! わたくしはもうしませんと!」
「箱の小さな田舎の演芸場より客も増えて、もっともっと気持ち良くなれるぞファルフィ? 誤魔化しても無駄だ! 俺には分かる! ファルフィが官能の愉悦に打ち震えているのがな!!」
「だからおかしな言い方やめてくださいまし!」
ちょっと舞台が楽しくなってきたのは本当ですけど、でも官能の愉悦とか? 震えて? わ、わたくし、どんな顔で舞台に立っていましたの?
「ファルフィお前は最高だ! 俺がもっと輝かせてやる! それでは明日から稽古なので今宵はよく休むように。それと宿の者にはこの部屋には近づかないように言ってあるので、安心して正体出して寝ても大丈夫だぞ。明日からの為に気合い入れて寝ろ! おやすみファルフィ!!」
言うだけ言ってさっさと出て行きましたわ、あのマネージャー。もう、ほんとにもう。
『ファルフィ? 無事か?』
あら? この声は? 胸の谷間から母神の瞳を取り出しまして。
「ヴォイセスお姉さま? どうかされました? ツルギお姉さまは?」
『ツルギもここにいる。ファルフィを脅しているという男の声は、我もツルギも聞かせてもらった。なにやら最後は慌てて捲し立てていたようだが?』
「わりといつもあんな感じですわ」
『ふむ、おやすみファルフィ、とファルフィのことを気遣ってはいるようだが?』
「気合い入れて寝ろって意味がわかりませんわ。気合いなど入れては眠れませんわ」
『それはそうか。しかし、演者としてのファルフィを気遣っているのか? それとも他に何か意図があるのか? ファルフィには悪いがしばらく現状維持で様子を見て欲しい。いいだろうか?』
「それは、仕方ありませんわね。ですが深都で何かありました?」
『少し方針が変わるかもしれん。これから十二姉で話し合う。我からファルフィに伝えたいことは、――少し楽しんでくるといい』
「はあ?」
『新しい歌と曲を憶えて、我に教えて欲しい、というのが我の個人的な願いだ。ファルフィの状況は得難い機会でもある。利用されるだけでは無く、ファルフィが利用できることもある』
「ヴォイセスお姉さまも歌と楽器が好きでしたわね」
『帰ろうと思えばファルフィの力ならどうとでもなる。我らに気を使って悩み過ぎるな。何かあれば直ぐに連絡を』
「わかりました。……少し気が楽になりましたわ」
『今は深都にとって動乱の時、なのかもしれん。我らと人の関係が変化する、その始まり。ファルフィもその一端に立っている、と我には思えるのだ』
「わたくしが? ゼラではなくて?」
『ふふ、ゼラが起点なのは違い無い。話すと長くなりそうだ。ファルフィが深都に戻ったときにはゆっくりと話をしよう。土産を楽しみにしている。ではまた』
さすがヴォイセスお姉さま、動じず余裕がありますわね。
でもこれでわたくしは、しばらく女優を続けることに? このままでもいいのかしら?
あら? わたくし、ちょっと喜んでます?
◇◇◇◇◇
マネージャーの男は部屋に戻る。ファルフィのいるスイートルーム、そのすぐ隣にある部屋に。椅子に深く腰掛け、長く息を吐く。
「……ファルフィの疲労はあまり無さそうか。長旅のあとなのに、見かけに依らずタフだな」
ふと男は窓から夜空を見上げる。高級旅館の窓は磨きあげられたガラス窓、夜空の白い満月がよく見える。
マネージャーは満月を見るたびに思い出す。ファルフィと初めて会った夜のことを。
(俺はあのとき、どうして……)
◇◇◇◇◇
地方回りの巡業の旅の途中、劇団の看板女優が書き置きひとつ残していなくなった。
マネージャーは心当たりを見てくる、と言いランプひとつ片手に夜の町に出た。
(アイツにとっては田舎回りの旅劇団よりも、王都の華やかな大劇団の方がいいのかもな)
本気で探すつもりは無く、これからどうするか、ということが頭の中を巡る。ブツブツと呟きながらフラフラ歩く。
「アイツがいないとなると演目を変えるしかない。『月の娘の狂詩曲』はどこで演ってもハズレないウチの劇団の得意技なんだが。しかし、アイツは地方回りの巡業と侮って舞台をすっぽかすなんて、後でどうなるか解ってるのか? 領主の顔に泥を塗るようのものだぞ?」
マネージャーが追い詰められた心境になるのも理由がある。既に領主の代官から今回の支度金を受け取っている。
かつて西方の開拓地に人が根付くようにと、魔獣の危険がある地域に足を伸ばす芸人を支援する政策があった。できたばかりの村に娯楽を届け、住民の不満と不安を解消する。今でもスピルードル王国にその名残はあり、その芸を認められた芸人が辺境の村や町の祭りを盛り上げるとなれば、貴族はこれを支援する。
「貴族との約束を破った木っ端芸人に先があると思うのか? アイツはそういうとこが抜けてやがる。くそ、俺がこれまで演劇を生業にしてんのは、こんなバカバカしい終わりを迎えるためじゃねえぞ」
マネージャーと言えば聞こえはいいが、この男が小さな旅劇団でする仕事とは、裏方の何でも屋だ。
男はかつては舞台に立ち、しかし自分の才能に見きりをつけて、それでも演劇から離れられずしがみつくように小さな旅劇団の仕事をしていた。
「とにかく、あと3日しかない。祭りの日までになんとかしないと。演目は変えるしか無い。王国で『蜘蛛の姫の恩返し』ミュージカルがウケてから、ウチの『月の娘の狂詩曲』も評判いい。だが、惜しいがアイツがいないと無理だ。演目を変えるなら衣装と小道具はちょいと直して、明日になればへこんだ座長も復活するだろうし……」
ブツブツと呟きながら夜道を進む。
そのとき男の耳に声が聞こえた。
「なんだ? この夜中に、女の歌?」
マネージャーは顔を上げ歌の聞こえる方へと顔を向ける。これからどうするか、と没頭していた思考から呼び戻される。聞こえるのは不思議な歌声と憶えのある歌詞。
♪月の娘は夜に歌う
帰れぬ故郷を見上げて歌う
マネージャーは呼ばれるように歌の聞こえる方を向く。町の外れの木々の向こう側に足を向ける。
(大声で歌っているわけでは無い。なのに何を言っているのかはハッキリとわかる。まるで耳の近くで囁いているように聞こえる。なんだこの声は?)
一言で言えば通る声。だが夜とはいえ月の明かりとランプの明かりで見えない先の遠くの声が、これほどハッキリと聞こえるとは。マネージャーはランプを掲げ道を外れ、草を掻き分け夜の木々の中へと。
(確か、この先には湖があったはず。夜中の妖しげな歌に誘われ近づけば、ろくでもない目に会うのは妖精譚か怪異譚のお約束。だが、まさかな、ここは魔獣深森からまだ遠い)
ランプの明かりを頼りに慎重に進む。進むほどに歌はよく聞こえるようになる。水音もきこえる。
♪夜になればそこにある
だけど、手を伸ばしても届かない
朝日が登れば消えてしまう
だから、夜に歌を届けて
夜には星を
地には花を
花を捧げた、あなたに報いを
草を掻き分けた木の向こう、広がる湖面に辿り着いたマネージャーはその光景を見て息が止まる。
月明かりの下、大きな白鳥が羽を広げて踊る。くるりと回り、水しぶきが跳ねる。
(?な、ん、だ?)
馬より大きい白鳥など見たことは無い。湖面に立つのは一羽の巨大な白鳥。しかもその背に女が1人。人を乗せて湖面に立ち、羽を広げて踊る。
♪暫し忘れさせてくれますか?
わたしと踊ってくれますか?
今は遠い故郷を隠す
花束で目隠しするあなた
よく見ればその白鳥には首が無い、頭が無い。目を凝らしてよく見れば、その背に女を乗せているのでも無い。
白鳥の首があるべきところから、裸の女の上半身が生えている。月の明かりの下、湖面の舞台に白金の髪の乙女が踊る。上半身は人の娘、下半身は巨大な白鳥の半人半鳥が。
マネージャーは息をするのも忘れ、魂を奪われたかのように異形の舞いを見つめる。乙女の舞いは、優雅に伸ばした指先は夜空の星を摘まむように踊り、水しぶきは水晶のように煌めく。歌に合わせて巨大な白い翼が翻り湖面を撫で、上がる湖水の飛沫と白い羽が異形の乙女を飾る宝石のように光る。
♪月の娘は夜に歌う
帰れぬ故郷を見上げて歌う
だけどわたしを踊らせるのは
わたしの手を引く、地に立つあなた
目を奪われ石のように固まったまま、マネージャーは白鳥の乙女の舞いを見つめる。
(これが、本物の月の娘、なのか)
胸が震え息もできない。現実感の無い夢のような湖面の歌劇に目を奪われる。
異形の乙女が楽しげにクルリとターンする。そのとき、ようやく自分を見つめる男がいることに白鳥の乙女は気がついた。
「あ」
目と目が合う。歌が止まり男と女は見つめ合う。舞い散る水しぶきと白い羽が湖面に落ちる。
(あぁ、止まってしまった)
マネージャーが見上げる先、白金の髪の乙女は眉を寄せて困った顔になる。腕を組み少し考えて、ハッと何か思いついたという感じで手をパンと打ち鳴らす。
直後に白鳥の姿はパッと消え湖面に水柱が立つ。
月明かりの下、白鳥の乙女の幻想的な歌と踊り。この世ならざる優雅な舞いに見蕩れ、その続きに何があるのか。
マネージャーは混乱している。混乱したまま、怪しげな異形から逃げることも思いつかず、ただ湖面を凝視する。歌と踊りの続きを渇望して。
(この俺が、歌と踊りにここまで持って行かれるのはいつ以来だ? この天上の歌劇に演奏を加えたならどうなる? 楽器は何がいい? 演出は? いや、この月下の幻想の続きとは? いったいこれから何が起こる? 何が始まる?)
マネージャーが見る先、水柱が消えると、湖面には白金の髪をずぶ濡れにした乙女がいる。
肩を抱くようにして、ちゃぷんと水面から頭を出している。黒い瞳がマネージャーを見つめたまま、これで行こうと女は決意してひとつ頷き、裸の乙女は口を開く。
「きゃ、きゃー、えっちー、覗きよー」
「誤魔化されるかあぁっ!!」
マネージャーは突然キレた。女は、きゃ、と一瞬身を竦め、逃げようと泳ぎ出す。
(逃がすか!)
身体の硬直が解け、動けるようになったマネージャーはランプを投げ捨て、服を着たまま湖に飛び込む。マネージャーを動かすのは白鳥の乙女の歌と舞いの続きを見たい、という芸術的な衝動。そして逃げる者を追う狩猟本能のような衝動。
女は先ほどまでの優雅な動きが嘘のように、水しぶきを上げ犬かきで泳ぎ進む。動揺しているのかわたわたとして進むのは遅い。
マネージャーは急ぎ泳いで女に追い付き肩を掴む。
「あんた! 『月の娘』を歌えるんだろ? 踊れるんだろ?」
「や! ちょっと! 離してくださいまし!」
「俺たちを助けてくれ! 頼む!!」
「は?」
キョトンとする白金の髪の乙女、肩を掴み振り向かせてその黒い瞳を見つめ、マネージャーは懇願する。
「あんたならできる! あんたにしかできない!! 頼む!!」
「ひゃい?」
湖に浮かび呆然とする裸の女に、必死に懇願する男を、白い満月が見下ろしていた。
◇◇◇◇◇
『月の娘』は南方から伝わったという古い民話。月の精霊の娘が夜空から転げ落ち、地上に落ちる。その月の精霊の娘が人の中で様々な騒動を起こす物語と歌。
マネージャーの劇団の『月の娘の狂詩曲』は、この民話をもとに今風にアレンジした喜劇。
祭りの日までの3日間でマネージャーは白鳥の乙女に台本を叩き込み、失踪した女優の代役としてファルフィを舞台に上げた。
ファルフィの演じる月の娘は、まるで本当に人の常識を知らない不思議な乙女のようで、観客を大いに笑わせ引き込んだ。
月の娘が故郷を偲び歌うシーンでは見ていた子供が釣られて泣き出すほどに。
結果としてファルフィ主演の『月の娘の狂詩曲』は大成功となった。以来、マネージャーはあの手この手と口八丁でファルフィを劇団に留めている。
「ファルフィは押しに弱く、勢いに流されやすい。だから座長の尻を蹴飛ばしてでもファルフィの出る脚本を書かせる。ファルフィが演りたいと思うような奴を。そして、ファルフィにしかできない、ファルフィが頼りだ、と言えばファルフィは口で文句を言いながらも嬉しそうにやってくれる。あとは自信だ。俺が自信満々に、俺に任せろ、俺についてこい、というノリで捲し立てる。テンション高めで。ファルフィが、あうあうしてる内に話を纏めたことにしてしまう。ファルフィを逃がさないようにするためには、俺が傲慢に自信を持って、そして舞台を成功させ続ける。他には……」
マネージャーはかつて舞台に立っていた。自分には演者としての才能が足りないと感じて舞台を下りた。
だがマネージャーは気づいていない。かつて、ちやほやされたいと舞台に立っていた頃の演技と、ファルフィを引き留める為の演技では真剣さが違うことに。
その真剣さこそが、ファルフィがこの劇団に留まる理由であり、ファルフィの悩みの種だった。
ファルフィを引き留める為の画策を練り続ける男を満月の明かりが照らす。マネージャーは窓の向こう側の満月を敵のように睨み立ち上がる。
「悪いが、ファルフィは帰さない」
月の視線を遮るようにシャッと音を立ててカーテンを閉める。口から溢れそうになる言葉も隠すように飲み込む。
(あれは俺が見つけた、月の娘だ)
■ファルフィ&マネージャー
キャラクター設定考案
K John・Smith樣
加瀬優妃 様
m(_ _)m ありがとうございます